無能力者に生まれついて

冬飼 陸

第1章:無能力者・駿河屋美琴編

第1話 一族の守護者

駿河屋(するがや)家は、古来より「天眼」や「念動力」といった強大な超能力を継承してきた名門である。その血筋に連なる者は、成人を迎えるまでに何らかの力を発現させるのが一族の「常識」だった。


しかし、長女として生まれた駿河屋美琴(するがや みこと)には、十六歳になってもその兆しが一切現れなかった。


放課後の道場では、弟の蓮(れん)が指先から青い火花を散らし、宙に浮かせた標的を次々と射抜いている。父の満足げな頷きを背に、美琴は黙々と道場の床を雑巾で拭き上げた。


「美琴、もうそんなことは使用人に任せなさい」


父の言葉は突き放すような冷たさではなく、むしろ「能力のない娘に何を期待すればいいのか分からない」という困惑に近いものだった。超能力者にとって、物理的に体を動かして掃除をすることは、効率の悪い、前時代的な行為に映るのだ。


「いいえ、お父様。これが私の日課ですから」


美琴は微笑んで答える。彼女は一族の中で唯一、重力に従って歩き、指先で温度を感じ、自分の耳で空気の振動としての音を聞く。周囲が「力」というフィルターを通して世界を見る中で、彼女だけが、ありのままの不自由な世界を生きていた。


ある夜、駿河屋の本邸を未曾有の「霊的磁気嵐」が襲った。一族の力が強大すぎるがゆえに引き寄せられた、エネルギーの逆流現象である。


「くっ……力が、制御できない……!」


強力なテレパスである父は、増幅された周囲の思考に脳を焼かれ、膝をついた。発火能力を持つ蓮は、自分の意志に関係なく吹き出す炎に巻かれ、パニックに陥っている。能力が高ければ高い者ほど、乱れたエネルギーに同調し、己の力に溺れて身動きが取れなくなっていた。


家中に警報が響き、火の手が上がる。使用人たちもまた、超能力に依存した消火システムがダウンしたことで右往左往するばかりだった。


その混乱の中、ただ一人、平然と廊下を走る影があった。美琴だった。


彼女には、狂ったように荒れ狂う霊的エネルギーを感じ取る感覚がない。だからこそ、その影響を一切受けることがなかったのだ。


「蓮、しっかりして! 目を閉じて、呼吸を整えるの!」


美琴は炎の中へ飛び込み、パニックで過呼吸に陥っていた弟の肩を強く掴んだ。超能力による保護を失い、ただの少年として震える蓮を、彼女は鍛え上げた細い腕で抱え上げる。


彼女は知っていた。力がなくても、ドアの鍵は物理的なレバーで開くことを。炎は濡れた毛布で防げることを。そして、苦しい時には誰かの手のぬくもりが、どんな鎮静魔法よりも効くことを。


嵐が去った後、駿河屋の家系図において、美琴の名は「無能力者」という不名誉なレッテルから、「一族の守護者」という特別な意味を持つものへと変わった。


父は、あの日自分を安全な場所まで引きずっていった娘の、煤で汚れた力強い手のひらを思い出し、自らの傲慢さを恥じた。


美琴は相変わらず、超能力を使うことはできない。しかし、彼女が淹れるお茶の温度や、庭に咲く花を愛でる眼差しには、どんな強力なサイコメトリーでも読み解けない、深く優しい「人間の色」が宿っていた。


そうして再建した駿河屋家の朝は、美琴の鋭い声から始まる。


「……あら、こんなところに埃が。使用人の皆さんは、念動力で表面だけ撫でれば掃除が終わると思っておいでかしら?」


使用人が三人がかりで磨き上げたはずの廊下。美琴が指先でスッと床をなぞり、わずかな曇りを見つけるたびに、屋敷には緊張が走る。彼女の指摘は常に正論であり、物理的な「清掃」において彼女の右に出る者はいなかった。超能力に頼り切った者たちが気づかない細部に、彼女の目は執拗に届くのだ。


さらに家族を困惑させているのは、彼女の過剰なまでの潔癖さとこだわりだった。


「お風呂は、お一人が入るたびに全てお湯を抜き、浴槽を磨いてから沸かし直すのが当然でしょう? 誰かの『残留思念』が混じったお湯に浸かるなんて、考えられませんわ」


超能力一家である駿河屋家では、風呂のお湯にまで微細な魔力が溶け込む。美琴はそれを「不潔」と断じ、一人が入浴するたびに数十分の「清掃タイム」を強制した。父も弟も、美琴のこの「お局ルール」には逆らえない。一度でも文句を言おうものなら、「あら、能力のない私はこれくらいしか楽しみがありませんのに」という、最強の盾を突きつけられるからだ。


極めつけは、毎朝の食卓である。

美琴は自分が作らせた(あるいは自ら手を加えた)料理に対し、誰よりも厳しい批評家となった。


「……まあ、辛いこと!」


一口啜った味噌汁を置き、美琴は眉をひそめて溜息をつく。


「出汁の取り方が雑ですわ。素材の悲鳴が聞こえてくるようです。超能力で味を誤魔化そうなんて、言語道断です」


強力なサイコメトラーである父も、火を操る弟も、美琴の言葉に縮み上がり、黙々と味噌汁を飲み干すしかない。彼らは山を砕き、海を割る力を持っていても、美琴が放つ「正論」という名の物理的な圧力を跳ね返す術を知らなかった。


こうして、かつての「無能力者の美少女」は、駿河屋家における「絶対権力を持つ姑的存在」へと進化した。


彼女が通るたびに、超能力者たちは背筋を伸ばし、服のしわを気にする。

「能力がない」ということは、もはや彼女の弱点ではなく、家族の誰一人として踏み込めない「聖域」を利用した、最も強力な武器になっていたのである。


今日も駿河屋の本邸には、掃除機の音と、美琴の高笑い……ではなく、冷徹な指摘の声が響き渡っている。

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