境界の外側
【Present Day】
今の姿になった時に何故、涙を流していたのか…… 今でもよくわからない。
あの時はそれが涙というものであるかさえ知らなかった。
むしろ直後は何かのバグや、エラーが起きたのかと怖くなったぐらいだ。
「おはよう、チセちゃん。 はかどっとるかね?」
そう声をかけられ、わたしはハンガーの上層通路へ視線を向けた。
「おはよう先生。
首からメガネを紐で下げた白衣を着た背の低い老人と、その後ろを歩くピンク色の看護服を着たショートカットの長身の女性。
このジクサーの船医の滝沢先生と、看護師のフォンさんだ。
滝沢医師はメガネを鼻の上に乗せると、顔の皺と同じくらいシワシワの白衣のポケットに手を突っ込み、上からわたしの顔を覗き込んだ。
「うーん、いかん、いかんなぁ? チセちゃん顔色が悪いぞ。 ちゃんとリアルで食べとるか?」
わたしは苦笑いする。
嫌な記憶を思い出していたのが顔に出ていたらしい。
「後で顔出しなさい。 バイタルをちょっと誤魔化しちゃるよ」
手を振りながら先生はヒョコヒョコと歩いていった。
フォンさんはわたしに軽く会釈すると、そのまま先生について通路の先の廊下に消えていった。
にぎやかな滝沢先生とは対照的にフォンさんはほとんど口を開かない。
ライナーは規模によるが最低、一人の船医は乗せる必要がある。
インター・ヴァーチュアでの肉体的損傷への対応やメンタルケアを行う医師が、安全地帯であるテリトリーやコミニティを離れるライナーに必要なのは当然だろう。
滝沢先生はコミュニティでは頼りにされているが、正式な医師なのかは正直怪しい。
とはいえほぼ非合法運用のギルドのライナーで医者を乗せるかといえばそうでもない。
そういう意味ではうちの
滝沢先生もジクサーで勝手に開業しているようなもので、港にいる間は医務室を開放してHODOの住民の診察をしている。
このジクサーは、たぶんHODOで最も人の出入りが激しいライナーだろう。
時にはハンガーが患者の待合室がわりになる時がある。
そういえば、フォンさんがいつもハンガーに運んでくるあのベンチはどこにいったのだろう?
船医か。
そういえば初めてわたしを救ってくれた人間も船医だった。
結局、船医だけでなくあのオーシャンライナーの全員が、わたしを助けてくれたのだ。
【Flashback】
「待ってください! 艦長おちついて」
そう、真っ白なユニフォームを着たその人間は左手でわたしを背に庇い、右手で黒いユニフォームと帽子を被った眼光鋭い顎髭の人間を制していた。
周りに同じような姿の人間たちがわたしたちを取り囲んでいた。
人間の姿になったわたしはあのあともコンテナの貨物スペースに隠れていたが、思わぬ副作用を抱えることになった。
空腹という感覚を覚えるようになったのだ。
これが今までの循環不足ではなく、飢えという感覚なのだと人間のライブラリを検索して初めて理解した。
これまではデータを循環が不足した場合は意図的に一部の機能や感覚をサスペンドすればよかった。
それとは違う、この耐えられない感覚は初めてだ。
サスペンドとも停止とも異なる力が抜けるような制限とはまるで違う、感覚――。
体の中心に巨大な穴が空き、そこに引きずり込まれるような感覚――。
空腹を認識したわたしはたった十二サイクルも耐えられず、飢えを満たすために食料を求めた。
そして、そのデータが食堂という場所にあることを検索しコンテナから出た。
当然、あっという間に発見されたわたしは必死に逃げ回ったが結局、甲板で追い詰められた。
ただ、わたしを取り囲んだ人間たちはわたしを見て驚きの表情は浮かべても異質なものとは認識していないようだった。
「ぁああぁ! ぁああ!」
まだ声帯をコントロールできないわたしは口からノイズのような音を発し、人間たちを威嚇することしかできなかった。
やがて、この場に二人の人間がやってきた。
そして今、その二人はわたしを巡り対峙しているようだった。
「ドクター・マキシム、自分が何をしているのかわかっているのかね」
「ええ、十分わかっています。 艦長こそよく見てください、まだ子供です。しかも女の子ですよ」
わたしは頭から白い毛布をかけられていた。
マキシムと呼ばれた人間が駆けつけるなりわたしに被せたものだ。
「それにどういう理由かは知らないが、裸も同然ともなれば船医としては見逃せません。 検査のためいったん、保護させていただきたい」
「むぅ」と顎鬚の人間は被った帽子のつばをつまみ顔を隠すように強く引っ張った。
「理屈はわかる…… わかるが、あの直後に見つかった密航者だ。 ドクター、あれの後にだぞ」
唸るような声で艦長と呼ばれた人間は声を発した。
「その通りです。 私たちは皆、後味の悪い仕事をした。 艦長、私にアレを調べるように指示して上陸させたのはあなたです」
マキシムという人間のその言葉にざわついていた場がシーンと鎮まりかえった。
わたしは毛布の隙間から見回してた。
その場にいる人間たちは一様に俯いていた。
「だからあえて、言わせていただく。 アレを見た私だからはっきり言い切れます、彼女は
白いユニフォームを着たマキシムは艦長をまっすぐに見据えてそう言った。
その間も私を守るように手を伸ばしている。
艦長は肩をすくめ、「ふぅ」とため息をついた。
「なるほど、医者として君はこの娘を
「そうです」
艦長の帽子の下の鋭い目に射抜かれてわたしは思わず、マキシムという人間から延ばされた手を、両手で掴んだ。
その感触はなぜか担当者を思い出させた。
ちらっとマキシムがわたしの方を振り返りった。
そして、そっと片目をつぶって見せた。
それが何を意味するのかわからずわたしは首を傾げた。
「わかった。ドクター・マキシム、要請を受けいれる。 次の寄港地までこの娘の処遇は君に一任しよう」
そういうと艦長はわたしたちに背を向け、大きく2回、手を叩いて叫んだ。
「諸君、聞いての通りだ。 持ち場に戻れ!」
その場に集まっていた人間たちは散り散りに解散した。
そのうちの何人かはマキシムと呼ばれる人間と私の肩をポンポンと叩いたり、親指を立てて去っていった。
それが何かの合図らしかったがわたしには理解できず、マキシムの手をさらに強く握った。
すると最後に、艦長と呼ばれる帽子の顎髭の男がわたしの前に歩み寄った。
「ドクター…… 次の寄港地で必ずこの娘を降ろせ」
艦長と呼ばれる人間は小さな、それでいて強い力を感じで声でそう言った。
「イエス・サー。 ジョンソン艦長、感謝します」
「私にできるのはそこまでだ、本社の連中が来る前に手を打て」
それだけ囁くように言うと、ジョンソン艦長はそっとわたしの頭に手を置いた。
「すまない……」
ターミナルの外へ出るとすぐに圧倒的な光と騒音に包まれた。
巨大なホログラム広告が空中に浮かび、整然とした人工のネオンが都市を照らしている。
広い歩道を行き交う人々は皆、端末に視線を落としながら無駄のない動きをしていた。
(ここが…… メサイア・パシフィックゲート……)
サンタクララの端末から検索して得た情報の通りだった。
その煌びやかな都市はどこかエクス=ルクスを思い出させた。
だが、実際に足を踏み入れてみるとわたしの想像とは異なっていた。
行く先々で目立たぬよう足を止め人々の行動を観察する。
端末の操作しての何かのデータの交換、施設への入退室。
食事ができる施設もあるし居住エリアもある。
一見、自由に見える。
それに快適な環境。
だが、何かが違った。
違和感がある。
誰もが何かに従って動いている。
どこへ行くにも特定の手続きが必要なようだ。
ルールのようなものがあり、それに沿って生きている。
(この場所には、
その決まりが何なのかわたしにはわからない。
だが、それを持たないわたしはここでは
試しにわたしは近くにあったターミナルの上に手をかざし何ができるかを確認した。
結果は何もできなかった。
扉の向こうへ進もうとすると認証が求められる。
移動のための施設の利用も同じだ。
何をするにも身分というものを求められる。
(ここでは、
たぶんやろうと思えば改竄は可能だが、サンタクララの時と同じで無理にいじれば足跡が残る。
気付かれれば不正として追跡される可能性が高い。
違和感はそれだけではない。
サンタクララでは、乗組員たちは
でも彼らは、わたしに食事をくれたし話しかけてくれた。
でもこの都市では誰もわたしに関心を示さなない。
ただ、すれ違うだけの存在。
(ここでは、
わたしは、サンタクララの乗組員のように
だが、それが何なのかどのようにすればそこに入れるのかわからなかった。
人々はわたしを気にも留めずただ流れていく。
わたしはその流れに乗ることができなかった。
でもその流れを見て、仮に何かに属することができて流れていく人間の中の一部になるとうことを考えるとななぜか胸の中がザワついた。
どうやらわたしはこのテリトリーという場所を拒否しているようだ。
ここにわたしの居場所は作れない――。
もう一度、メモリ内のメサイア・パシフィックゲートのデータを確認する。
確か、どこかに
わたしは、メモリの中にあった対象のポイントを確認して、テリトリーの外縁部へ向かい監視の薄いエリアを探した。
(……このままでは、食料が尽きる)
マキシムが持たせてくれた食べ物はもう残り少ない。
人間にとっては擬似的な満足らしいが、わたしにとっては
それが尽きれば、わたしはこの世界で生きる手段を持たないことになる。
この世界に
わたしは、メサイア・パシフィックゲートのデータを確認した。
どこかに管理されていない場所があるはずだ。
そこでは何かを交換し、食料を得ることができるかもしれない。
見つけた。
都市の端に古い物流倉庫の区域があった。
そして、その先には記録されていない空間が広がっていた。
(ここは……)
わたしは、そこに足を踏み入れた。
そこは、テリトリーの都市とはまるで違っていた。
ところどころ崩れかけた建物。
壁に貼られた無数のステッカーやマーキング。
街灯が途切れ、ネオンの光がちらつく薄暗い路地。
何もかものがランダムで、煩雑で、カオスだ。
そして、人々の様子も違っていた。
取引 ―― 道端で何かを交換する者たち。
監視の目 ―― 遠巻きにこちらを伺う者たち。
生存のための交渉 ―― 騒がしく何かを叫び取引をしている者たち。
(ここでは、
だが、それと同時に、またも違和感も覚えた。
サンタクララの乗組員たちとは明らかに異なる雰囲気。
彼らは社会の中での役割を持ちそれを果たしてた。
だが、ここでは――。
(ただ、生きるために
テリトリーにいた人間たちが身につけている服は画一的だった。
同じような色、同じようなデザイン。
一方で、この場所を行き交う住人の服装はネオンのようにバラバラだった。
ある者はカラフルな服をまとい、ある者は揃いのマークが入った背中を見せている。
個々が異なるスタイルを持ち、同時にどこか群れのような雰囲気もあった。
テリトリーの人々、サンタクララの乗組員たちは組織の中での役割を持ち、それを果たしていた。
でも、ここの人々は――。
(個として生きる者と、群れを作る者……?)
この世界のルールを理解しなければならない。
管理されていないこの場所ならわたしは異物とは思われない。
なら、ここで人間がどのように食料を得てどのように生活しているのか。
それを観察し適応することがわたしの次の課題だった。
わたしは、それから何日も人の流れを観察してすごした。
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