第六章 片付けの夜
文化祭の閉幕後、学校の中には奇妙な静けさが戻ってくる。
昼間あれだけ人で溢れていた廊下も、模擬店の匂いと紙くずの名残を残すだけになり、どこか夢の抜け殻みたいだった。後夜祭の音楽が体育館の方から薄く聞こえていたが、中庭にはもうわずかな作業音しかない。
僕は片付け班と一緒にケーブルを巻き、三脚を畳み、備品の数を確認した。
何か一つでも壊していたら大問題だ。成功の余韻に浸るのは、そのあとでいい。
ようやく一段落したころには、空はすっかり夜になっていた。
中庭にあったはずの深海は、もうどこにもない。
校舎はただの校舎に戻り、昼からの熱狂が嘘みたいに静かだった。
僕は一人でパイプ椅子を運びながら、妙な疲労感に包まれていた。
身体の疲れだけではない。二ヶ月間、張りつめていた糸が一気に緩んだときの、空っぽに近い感覚。
そのとき。
「佐藤くん」
声がして振り返る。
阿久津が立っていた。
制服の袖を無造作にまくり、髪は少し乱れている。
手には小さなトロフィーが握られていた。文化祭実行委員会から贈られた最優秀企画賞。安っぽい金色なのに、妙に重そうに見えた。
「お疲れ」
「お疲れ」
それだけ言って、しばらく沈黙が落ちた。
夜風が少し冷たい。どこかでガムテープを剥がす音がした。
阿久津はトロフィーを見下ろしていた。
その横顔に、さっきまで中心で笑っていた人間の華やかさはなかった。むしろ、祭りのあとに一人取り残されたみたいな静かな顔だった。
「……ねえ」
「うん」
「さっき、いっぱい褒められた」
「そうだろうね」
「すごいねって、学校変えたねって、革命だねって」
彼女の声には、誇らしさと、少しだけ戸惑いが混ざっていた。
「でも、それ聞くたびに、なんか変な感じがした」
僕は何も言わずに待った。
「だって、私一人でやったわけじゃないから」
そう言って、彼女は真っ直ぐに僕を見た。
「会議の日、私一人だったら終わってた」
夜の中庭で、その言葉はやけにはっきり響いた。
「たぶん、準備してきたこと全部話す前に、“変な一年生”で終わってた。頑張ってたことも、考えてたことも、届かなかったと思う」
僕は軽く肩をすくめた。
「君はあのとき十分すごかったよ」
「でも、すごいだけじゃ足りなかった」
即答だった。
その目には迷いがなかった。
「佐藤くんが立ってくれたから、みんな信じたんだよ。君が言うなら現実味があるって。君が責任を持つって言ったから、みんな足を入れられた」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にずっと残っていた、名前のつかないしこりが少しずつほどけていくのを感じた。
周囲の評価は単純だ。
阿久津は「0を1にした創造主」。
僕は「1を10にした実務者」。
それは、ある意味で正しい。
だが、本当はもう少し別のものがある。
最初の狂気を見たときに、それを笑って終わらせず、自分の信用を差し出して「行ける」と言うこと。
その決断の重さ。
それがどれだけ孤独か。
彼女だけは、それをちゃんと見ていた。
「ありがとう」
阿久津が言う。
「私、あのときたぶん、本気で一人で飛び込むつもりだった。でも、佐藤くんが後ろからついてきてくれたから、海が道になった」
僕は笑った。
照れ隠しもあったし、真正面から受け取るには少し重すぎる言葉だったからだ。
「僕はただ、君が起こした波紋を、みんなが歩ける形に直しただけだよ」
「それが一番難しいんだよ」
「そうかな」
「そうだよ。だって、一人で夢見るのは、正直そんなに難しくないもん」
阿久津はトロフィーを胸元でくるりと回した。
「でも、他人の夢を、みんなが信じられる形にするのって、全然別の才能だよ」
僕は返事をしなかった。
言葉にしてしまうと軽くなる気がしたからだ。
代わりに、少しだけ空を見上げた。
雲の薄い夜で、星がいくつか見えていた。
ふと、自転車の轍を思い出した。
雪の日、まだ誰も通っていない道に一筋だけついたタイヤの跡は、ただの偶然に見える。
けれど、そのあとにもう一本、同じ方向へ並んで跡がつくと、それは「道」になる。
人はそこを安全だと思い始める。続いていい場所だと認識する。
最初の轍が、勇気だとしたら。
二番目の轍は、承認なのかもしれない。
「ねえ、佐藤くん」
阿久津が、少しいたずらっぽい顔で言った。
「来年のことなんだけど」
「その顔やめろ、嫌な予感しかしない」
「中庭に、巨大な月を浮かべるっていうのはどう?」
思わず、声を立てて笑ってしまった。
疲れているはずなのに、変なくらい笑えた。
「気が早すぎるだろ」
「でも絶対きれいだよ。校舎の上に、こう……」
阿久津はもう両手で空に円を描き始めている。
本当に懲りない。
ほんの少し前まで不安で震えていた人間と同一人物とは思えないくらい、次の景色を見つけるのが早い。
僕は笑いながら片手を上げて制した。
「ストップ。まず休む。次に、どんな無茶でも先に企画書に落とす」
「えー、厳しい」
「当然。君の“すごい”は、そのままだと誰にも伝わらないから」
阿久津はむっとしたあと、すぐに吹き出した。
「わかってるよ。そこはもう、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「前よりは成長した」
それは、たしかにそうかもしれない。
彼女のメモは相変わらず雑だろうが、前より少しは“渡す形”を意識するようになるだろう。
僕と過ごしたこの数ヶ月が、少しでも彼女の中に残るなら、それは悪くない。
夜風がもう一度吹いた。
中庭は静かだった。
けれど、その静けさは、最初の会議室にあった停滞の静けさとはまるで違っていた。
こちらの静けさの下には、確かに熱が残っている。
一度海を見た場所の静けさだ。
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