第21話

 そして迎えた、卒業式当日。

 式典はあっという間に終わり、教室は別れを惜しむ声とシャッター音で溢れかえっていた。

 俺はそそくさとその喧騒から抜け出し、階段を一段飛ばしで駆け上がった。

 向かう先は、約束の屋上。


 重い鉄扉を押し開けると、まだ冷たい春の風が頬を打った。

 フェンスの前に、彼女は立っていた。

 制服のスカートを風に揺らし、銀色の髪を春の日差しに透かせて。

 その背中は、いつか雑誌で見たトップモデルのようでもあり、あの日の泣き虫な女の子のようでもあった。


 足音に気づいた玲奈が、ゆっくりと振り返る。

 彼女は俺の顔を見るなり、小さくため息をつき、腕を組んだ。


「……遅いわよ。このミジンコ」

「悪い。クラスの奴らに捕まっててさ」


 俺が苦笑しながら近づくと、彼女はフンと鼻を鳴らした。


「相変わらず鈍くさいのね。……まぁいいわ。どうせ今日で、あんたのその冴えない顔も見納めなんだから」

「そうだな。お前のその減らず口ともお別れだ。……結局、最後まで俺への扱いは変わらなかったな」


「当たり前でしょ。あんたの前世はミジンコなんだから。来世でせいぜいクリオネくらいに昇格できるよう、徳を積むことね」


 出会った初日、1話目と全く同じ台詞。

 けれど、あの時は氷のように冷たかった彼女の声は、今はひどく優しく、そして微かに震えていた。


「……明日、発つんだよな。パリ」

「ええ。向こうの事務所と正式に契約したわ。語学学校に通いながら、下積みからやり直しよ」


 玲奈は空を見上げた。その横顔には、かつて「諦め」の影を落としていた迷いは微塵もない。


「遠いな」

「遠いわね。時差もあるし、あんたみたいなポンコツの相手をしてる暇なんて、1秒もなくなるわ」


 そう言い放つ彼女の瞳が、一瞬だけ潤んだように見えたのは、気のせいではないだろう。

 別れが確定している恋。

 俺たちは、お互いの気持ちを知りながら、あえて「付き合う」という選択をしなかった。

 彼女の夢への覚悟を鈍らせたくなかったし、彼女もまた、俺を縛りたくなかったからだ。


「……なあ、玲奈。俺は」

「ストップ」


 俺が言葉を紡ごうとした瞬間、玲奈がピシャリと制した。


「……それ以上言ったら、屋上から突き落とすわよ」


【3秒沈黙(限界まで堪えた感情)】


「……私、もう行くから。モデルとしてトップを取るまで、日本には帰らない。……だから」


 玲奈は俯き、ギュッと制服の裾を握りしめた。


「……3秒だけ」

「え?」

「……3秒だけ、抱きしめてあげてもいいわよ。あんたがどうしてもって言うなら、最後の情けで」


 顔を真っ赤にして、視線を泳がせながらの、最大級のデレ。

 これ以上ない不器用な彼女の「本音」だった。


「……俺がどうしてもって言わなくても、抱きしめるけどな」


 俺は一歩踏み出し、玲奈の細い身体を、腕の中にそっと閉じ込めた。

 ビクッと肩を震わせた彼女だが、抵抗はしなかった。

 それどころか、俺の背中に回された彼女の小さな手が、俺の制服をギュッと強く掴み返してきた。


 彼女のシャンプーの匂いと、春の風の匂いが混ざり合う。

 体温が伝わる。

 震える呼吸が聞こえる。


「……い〜ち」


 玲奈が、耳元でカウントを始める。


「……に〜い」


 少しずつ、その声が涙声に変わっていく。


「……さ、んっ……」


 3秒。約束の時間だ。

 俺がゆっくりと腕を離そうとした、その時だった。


「……っ」


 玲奈の腕の力が、さらに強くなった。

 俺の胸に顔を押し付けたまま、彼女は俺の制服を絶対に離そうとしない。


「……おい、玲奈。3秒過ぎてるぞ」

「……うるさい。私の体内時計は、パリ標準時なのよ。まだ3秒経ってない」


 そんな無茶苦茶な言い訳があるか。

 でも、その強がりが愛おしくて、俺は再び彼女を強く抱きしめ返した。


 ふと視線を上げると、隣の校舎の屋上に、見覚えのある人影があった。

 あの特攻服を着た金髪のバカ――勉だ。

 彼は俺たちの方を真っ直ぐに向き、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、ピシッと完璧な敬礼をしていた。

 ……あいつ、本当に最後まで謎すぎるだろ。でも、少しだけ感謝してやる。


 やがて、玲奈はゆっくりと顔を上げた。

 その目には涙がいっぱい溜まっていたけれど、彼女は俺の知る中で一番美しく、眩しい「最高の笑顔」を浮かべていた。


「……じゃあね、湊」


 初めて、名前で呼ばれた。

 ポンコツでも、ミジンコでもない、俺の名前。


「ああ。……いってらっしゃい、玲奈」


 それが、俺と銀髪のツンデレ少女の、高校生活最後の記憶。


 ***


 ――そして、数年後。


「……Merci(ありがとう)」


 俺はタクシーを降り、石畳の通りに足を踏み出した。

 目の前に広がるのは、歴史ある重厚な建物と、お洒落なカフェが立ち並ぶパリの街並み。


 高校を卒業した俺は、大学でプログラミングを死ぬ気で学び、念願だったゲーム会社を立ち上げた。

 俺が企画・開発したレトロゲーム風のインディーゲームは、世界中で爆発的なヒットを記録。

 そして今日、海外での事業拡大という名目で――いや、個人的な最大の目的を果たすために、俺はこの街にやってきた。


 スマホのマップを確認しながら広場を歩いていると、何やら人だかりができているのが見えた。


「おおっとぉ! マドモアゼル! 俺の華麗なるアコーディオンの調べに酔いしれて――」

「……うるさい。公害。耳が腐るから消えなさい」


 バキッ!!


「あべっ!?」


 聞き覚えのある奇声と共に、アコーディオンを持った金髪の男が、盛大にすっ転がっていく。

 ……間違いない。なぜかパリでストリートパフォーマーをやっている勉と、俺が世界で一番会いたかった、あの声だ。


 人だかりを掻き分けて前に出ると、そこには、洗練されたロングコートを身にまとい、圧倒的なオーラを放つ銀髪の女性が立っていた。

 雑誌の表紙を総なめにしている、パリ・コレ帰りのトップモデル。


 俺は息を吸い込み、声をかけた。


「……相変わらず、容赦ないな」


 その声に、彼女の肩がピクリと揺れた。

 ゆっくりと振り返った彼女の瞳が、驚きに見開かれる。


「……み、なと……?」

「迎えに来た。お前の世界一のファンとしてな」


 俺が笑って見せると、彼女は呆然とした後、みるみるうちに頬を赤く染め……いつものように、腕を組んでフンとそっぽを向いた。


【3秒沈黙(歓喜と照れ隠し)】


「……遅いわよ、このポンコツ」


 そう吐き捨てた彼女の唇は、隠しきれないくらい、幸せそうに綻んでいた。


 ――(モノローグ)

『……ポンコツなんだから。ずっと、待ってたんだからね』


 ただのラブコメじゃない。

 別れから始まった俺たちの恋は、パリの青空の下で、ようやく「永遠」へのコンティニューを果たしたのだ。

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