第十一話 このままじゃ
朝比奈柚葉を思い出す時、最近はいつも少しだけ苦い。
前は違った。少なくとも、最初の頃を思い返すうちは、痛いのにまだ柔らかい記憶だった。帰り道の声とか、コンビニの灯りとか、柚葉が私にだけ少し気を抜いていた顔とか。そういうものばかりが先に浮かんだ。
でも、そこからもう少し先を思い出そうとすると、喉の奥に薄く硬いものが引っかかる。
教室の後ろで、ひかりが何か言って笑った。少し遅れて、柚葉も笑う。その声を聞いた瞬間、私は無意識にシャーペンを持つ手に力を入れていた。
「久世さん、芯折れる」
前の席から真琴が振り向く。
「別に」
「その返し、最近ずっとそれ」
真琴は軽く言って、でもそれ以上は追及しなかった。ありがたいような、少しだけ腹が立つような曖昧な気持ちのまま、私はノートの端を揃えた。
今の柚葉は、もう私に弱音を落としたりしない。
そう思うと少しだけ楽なはずなのに、どうしてか胸の奥はすっきりしなかった。
楽になったわけじゃない。ただ、形が変わっただけだ。
そう思ったところで、また昔の景色が浮かぶ。
あの頃も、最初から苦しかったわけじゃない。
ただ、少しずつ、当たり前みたいに濃くなっていった。
最初に違和感を覚えたのがいつだったのか、正確には思い出せない。
でも、たとえばこんな日があった。
中間テストが近くて、教室の空気がいつもより少しだけ落ち着かなかった放課後。私はその日、図書室で一時間だけ勉強してから帰るつもりだった。家に帰ると逆にだらけるし、教室で残ると誰かに話しかけられる。だったら図書室が一番静かでいいと思った。
鞄に筆箱と問題集を入れて立ち上がると、柚葉がすぐに顔を上げた。
「帰る?」
「今日は図書室行く」
「え」
その反応が少しだけ大きくて、私は一瞬言葉を止めた。
「ちょっとだけ。テスト近いし」
「……そっか」
柚葉はそれ以上何も言わなかった。ただ、一拍だけ間が空いたのを覚えている。
「じゃあ私も行く」
当たり前みたいに続いた言葉に、少しだけ息が詰まる。
「柚葉、勉強するの」
「するけど」
「ほんとに?」
「その言い方ひどくない?」
むっとした顔をされて、私は悪いことを言ったみたいな気持ちになる。別に追い払いたいわけじゃない。ただ、その時ほんの少しだけ、一人になりたかっただけだ。
でも、そんなことをそのまま言えるほど、私は器用じゃなかった。
「……別に来るのはいいけど」
そう返すと、柚葉はすぐに表情を戻した。
「うん」
その“うん”が、少しだけ明るすぎた気がした。
図書室では、本当に勉強した。少なくとも私はそうしたし、柚葉も最初の三十分くらいはちゃんとノートを開いていた。けれど途中から明らかに集中が切れて、シャーペンを持つ手が止まり、ちらちらとこっちを見るようになった。
「翠」
小さく呼ばれる。
「何」
「ここ分かんない」
問題集を覗き込む。べつに難しい問題じゃない。少し説明すれば済む。私は答える。柚葉は「なるほど」と頷く。その五分後くらいに、また呼ばれる。
「翠」
「今度は何」
「これ合ってると思う?」
そんなのが何回か続いて、結局私は自分の勉強に戻るリズムを失った。
閉館のチャイムが鳴った時、思わず小さく息を吐いてしまったのを覚えている。
柚葉はそれに気づかなかったか、気づいても何も言わなかった。
「ありがと」
図書室を出たところで、柚葉が言う。
「助かった」
「別に」
「翠いると楽」
何度も聞いた言葉だった。その時も私は、いつものように軽く返した。
「一人でもやりなよ」
「やるけど」
柚葉は少しだけ視線を落とした。
「でも、翠いる方がいいし」
その言い方が、前より少しだけ重く聞こえた。
たぶんその頃にはもう、柚葉の中で私は“いたら助かる”じゃなく、“いないと困る”に近づき始めていたのだと思う。
でも、当時の私にはまだそこまで言葉にできなかった。
別の日には、真琴みたいな友達と少し長く話し込んでしまったことがあった。ノートを貸したついでに、授業の話からそのまま雑談になって、気づけばチャイム直前だった。
席へ戻ると、柚葉が私の前の席に座っていた。
弁当箱は開いたまま。箸はまだほとんど動いていない。
「遅い」
言い方は軽い。けれど、待っていたのだと分かる程度にはまっすぐだった。
「ごめん」
「別に」
またその返しだ、とその時も思った。
「先食べればよかったのに」
「食べてたし」
「全然減ってないけど」
「今から食べるとこだった」
そう言って卵焼きを口に入れる。たぶん本当は少し拗ねていたのだと思う。けれど柚葉は、露骨にそれを見せるようなことはしなかった。
その代わり、少しだけ静かになる。
少しだけ笑わなくなる。
その変化を、私は知っていた。
知っていたのに、そこでどうしたらよかったのかは分からなかった。
分からないまま、いつもどおりに戻ればいいと思っていた。
「今日、帰りコンビニ寄る?」
そう聞けば、柚葉はすぐに持ち直す。
「寄る」
「じゃあ、あとで」
「うん」
それで終わる。終わってしまう。
そのたびに私は少しだけ安心して、少しだけ疲れていた。
柚葉は何かあると私を見る。
私がいないと少しだけ不安定になる。
私がいつも通りに戻せば、柚葉も少し落ち着く。
そういう流れが、いつの間にかできていた。
それが一番はっきり見えたのは、雨の日だった。
下校時間になっても雨脚が強くて、昇降口には部活待ちの子たちが溜まっていた。私は折りたたみ傘を持っていた。柚葉は持っていなかった。
「家近いんだから走れば」
冗談半分で言うと、柚葉はすぐに顔をしかめた。
「無理。濡れるの嫌」
「じゃあ待てば」
「……翠は?」
「私?」
「帰るなら、一緒に入れて」
その言い方があまりにも自然で、私は少しだけ言葉に詰まった。
「一人用だけど」
「つめれば入るでしょ」
別にそれはそうだ。できないことじゃない。けれど、その時ほんの一瞬だけ、面倒だと思ってしまった。
傘一本の距離が近いこととか、帰る時間まで私に合わせる前提で話してくることとか、そういう全部が少しだけ重かった。
たったそれだけのことでそう思った自分に、ほとんど同時に罪悪感も湧く。
「……分かった」
結局そう言うと、柚葉はすぐに安心したみたいな顔をした。
「ありがと」
たぶん私は、その顔に弱かったのだと思う。
ほっとされると、それ以上何も言えなくなる。
でも同時に、その“ほっとさせる役”をずっとやるのはしんどいと感じ始めてもいた。
雨の中を並んで歩きながら、柚葉が傘の骨に当たらないよう少しだけ身を寄せてくる。肩が近い。息が近い。何度もそうしてきたはずなのに、その日は妙にそれを意識してしまった。
「柚葉」
「何」
「たまには他の子とも帰れば」
言った瞬間、自分でも少しだけ失敗したと思った。
唐突すぎたし、言い方もよくなかった。けれど一度出た言葉は戻らない。
柚葉はすぐには何も言わなかった。
雨の音だけが傘を叩く。
「……そうだね」
しばらくして落ちた声は、思っていたよりずっと静かだった。
「そうした方がいいのかも」
傷ついている、とすぐに分かった。
分かったのに、私は慌てて取り消すことも、うまく言い直すこともできなかった。
「いや、そういう意味じゃ」
「分かってる」
柚葉は笑った。笑ったけれど、いつもの力の抜けた顔じゃなかった。
「別に、翠が悪いって言ってるわけじゃないし」
その言葉で、余計に苦しくなった。
悪いって言ってほしいわけじゃない。責められたいわけでもない。ただ、今のやり取りがひどく不器用だったことだけは分かる。
傘の下で並んだまま、私はもう何も言えなかった。
あの頃の私は、たぶん初めて思ったのだと思う。
このままじゃ、よくない。
柚葉のために、という気持ちは本当にあった。
でもそれだけじゃなかった。
少しだけ離れたい。
少しだけ息をつきたい。
そう思っている自分がいた。
そのことに気づいてしまった時点で、もう私はきれいな善意だけではいられなかった。
「久世さん」
現実の声で、意識が戻る。
奈緒だった。教室の前の方からプリントをひらひらさせている。
「実行委員の案、担任に見せてくるから一緒来て」
「……今行く」
立ち上がると、椅子の脚が鳴る。斜め後ろの気配も少しだけ動く。振り返らなくても、柚葉がまだそこにいるのが分かる。
今の柚葉は、もうあの頃みたいに私を待たない。
私がいれば平気だなんて、たぶんもう思っていない。
それなのに、思い出してしまう。
少し黙るだけで傷ついていた顔も、私の言葉ひとつで安心していた頃も。
助けたいと思っていた。
でもその時にはもう、私の中には確かに「しんどい」が混ざっていた。
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