黒崎探偵事務所 Ⅳ -遺品の中の空白-
定年プログラマー
第1章 返されなかったもの
黒崎探偵事務所に来る依頼人には、最初から怒っている人と、まだ怒るところまで辿り着いていない人がいる。
その日の午後に来た女性は、後者だった。
古いエレベーターが上がってきて、杉本奈緒が応接スペースへ案内したとき、彼女は濃紺のジャケットの前を指先で軽く押さえていた。きちんとした服装だったが、肩だけが少し硬く見えた。緊張しているのか、もともとそういう姿勢なのかは分かりにくい。
ただ、椅子に腰を下ろしてバッグを膝に置いたあとも、両手はその持ち手を離さなかった。
「藤倉亜希さんですね」
杉本がそう確認すると、女性は小さく会釈した。
「はい。今日は、急にお時間をいただいてしまって」
「いえ。温かいものと冷たいもの、どちらがよろしいですか」
「……温かいものを」
「お茶でよろしいですか」
「はい」
杉本が給湯スペースへ下がるのを見届けてから、黒崎は向かいの椅子に腰を下ろした。少し遅れて、水瀬と佐伯も席につく。
亜希は三人の顔を順に見て、すぐに視線を膝へ戻した。
「すみません。こういうところに来るの、初めてで……何から話せばいいのか」
「お兄さんの遺品に関して、ということでしたよね。分かるところからお話しいただければ結構です」
黒崎は言った。
「遺品のことでも、お兄さんのことでも構いません。話しやすい順で聞かせてください」
亜希はわずかに息を吐いた。助かった、というほどではないが、ようやく始めていいと許された顔だった。
「兄は、藤倉直哉といいます。先月亡くなりました」
声は落ち着いていた。崩れないように抑えているというより、同じ説明を何度か繰り返すうちに、言葉の角が少しずつ削れていったような話し方だった。
「病気です。前から分かっていたので、急なことではありませんでした。入院していて、そのまま病院で」
黒崎は頷いた。
「お兄さんは、どういうお仕事をされていたんですか」
「会社勤めでした。ずっと同じところじゃないんですけど、ここ数年は、製造系の会社で現場管理に近い仕事をしていました」
「その会社から返却された、お兄さんの私物で、何か気になることがある、ということですか」
水瀬が言うと、亜希は少し間を置いてから頷いた。
「兄から聞いていたリストに、ないものがあるんです」
そこで杉本が湯呑みを運んできた。亜希は礼を言って受け取ったが、すぐには口をつけなかった。湯気だけが、膝の前で細く揺れている。
「兄はあまり物を持たない人だったので、返ってきた荷物もそんなに多くありませんでした。衣類とか、財布とか、小さい電化製品とか、そのくらいです。病院に持ち込んだものと、会社に残っていた私物、それからアパートにあったものを合わせて、だいたいは揃っていたと思います」
彼女はそこで一度言葉を止めた。
「でも、一冊もありませんでした」
「何がですか」
佐伯が聞く。
「ノートです。たぶん、兄が個人的に書いていた記録みたいなもの、だと思います」
黒崎はその言葉にだけ少し反応した。
「会社の正式な記録というよりは、個人的に残していた記録に近い、ということですか」
「はい。兄は、会社の書類とは別に、自分で日々のことを書いていたみたいで……何があったとか、誰が何を言ったとか。私も中身を見たことはありません。ただ、昔からメモを取る人ではありました」
「その記録の存在を、あなたは知っていた」
「きちんと聞いていたわけではありません。でも」
亜希は、湯呑みの縁に触れた。指先だけで温度を確かめるような触れ方だった。
「亡くなる少し前に、一度だけ兄が言ったんです。もし、自分に何かあったあとで、会社の言うことだけで話が終わるようなら、俺のノートを見てくれって」
佐伯が顔を上げる。
「俺のノート、ですか」
「はい。そんな言い方でした。ただ、ノートと言ったり、日誌と言ったり、メモと言ったり。なんかバラバラで、曖昧なんです。兄は、そういうところがあって」
その最後の一言だけ、ほんの少し苦かった。
「何か、大事なことが書いてあるのか、と聞いたら、兄は『使わないで済めば、そのほうがいいけど』って。それで終わりでした」
「そのとき、詳しくは聞かなかったんですか」
水瀬の問いに、亜希は首を振った。
「聞きました。でも、ちゃんと答えませんでした。大げさなものじゃないとか、気にしなくていいとか、そういう言い方で」
「普段から、そういう話し方をされる方だったんですか」
杉本がやわらかく尋ねる。
亜希は少しだけ笑いそうになって、やめた。
「いえ。そもそも、あまり話していませんでした」
黒崎は黙って先を待った。
「ここ数年、そんなに頻繁に会っていたわけではないんです。仲が悪いというほどでもないんですけど、何となく距離ができたままで。たまに連絡が来ても、体調のこととか、生活のこととか、そのくらいでした」
「それで、その話だけが引っ掛かったんですね」
「はい。だから変だったんです。急に、そんなことを言う人じゃないので」
初めて、亜希の視線がまっすぐ黒崎へ向いた。
「会社には、すでに確認されたんですね」
「しました。兄の私物の中に、ノートみたいなものはなかったかって。でも返事は曖昧で。見当たらない、という言い方でした。業務に関するメモなら会社の資料の中にある可能性もあるが、私物として把握していたものは返している、と」
「病院側には、確認されましたか」
「そちらも聞きました。病室にあった荷物や持ち込み品を確認しましたけど、ノート類の記録は特にないそうです。兄が持っていた鞄も返ってきていて、中にはありませんでした」
「ご自宅については」
「アパートも見ました。見つかりませんでした」
湯呑みの中で茶の表面が少し揺れた。亜希の声が少し疲れて聞こえる。
佐伯が少し迷いながら言う。
「失礼ですが、その私的業務日誌が、どうしてそこまで気になるんですか」
亜希は不快そうにはしなかった。むしろ、その問いを待っていたように見えた。
「兄の勤めていた会社が、今、労災の件で遺族から訴えられているんです」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わる。
「二年くらい前に、その会社で社員の方が亡くなっています。事故だったのか、薬剤の扱いに関わる健康被害だったのか……詳しいことは、私も全部は分かりません」
「お兄さんは、その件に関わっていた」
「現場にいたみたいです。中心だったのか、どこまで知っていたのかまでは分かりません。兄はそういうことも、はっきり言いませんでしたから」
水瀬が少しだけ身を乗り出す。
「藤倉さんは、その私的業務日誌に、社員の方が亡くなった件や、今の訴訟につながることが書かれているかもしれない、と考えているんですね」
「……そう思っています」
亜希はそう言ってから、少しだけ言い直した。
「でも、それだけじゃないんだと思います」
「と言いますと」
黒崎が促す。
「兄が何かを残そうとしていたんだとは思うんです。でも、もし本当にそんなに重要なものなら、私じゃなくて、もっと別の人に渡したはずです」
「別の人」
「弁護士とか、その遺族の方とか。少なくとも、ずっと疎遠だった妹にじゃない」
杉本が、そこでほんの少しだけ目を細めた。
「それでも、最後にあなたのところへ話が来た」
「はい」
「それを、どう受け取っていますか」
少し長い沈黙があった。亜希は湯呑みを持ち上げたが、やはり飲まなかった。熱を待っているのか、それとも今口をつけると何かが崩れるのか、自分でも決めかねているようだった。
「……正直に言うと、あまりいい気はしませんでした」
彼女は小さく言った。
「兄が最後に私を頼ってくれた、みたいな話にしたくないんです。そんなきれい事じゃない気がして」
黒崎は何も言わない。
「もし本当に大事なものだったなら、兄は自分で渡すべきだったと思います。死ぬ前に。あるいは、もっとちゃんと説明して、私が何を受け取ることになるのか話してから渡すべきだった。でも、あの人はそうしなかった」
泣きそうでも、怒鳴りそうでもない。その代わり、言葉の端に乾いた疲れが残っていた。
「中身も言わない。誰に見せるべきかも言わない。ただ、『会社の言うことだけで終わるなら見てくれ』って。そんな言い方をされたら、結局、後はお前が考えろっていうことじゃないですか」
佐伯が小さく息を飲んだ。
水瀬は視線を外さないまま尋ねる。
「それでも、探偵を使ってまで、その日誌を探そうと思われたのは、どうしてですか」
一呼吸おいて、水瀬は続けた。
「一通り探されたのなら、ノートなんてなかった、で終わらせることもできたと思います」
亜希はしばらく黙っていた。それから、ようやく湯呑みに口をつけた。少し熱かったらしく、眉がわずかに動く。
「それを、兄が分かっていたからです」
「分かっていた、というのは」
水瀬が問い返す。
「私が、放っておけない人間だってことです」
亜希は湯呑みを両手で包んだ。温度を確かめるというより、指先を落ち着かせるための仕草に見えた。
「兄は、自分では最後まで動かなかったんだと思います。会社のことも、事故のことも、何か分かっていたのに、誰かにちゃんと渡すところまでは行かなかった。だけど、死ぬ前になって、私にだけそれらしいことを言った」
佐伯が小さく息を飲んだ。
「託された、ということですか」
亜希はすぐには頷かなかった。
「そんなきれいな言い方はしたくないです」
声は荒くなかった。けれど、その静かさの奥に、抑えた怒りがあった。
「兄は、私なら気にすると思ったんだと思います。兄の言葉を無視できない。会社の中で何かが消えたかもしれないと思ったら、放っておけない。そういう私の性格を知っていて、最後の面倒だけこっちに置いていった」
「面倒、ですか」
「はい」
亜希は短く答えた。
「どうせ面倒を託すなら、筋を通してからにしてほしかったんです。どこにあるのか。誰に見せるべきなのか。自分は何を知っていて、何をしなかったのか。そこまで言ってから渡すべきだった」
言ってから、亜希は少しだけ目を伏せた。
「でも、兄はそうしなかった。自分では最後まで持たなかったくせに、私なら捨て置けないだろうって分かっていた。そこが、腹が立つんです」
水瀬は視線を外さなかった。
「それでも、探すんですね」
「はい」
亜希は答えた。
「腹は立ちます。でも、ここで私が放っておいたら、兄が最後に残した曖昧さまで、そのまま通ってしまう気がします」
少し間を置いて、亜希は続けた。
「兄を正しい人にしたいわけじゃありません。ただ、知っていたのに知らなかった人みたいに終わるのも、違うと思うんです」
黒崎はそこで、もう一度だけ依頼の形を確かめた。
「確認させてください。藤倉さんが知りたいのは、お兄さんの私的業務日誌が実在したのかどうか、そのうえで今どこにあるのか、そしてどのような経緯で遺品から漏れたのか、ということでよろしいですか」
「はい」
「その日誌が、社員の方が亡くなった件や、現在の訴訟につながる内容を含んでいる可能性がある」
「はい。でも……」
「でも」
「私は、正義のためにそれを見つけたいわけじゃありません」
黒崎は小さく頷いた。
「兄が正しかったって証明したいわけでもないです。たぶん、そんなに単純じゃないと思うので。ただ、このまま会社の中で何もなかったみたいに消えて、それで終わるのが……」
「嫌なんですね」
「はい」
そこまで言って、亜希はようやく茶を半分ほど飲んだ。湯気はもう、ほとんど立っていなかった。
黒崎は、ようやく依頼の本当の形を見た気がした。
亜希が恐れているのは、日誌が見つからないことそれ自体ではない。兄が何を知っていたのかも分からないまま、会社の説明だけで出来事が終わり、その説明の中で兄まで「何も知らなかった人」に収まってしまうことだった。兄が曖昧に残したものを、自分まで曖昧なまま見送ってしまうことでもある。
会社が何を守りたいのかは、まだ分からない。だが少なくとも、すでに一つの終わらせ方は始まっている。事故の説明。訴訟の言い分。故人の整理。その並びの中に、藤倉直哉という人間の輪郭まで一緒に収められようとしているのかもしれなかった。
「ご依頼はお受けします」
黒崎がそう言うと、亜希は少し驚いた顔をした。もっと確認や条件が続くと思っていたのだろう。
「まずは日誌の存在と所在を確認します。そのうえで、お兄さんの荷物がどのように整理されたのか、会社と病院、それからご自宅の流れを追います」
「……ありがとうございます」
「ただし」
黒崎は続けた。
「見つかったものが、藤倉さんの思われている通りのものとは限りません」
亜希は黒崎を見る。
「お兄さんにとって都合の悪い内容が含まれている可能性もあります。逆に、会社にとってだけ都合の悪い、という単純なものでもないかもしれません。それでも所在を確認しますか」
短い沈黙があった。壁掛け時計の音だけが、妙に近く聞こえる。
「……はい」
亜希は答えた。
「それでも、知っておきたいです」
黒崎はそれ以上は言わなかった。その答えで十分だった。兄を庇いたいわけでも、会社を罰したいだけでもない。
だが、知らないうちに足元へ置かれたものを、そのままにして帰る気もない。亜希の顔には、そういう疲れ方があった。
◇
亜希が帰ったあと、杉本が空になりかけた湯呑みを片づけながら言った。
「藤倉さん、お兄さんのこと、嫌いだったわけじゃないですよね」
佐伯が顔を上げる。
「そうですね……でも、好きだったって感じでもないですね」
「違うよ」
水瀬が先に言った。
「あれは好き嫌いの話じゃない。もっと面倒なやつ」
佐伯は少し考え込んでから、水瀬を見る。
「つまり、どういうことですか」
水瀬も、杉本も、すぐには答えを出さなかった。
好きか嫌いかで分けられる話ではない。三人とも、それだけは分かっているようだった。
黒崎は、さっきまで亜希が座っていた椅子を見た。持ち手を強く握っていた指の跡がまだ残っているような気がしたが、もちろんそんなものは見えない。
黒崎は立ち上がった。
「まずは荷物の流れを追う。会社、病院、アパートだ。直哉がどこに何を置いていたか、一度線を引き直す」
三人の視線が、黒崎へ集まった。
「はい」
水瀬がすぐ答える。
「労災訴訟の件は」
佐伯が尋ねる。
「表から確認する。事故の概要、会社の説明、遺族側の主張。日誌の所在とは別に、背景は押さえておいたほうがいい」
「分かりました」
杉本は依頼票をクリップで留めながら、ぽつりと言った。
「でも、見つかったとしても、すっきりはしなさそうですね」
黒崎は、その言い方を否定しなかった。
「そうだろうな」
窓の外では、日が落ちかけていた。向かいのビルのガラスに鈍い色の空が映り、その下を帰宅前の人波が流れていく。何かが終わったあとの時間帯だった。
だが、この依頼は死で終わっていない。終わらないまま、棚の上か箱の底か、どこか中途半端な場所に置かれ続けていたものを、ようやく取りに行こうとしている。
返されなかったのは、ノート一冊だけではないのかもしれない。ただ、それを今ここで言葉にしてしまうには、まだ少し早かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます