第三章 海図なき航海
企画が正式に通ったのは、それから一週間後だった。
もちろん、あっさりとはいかなかった。
前田先輩と神谷先輩を交えて再度プランを詰め直し、担当教員との打ち合わせを二度行い、予算表を作り直し、安全管理計画を追加し、投影時間を20 分以内 に制限し、校舎壁面への直接的な負荷がないことを説明し、それでもなお「受験生の勉強への影響は?」という問いに何度も答えなければならなかった。
最後の教員会議の日、職員室前のベンチで阿久津はずっと落ち着きなく立ったり座ったりしていた。僕は隣で資料ファイルを抱え、なるべく平静な顔をしていたが、内心では胃が縮むような思いだった。
15 分ほどして担当教員が戻ってきた。
「今回、特別に条件付きで許可が出たぞ!」
それだけ言われた瞬間、阿久津は本気でその場にしゃがみ込みそうになった。
僕も胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
けれど、本当の修羅場はそこからだった。
企画が通ることと、企画が実現することは、まったく別の話だ。
班編成が始まった翌日には、僕たちはすでに人手不足に悩まされていた。
映像班、音響班、照明班、広報班、会場整理班。必要な役割を細かく分けて募集をかけたが、最初は誰もが腰が引けていた。
「面白そうだけど、自分に何ができるかわからない」
「技術って言われると無理そう」
「時間取られすぎるのは困るし」
当然だと思う。
しかし、先頭に立つ勇気を持つ人間は少ない。
大半の人間は、何かに参加するとき、まず “安全に参加できるのか” を確かめる。
だから僕の役割は、阿久津の熱をそのまま押しつけることではなかった。
その熱に、足場をつくることだった。
「映像編集ができなくても大丈夫。素材整理だけでも必要だし、タイムラインの確認作業もある」
「照明班は難しいことをいきなりやるわけじゃない。まずは投光器の設置と角度の微調整が中心で」
「本番に来られない人は事前準備だけの参加でもいい」
人が動くのは、夢を見せられたときだけじゃない。
自分にも届く形で役割を示されたときだ。
阿久津の言葉は、しばしば空を飛びすぎる。
「もっと深海の底みたいにしたい!」
「魚の群れが来たあと、一気に光が弾ける感じで!」
「クジラは出てきた瞬間に『うわっ』てなる大きさにしたい!」
それ自体は間違っていない。むしろ、彼女が持っているのは完成形の景色だ。だからこそ、人を引きつける。
けれど、そのままでは実務にならない。
「わかった。じゃあ背景の青は暗めに落とす。彩度は下げて、白い粒子を足す。クジラの出現前は音を一段落として溜めを作る。光が弾けるところは、照明チームにストロボじゃなくて拡散光で対応してもらおう」
僕がそう言うと、阿久津は大きく頷く。
「そう、それ! それが言いたかったの!」
彼女の目はいつだって本気だ。
本気で世界を見ていて、本気でそれを現実に引きずり出そうとしている。
その熱量はときどき危うい。周囲の体力も、手間も、時間も、限界を平気で飛び越えようとするからだ。
だからこそ、誰かが翻訳しなければならない。
阿久津が見ている “景色” を、みんなが作業できる“工程”に変える人間。
彼女の中の「すごい」を、スケジュール表、班分け、手順書、チェックリストに落とす人間。
それが、気づけば、僕の役割になっていた。
十月に入ると、毎日が速度を増した。
放課後になれば、会議室の机はノートパソコンと延長コードで埋まり、教室の隅では後輩たちが素材画像を選別し、阿久津は校舎の写真に映像イメージを重ねたラフ案を何枚も作っては壁に貼った。
「ここ、魚が窓から出てくる感じにしたい」
「この角の陰がもったいないから、サンゴの影を置きたい」
「クジラの尾びれが通るとき、窓のところで少しだけ映像が歪むようにできない?」
無茶だな、と何度思ったかわからない。
だが、完全に無理かと言われると、考えれば意外と道があるのが腹立たしかった。
僕は放課後のたびにタスクリストを更新し、作業時間を割り振り、進捗の遅れている班をフォローした。
一番面倒だったのは、技術そのものより、温度差の調整だった。
本気で熱中している人間と、手伝いはするけれどそこまで命は懸けていない人間。
この二者の間に生まれる摩擦は、どんな組織にもある。
「阿久津先輩、こだわり強すぎません?」
「いや、それ前に直したじゃん」
「またやり直しって言われても、今日は塾あるんだけど」
ある日、映像班の一年生がついに不満を漏らした。
阿久津はその場で言い返しかけた。
「でも、ここ妥協したら絶対――」
その続きが出る前に、僕は間に入った。
「今日はここまででいい。修正箇所は僕が整理して明日共有する。みんな、一回休憩しよう」
空気は紙一重だった。
ここで阿久津の熱がそのままぶつかれば、人は離れる。
彼女に悪気はない。ないからこそ危うい。
休憩室代わりの空き教室で、阿久津は不満そうに机へ突っ伏した。
「なんでそこで止めるの!?。今やらないと間に合わないのに!?」
「間に合わなくなるのは、作業が遅れるときだけじゃない 」
「 え? 」
「人が離れたときもだよ」
彼女は黙った。
僕は窓際に寄りかかって、少しだけ言葉を選んだ。
「君が見てる完成形はすごい。たぶん本当にすごいものになる。でも、全員が同じ熱量で見えてるわけじゃない。半分くらいの人は、まだ『なんか大変そうな企画』としてしか見えてない」
阿久津は机に頬をつけたまま、こちらを見た。
「じゃあ、どうすればいいの」
「自分の景色をそのまま押しつけないこと。みんなが一歩ずつ近づける形にして渡すこと」
「……それ、難しい」
「難しいよ。だから僕がいる」
言ってしまってから、少しだけ気恥ずかしくなった。
だが、阿久津は笑わなかった。
むしろ、妙に真剣な顔で僕を見ていた。
「佐藤くんって、そういうことさらっと言うよね」
「言ってない。説明しただけ」
「それを、さらっと言うって言うんだよ」
彼女はようやく小さく笑った。
その笑い方を見たとき、僕は少しだけ安心した。
彼女の熱は危うい。
けれど、折れないだけのしなやかさも、ちゃんとある。
夜の校舎での試験投影が始まったのは、文化祭の二週間前だった。
日が落ちるのを待ち、校舎脇に借りてきたプロジェクターを設置する。
延長コードを引き回し、三脚の高さを調整し、投影面の歪みを微修正する。
気温は昼よりぐっと下がり、吐く息がかすかに白い。
最初のテストは、正直ひどかった。
映像は壁からずれて窓枠に引き裂かれ、魚は本来いるはずのない柱の角から突然切れ、クジラはなぜか職員室の窓の真ん中で胴体が折れたみたいに見えた。
照明班の後輩が「ホラーだ……」と呟き、音響班が笑いを堪えきれずに肩を震わせた。
阿久津はショックを受けた顔で壁を見上げていた。
「……こんなの、全然違う」
「最初からうまくいくわけないだろ」
僕はそう言いながらも、内心は少し焦っていた。
壁面投影は思っていた以上に難しい。校舎の凹凸は美点にもなれば致命傷にもなる。昼間に計算した数値が、夜になるとまるで足りない。
だが、そのとき初めて、班の空気が少し変わった。
うまくいかなかったことが、逆に全員の現実感を揃えたのだ。
これは夢物語ではない。
本当に、手を動かさないと形にならない。
そこからの数日間、誰もが目の色を変えた。
映像班は窓枠の位置を一つずつトラッキングし直し、照明班は角度調整を何度も繰り返し、音響班はわずかな遅延まで潰していった。
阿久津は校舎の写真に赤いペンで修正点を書き込み続け、僕はそのすべてを工程表へ戻して、また班に振り直した。
夜の中庭には、いつしか熱が生まれていた。
蛍光灯の白い教室ではなく、暗闇の中でみんなが同じ壁を見上げる時間。
それは、たぶんこの企画が初めて“みんなのもの”になり始めた瞬間だった。
ある夜、三度目のテストで、ついに青い光が壁一面へ滑らかに走った。
ざらついたコンクリートが、一瞬で水になった。
誰も声を出さなかった。
ただ、見上げていた。
白い粒子が漂い、窓の凹凸が岩礁みたいな奥行きを作り、光の揺らぎが本当に水面の反射に見えた。
職員室の窓も、理科準備室の壁も、何もかもが海の底に沈んでいく。
その静寂を破ったのは、一年の女子の小さな声だった。
「……すご」
たったそれだけの一言だった。
でも、その一言に全部が詰まっていた。
僕は横目で阿久津を見た。
彼女は口を少し開けたまま、壁を見ていた。自分の頭の中にだけあった景色が、初めて現実の質量を持って目の前に現れたときの顔だった。
その顔を見て、僕は思った。
ああ、ここまで来たんだな、と。
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