第6話 鹿苑寺
待ち合わせ場所は、東京第一ダンジョン地上出口の脇に残っている、古い喫煙所の跡だった。
灰皿はとっくに撤去され、細長いベンチと、やたら明るい自販機だけが残っている。
朝の空気は冷たかった。
ダンジョン帰りの金属臭まで薄めるような乾いた冷たさだ。
「来た」
マチが先に言った。
自販機の白い光の前に、男が一人立っていた。
黒いロングコート。肩から機材ケース。無駄のない装備。立ち姿に余白がない。
軽装に見えるのに、どこも軽くない。
男は二人へ視線を向けると、まず啓太郎を見た。次にマチを見る。そのあと、二人の持っている端末と配信カメラを見た。
「河野啓太郎さん」
「えぇ」
「町田さん」
「はい」
「鹿苑寺兵平吾郎です。昨日と昨夜の映像、確認済みです」
声は低い。
大きくはないのに、なぜか勝手に輪郭が立つ。
「最初の一撃としては、だいぶ名前が強いですねぇ」
と啓太郎。
「会う前から少し押されました」
「そこは流して」とマチが言った。
「確認します。同行の目的」
「条件再現です」
と鹿苑寺は即答した。
「種そのものより、部屋へ入る条件と、戻る条件。そちらに価値を見ています」
「討伐は」
「必要になればやる。優先順位は低い」
「理由」
「倒すだけなら後からでもできる。入口は再現できなければ価値が落ちる」
マチはうなずいた。
「発見者権は啓太郎。観測ログは共有。映像使用は相互。ただし切り貼りで別の話にしない。勝手な先行なし。河野が止まれと言ったら止まる。ここまでいい?」
「はい」
「即答ですね」
「その条件を飲めないなら、そもそも来ません」
「善意は?」
「持ってきていません」
「そこは文面通りか」
「はい」
「よろしい」
マチは短く息を吐いた。
「その方が、むしろ助かる」
啓太郎が横から言った。
「たいへんありがたいことなんですが、一点だけ。順位72の方が、なぜこのような、984位の揉め事にわざわざ」
「揉め事ではありません」
と鹿苑寺。
「入口です」
「言い換えが綺麗」
「事実です」
「好きになれそうですねぇ」
「会う前からそれ言わないで」
とマチ。
鹿苑寺は啓太郎を見た。
「映像の中で、あなたは三つの観測をしていました」
「三つ、でしたか」
「右壁の温度差。立ち位置のずれ。膜の閉じる順番」
「えぇ」
「言い回しは長い。比喩も多い。ただ、見ている点は悪くない」
「ありがとうございます」
「ただし」
鹿苑寺はそこで切った。
「観測と推測が混ざる」
「それはもう、昨夜から何度も」
とマチ。
「私が言ってる」
「えぇ。たいへん真っ当なご指摘です」
「なので、今日は分けます」
と鹿苑寺。
「河野さんは現場で気づいたことを言う。私が整理する。町田さんが、今使える形かどうかを切る」
「それがいちばん早い」
とマチ。
「ようやくまともな人が来た」
「私はまともではないと思います」
と鹿苑寺。
「ただ、役割は分けたい」
啓太郎は少しだけ笑った。
「それだけでも、だいぶ話が前へ進みそうですねぇ」
入場申請は早かった。
他ダンジョン所属配信者の臨時観測同行。窓口の職員が少しだけ目を丸くしたのは、鹿苑寺の順位より、同行先の名前を見た時だった。
「河野啓太郎さんと」
「はい」
「……そうですか」
「そうです」
スタンプが押される。
乾いた音がした。
第三層へ降りる途中、コメント欄は昨日よりは遅く、普段よりは速かった。
『鹿苑寺ってあの鹿苑寺?』
『72位がここに来るの意味わからん』
『河野の枠に人選が強すぎる』
『マチさん今日も顔出しなし?』
『兵平吾郎、字面が重い』
「名前の話、しばらく続きそうですねぇ」
と啓太郎。
「仕方ない」
とマチ。
「私も最初そこ見た」
「そこは否定しません」
と鹿苑寺。
第三層へ着く。
昨日と同じ曲がり角。
同じような安箱。
壁の湿り気。
だが、通路の空気は昨日とは違った。
何組か、もうここを覗いて帰っている。
床に薄く残った足跡。
壁際に寄って、箱だけ見て、何も起こらず戻った人間の歩き方。
「踏まれてますねぇ」
啓太郎が床を見た。
「しかも、箱だけ確認して帰った人間の動きです」
「判断根拠」
とマチ。
「通路の中心へ一度も入っていない。怖いなら怖いなりに、もう少し慎重になるでしょう。これは、“違ったら次へ行こう”の足取りです」
「“足取り”まででいい。比喩はいらない」
「えぇ」
鹿苑寺が床へしゃがんだ。
指先で摩耗をなぞる。
「河野さんの見立てで合っています。中心の踏み込みが浅い。箱の前で立ち止まっていない」
「そういう返しが来ると困る」
とマチ。
「二人とも、急に筋が通り始めるから」
「筋が通っているのは良いことでは」
と鹿苑寺。
「良いんだけど、嫌」
「気持ちは分かります」
と啓太郎。
「ただ、こちらとしては、嫌がられながらでも前へ進むしかありませんので」
啓太郎は右壁へ手をつけた。
少し黙る。
手の位置を上下にずらす。肩をずらす。昨日と同じ位置を探している。
「どう」
とマチ。
「ありますねぇ」
「何が」
「昨日ほど露骨ではないんですが、やはり右だけ熱を吸う」
「観測?」
「体感です」
「はい、言い換え」
「えぇ。体感です。ただ、昨日と同じ方向に違和感がある」
「その先」
「昨日は箱が罠だと思っていたんですが、それだと少し箱側に事情が寄りすぎるんですよ」
「そこから先は推測」
「はい。推測です。箱単体ではなく、通路側に入口がある。その入口を、箱を開ける動作で起動していた。そう考える方が、昨日の感じには近い」
「“感じ”ではなく、根拠」
「立ち位置です。私は昨日、箱の真正面に立っていなかった。少し左にずれて、右手を壁へつけていた」
「そこは映像確認済み」
「えぇ。七回」
「暇なの?」
「死にかけた人間は、その後たいへん真面目になるんですよ」
鹿苑寺がそこで拾った。
「整理します。観測は二つ。右壁の温度差。立ち位置のずれ。推測は一つ。箱が入口ではなく、入口を起動する鍵だった、ということ」
「はい」
「その推測、筋は悪くない」
「どこが」
とマチ。
「箱だけが原因なら、昨日の位置のずれが説明しきれない。立ち位置まで含めて入口条件になっている方が自然です」
「そこまでは分かる」
「なら次」
と鹿苑寺。
「今日は同じ位置に立つ」
「それだけでいい?」
「まずはそれだけ」
「風とか床とか増やさない?」
「増やしません」
と鹿苑寺。
「要素を増やすのは反応を見てからです」
「よし。好き」
「今の言い方だと、だいぶ誤解を招きますねぇ」
と啓太郎。
「誰もそういう話してない」
準備は短かった。
鹿苑寺は右壁へ細い温度線を二本貼った。
マチはログ用の表示を整理する。
啓太郎は昨日と同じように、少し左へずれた位置へ立った。
「確認」
とマチ。
「立ち位置」
「箱の真正面ではなく、左へ半歩」
「右手」
「壁」
「目的」
「箱を開けることではなく、通路の反応を見る」
「異常が起きたら」
「私が言う」
と啓太郎。
「鹿苑寺さんが判断する」
「違います」
とマチ。
「判断するのは私。二人は報告」
「厳しい」
と啓太郎。
「そのくらいでちょうどいい」
と鹿苑寺。
啓太郎は箱へ手を伸ばした。
蓋に触れる前に、小さく言った。
「昨日より、だいぶ気分が悪いですねぇ」
「何が」
とマチ。
「事故で飛ぶのと、自分から入りに行くのとでは、悪意の向きが違う」
「その悪意、自分で持ち込んでるからね」
「えぇ。たいへん自覚的です」
蓋が開く。
その瞬間、温度線が一気に青へ落ちた。
「来ます」
と啓太郎。
「観測」
とマチ。
「右壁、全体で低下」
「昨日より広い」
と鹿苑寺。
「一点ではなく面で開く」
「えぇ。やはり箱が入口ではない。通路全体が口で、箱はただ人を立たせるための都合ですねぇ」
「比喩を削って」
「通路が起動しました」
空気が反転した。
光は箱ではなく、右壁と床の線から立ち上がる。
昨日より大きい。
昨日より早い。
「行きます」
「記録取ってる。30秒戻らなければ条件再試行」
とマチ。
「河野、報告を切らさないで」
「えぇ」
「鹿苑寺さん」
「はい」
「勝手に仕留めない」
「分かっています。今日は殺しに来ていません」
次の瞬間、二人は消えた。
落ちた先の暗さは昨日と同じだった。
だが、同じなのは暗さだけだった。
啓太郎は膝をついて着地し、息を整えるより先に違和感を覚えた。
「……狭いですねぇ」
「広さは同じです」
と鹿苑寺が即座に言った。
「視線が多い」
啓太郎は顔を上げた。
壁のどこか、ではなかった。
壁のほとんど全部。
天井の縁。
目がある。
昨日の十七という数えられる量を過ぎている。
数えること自体が無意味に見える程度には、いる。
「昨日は、一部を見て一匹だと思っていたんですが」
啓太郎の声が少し回り始める。
「どうも、たいへん早かったですねぇ。えぇ、たとえばですね、大きな建物に入って、最初の待合室だけ見て、ああここが全部だなと勝手に思い込む、そのくらいの早計さがあった気がします」
「根拠」
とマチ。
向こうからすぐ返る。
「目の数です」
と鹿苑寺。
「昨日は壁際に偏っていた。今日は天井全面。単独個体の配置ではない」
「つまり?」
「群体か、器官の連結」
「そこまでが推測」
「はい」
「使える観測は」
「視線が分散していること。部屋全体が反応していること」
「よし」
啓太郎はそれでもまだ天井を見ていた。
「一匹の腹の中だと思っていたら、まだ口の中だった、という感じがあるんですよ。昨日は“部屋”だと思っていた。でも今日は違う。部屋そのものが、もっと大きい何かの折り目みたいに見える」
「“見える”は感想」
とマチ。
「そこから使えるものを下ろして」
「えぇ。では、部屋単位で閉じるのではなく、面で重なる」
「それはいい」
と鹿苑寺。
「その前提なら、出口も一点ではない。重なりの薄い場所がある」
上で、濡れた布を何枚もずらすような音がした。
天井全部が、ゆっくりと下がってくる。
啓太郎は息を呑んだ。
「来ますねぇ」
「報告」
とマチ。
「天井全面が降下。壁だけではない」
「速度」
と鹿苑寺。
「昨日より遅い。ただ、面積が広い」
「了解。なら避けるより、薄い場所を切る」
鹿苑寺がそこで初めてケースを開いた。
中から出てきたのは、短槍とも長剣ともつかない、細く重たい金属杭だった。
啓太郎が小さく言う。
「火力、持ってきましたねぇ」
「えぇ」
と鹿苑寺。
「私は整えるより先に、こういう時の方が役に立つ」
目の群れが一斉に下を向いた。
鹿苑寺は前を見たまま言った。
「河野さん」
「はい」
「中心を読んでください。私は裂きます」
「役割分担が、たいへん綺麗ですねぇ」
「綺麗にしないと死ぬ」
とマチ。
「そこ、今、いちばん大事だから」
天井が、さらに下がった。
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