第12話

 あの事故から、世界は反転してしまった。


 翌日の教室。

 俺は自分の席に座ったまま、まるで石像のように固まっていた。

 視界の端に銀色の髪が揺れるだけで、心臓が警鐘を鳴らす。

 唇には、まだあの時の――信じられないほど柔らかくて甘い感触が、幻熱のように焼き付いて離れないのだ。


 ガラッ、と教室の前のドアが開き、玲奈が入ってきた。

 周囲の男子たちがざわめく中、彼女は一直線に俺の席へと歩み寄ってきた。

 俺は息を止め、身を固くした。

 怒られるのか。それとも、軽蔑の眼差しで罵倒されるのか。


 彼女は俺を見下ろし、その透き通るようなアイスブルーの瞳で、冷酷に告げた。


「……昨日のことは事故よ。私の脳内メモリから完全に消去したわ。だから、あんたも消しなさい」


 一切の感情を排した、氷のような声。

 俺はただ、「あ、ああ……分かってる」と間抜けな声で頷くことしかできなかった。


 踵を返し、自分の席へと戻っていく玲奈の背中。

 それきり、彼女は俺を一瞥だにしようとしなかった。


 なぜ、あんなにも徹底的に俺を拒絶できるのだろう。 ????

 事故だったとはいえ、昨日彼女の瞳の奥にほんの一瞬だけ見えたあの揺らぎは、俺の都合の良い錯覚だったというのか。 ????

 消去しろと言われて、はいそうですかと消せるわけがない。

 俺の頭の中は、今も彼女のことで限界までパンクしそうになっているのに。 ????




 その日を境に、俺たちの間には見えない巨大な壁がそびえ立った。

 目が合えば、彼女は露骨に視線を逸らす。

 話しかけようとすれば、足早に立ち去ってしまう。


 それは、地獄のような時間だった。

 つい数日前まで、くだらないゲームで言い合い、笑い合っていたあの距離感が嘘のようだ。

 俺はふと、恐ろしい想像に囚われた。

 もしも彼女がこのまま、俺の前から完全にいなくなってしまったら。

 今よりもっと遠い場所へ行ってしまい、二度と会えなくなってしまったら。

 この息が詰まるような喪失感が、永遠に続くということなのだろうか。


「おお、迷える子羊たちよ! その重苦しい空気、俺様が浄化してやろう!」


 昼休み。

 どん底まで沈み込んでいた俺と、離れた席で窓の外を睨みつけている玲奈の間に、無駄に元気なバカが割って入ってきた。


「勉……お前、空気読めよ。今はそういう気分じゃ……」

「甘い! 甘すぎるぞ湊! お前らがギクシャクしてる原因が、昨日の『不慮の事故』にあることくらい、この愛のキューピッドにはお見通しだ!」


 ビクッ、と玲奈の肩が跳ねる。


「……っ、あんた、どこまで見て……」

「ふはは! 悩める二人に解決策を授けよう! キスの呪縛は、新たなキスで上書きするしかない! さあ湊、俺のファーストキスを奪え!! そして記憶をリセットするのだ!!」


 勉は目を閉じ、タコのように唇を突き出して俺に迫ってきた。


「誰が奪うか気持ち悪い!!」

「消えなさい、この産業廃棄物!!」


 俺の手刀が勉の脳天に、玲奈の辞書が勉の顔面に、寸分の狂いもなく同時炸裂した。


「あべっ!? 愛の、自己犠牲が……!」


 床に沈む勉。

 俺たちは息を切らして勉を見下ろし、そして、ハッとして互いの顔を見た。

 数日ぶりの、まともな視線の交差。


 玲奈の唇が、微かに開く。何かを言いかけたように見えた。

 だが。


「……バカみたい」


 彼女はプイッとそっぽを向き、再び冷たい壁を作ってしまった。

 勉の身を挺した(?)ギャグをもってしても、俺たちの間の気まずい距離が縮まることはなかったのだ。




 そして、重苦しい空気のまま迎えた午後のホームルーム。

 担任の教師が、教卓に立ってパンパンと手を叩いた。


「えー、皆に紹介したいやつがいる。今日からこのクラスに入る転校生だ。入れー」


 教室のドアが開き、一人の女子生徒が入ってきた。

 無造作に束ねられた黒髪。少し大きめの丸眼鏡。制服のカーディガンは萌え袖になっており、鞄には大量のアニメキャラクターの缶バッジがじゃらじゃらと音を立てて揺れている。


 絵に描いたような、筋金入りのオタク女子。

 ざわつく教室の中で、転校生は黒板の前に立つと、チョークを手に取った。

 だが、彼女は名前を書くよりも先に、教室を見渡し――俺の姿を認めるなり、パァッ! と花が咲くような満面の笑みを浮かべた。


「みーくん!!」


 みーくん? ????

 クラス中が静まり返る中、彼女は教卓から駆け下り、一直線に俺の席までやってきた。

 そして、周囲の目など一切気にすることなく、俺の手を両手でギュッと握りしめたのだ。


「やっと会えた! ずっとずっと、探してたんだよ! アリスだよ、みーくんの幼馴染の、アリス!!」


「えっ……あ、アリス!? お前、親の仕事でアメリカに引っ越したんじゃ……」


 小学校の頃に引っ越していった、近所に住んでいた幼馴染。

 昔、俺にレトロゲームの英才教育を施した張本人。

 あまりの急展開に状況が呑み込めない俺をよそに、アリスは俺の顔を覗き込み、極上の笑顔で言った。


「みーくんと一緒にオタ活したくて、日本に戻ってきたの! これからまた、毎日一緒に遊ぼうね!」


 爆弾投下。

 教室の空気が、別の意味で完全に沸騰した。

 俺は慌ててアリスを引き剥がそうとしたが、その時、背中に突き刺さる強烈な殺気に気づいた。


 恐る恐る振り返る。


 そこには、今まで俺を避けていたはずの玲奈がいた。

 彼女の視線は、俺の手を握るアリスに釘付けになっていた。

 その瞳は、北極の氷すら一瞬で凍りつかせるような、絶対零度の吹雪をまとっていた。


 なぜ、そんなにも恐ろしい目で俺たちを睨むのか。 ????

 俺の記憶から消え去ろうとしていたのは、彼女の方じゃないのか。 ????


 距離を置こうとしていた二人の間に、突如として舞い降りた過去からの刺客。

 俺の平穏な、そして終わりの決まった恋のカウントダウンは、ここからさらなる予測不能の嵐へと突入していくことになる。

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