第6話 少し近づいた気がした日

今日も頑張る、派遣さん。


 仕事終わりに歓迎会があると聞いたとき、ほんの少しだけ迷った。


 行った方がいいのは分かっている。


 でも、行かない理由も、いくつか浮かんでしまう。


 少しだけ考えてから、「行きます」と答えていた。


 店の前に立つと、ガラス越しに明るい店内が見える。


 中から笑い声がこぼれてきて、扉を開ける前に一度だけ深呼吸をした。


 ――大丈夫。


 そう思って、ドアを押す。


 店の中は思っていたよりにぎやかで、空気が少しだけあたたかい。


 すでに何人かが集まっていて、テーブルの上にはグラスと料理が並んでいた。


 どこに座ればいいのか分からず、ほんの一瞬だけ立ち止まる。


「こっちどうぞ」


 そう言われて案内された席は、部長の隣だった。


 反対側には、お局の人。


 今、仕事を教えてもらっている人だ。


 普段はぶっきらぼうで、必要なことしか話さない。


 その距離感に、まだ少しだけ慣れていない。


 席に座ると、すぐにグラスが配られる。


 乾杯の声が上がり、グラス同士が軽く触れ合う音がした。


 その音に合わせて、少しだけ周りを見る。


 みんな、自然に笑っている。


 お局の人も、いつもより表情がやわらかい。


 むしろ、よく話している。


 役員の話や、異動した上司の話。


 名前がいくつも出てくるけれど、知っている人はほとんどいない。


 笑い声が重なって、その中に入るタイミングが見つからない。


 なんとなく頷きながら、グラスに口をつける。


 少しだけ、味が分からない。


 気がつくと、体が少しだけテーブルの端に寄っていた。


 目の前には、おつまみが並んでいる。


 揚げ物や小さな皿がいくつも並んでいて、どれもまだ手つかずに見える。


 手を伸ばしかけて、止める。


 どこまで食べていいのか分からない。


 誰の分なのかも分からない。


「食べていいよ」


 ふと声をかけられる。


「たくさんあるから」


 やさしい声だった。


「ありがとうございます」


 小さく返して、ほんの少しだけ取る。


 ゆっくり口に運ぶ。


 その間にも、会話はどんどん進んでいく。


 話題は変わり、また笑い声が上がる。


 その流れについていけなくて、言葉を挟むタイミングが見つからない。


 それでも、ときどき話しかけてくれる人はいる。


「大丈夫?楽しめてる?」


 そう聞かれて、「はい、大丈夫です」と答える。


 少しだけ笑う。


 でもその人は、すぐに別の人に呼ばれて、また輪の中へ戻っていく。


 残された空気の中で、グラスを持つ。


 ほんの少しだけ、静かになる。


 それでも、完全にひとりではない。


 すぐ隣では、笑い声が続いている。


 その中に、自分もいる。


 でも、少しだけ外にいる。


 ――不思議だな、と思う。


 時間が過ぎて、二次会の話が出る。


「どうする?」


 そんな声があちこちで上がる。


 少しだけ迷ってから、小さく首を振る。


「今日は、このまま帰ります」


 お疲れさまでした、と頭を下げる。


 何人かが「お疲れさま」と返してくれる。


 店を出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。


 さっきまでのあたたかさが、少し遠くなる。


 深く息を吸う。


 胸の奥が、ゆっくり整っていく。


 歩きながら、ふと思う。


 前よりは、話せた気がする。


 前よりは、少しだけ近づいた気もする。


 でも、まだ少し遠い。


 その距離を、ちゃんと分かっている自分もいる。


 ――それでも、いいか。


 少しずつでいい。


 そう思いながら、もう一度息を吸う。


 夜の空気は、思っていたよりやわらかかった。


 ――今日も、ちゃんと行けた気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る