第20話 再契約

 白狼が琳香の客間を訪れた翌朝、北奥の離れには、夜の名残をまだ少し引いた静けさがあった。


 琳香が目を覚ましたとき、白い大きな影はもういなかった。寝台の脇には、長い毛が一本だけ落ちている。昨夜の出来事が夢ではなかった証のようで、琳香はそれを指先で拾い上げ、しばらく見つめてからそっと懐紙へ包んだ。


 困る、と言った。

 来てくれてよかった、とも言った。


 あれを本人がどこまで覚えているのかは分からない。白狼の姿のとき、暁嵐の意識がどの程度はっきりしているのか、琳香にはまだ掴みきれなかった。けれど、少なくとも自分の側は変わってしまった。


 好きだと認めた以上、もう前のような顔ではいられない。

 それでも今日も膳は作らなければならないし、敵も待ってはくれない。


 小厨へ入ると、炊き上がる粥の匂いが少しだけ気持ちを平らにしてくれた。白米に刻んだ青菜、鶏を細く裂いたもの、月露茸を戻した汁。昨夜の気の揺れを考えれば、今日も重くないほうがいい。火加減を見ながら息を整え、器へよそう。


 戸口に足音が止まったのは、ちょうど薬茶へ棗を落としたときだった。


「将軍」


 振り向くと、暁嵐が立っていた。


 人の姿だ。寝衣ではなく、すでに軽装へ着替えている。顔色は悪くない。だが、琳香は見るなり昨夜のことを思い出してしまい、危うく視線を逸らしかけた。


「朝餉は」


「今、整います」


 答えた声が少しだけ硬くなる。暁嵐はそれに気づいたようだったが、何も言わず小卓へ視線を移した。


「薬茶もあるのか」


「あります」


「最近、毎回あるな」


「必要なので」


 短いやり取りの間にも、琳香はどうしても昨夜の白狼の気配を重ねてしまう。

 この人はどこまで覚えているのだろう。

 客間へ来たことも、伏せたことも、自分が背を撫でたことも。


 器を盆へ載せて書房へ運ぼうとすると、暁嵐が静かに言った。


「ここでいい」


「小厨で、ですか」


「ああ」


 珍しい。けれど断る理由もない。

 琳香は卓へ膳を置いた。向かい合って座る形になる。以前なら少し居心地が悪かったはずなのに、今は悪さの質が違う。ただ落ち着かないのではなく、自分のほうだけが知っている秘密を抱えている感じに近い。


 暁嵐は粥へ手を伸ばし、一口食べたあと、ふと琳香を見た。


「眠れなかったのか」


「え」


「顔が少し違う」


 そんなに分かりやすいのか、と琳香は内心でうろたえたが、表には出さず答える。


「少しだけ、考えごとを」


「手記のことか」


「それもあります」


 嘘ではない。嘘ではないが、それだけでもない。


 暁嵐はそれ以上追及せず、静かに食べ進めた。その沈黙がかえって助かる。もし今、昨夜のことを正面から聞かれたら、琳香はいつもどおりには返せない気がした。


 そこへ、急いだ足音が近づいた。


 裴清だった。戸口のところで一礼しながらも、空気が尋常ではない。


「将軍」


「どうした」


「北の古材置き場で、拘束していた尚食局の下働きが一人、消えました」


 琳香の手が止まる。


「消えた?」


「見張りを眠らせ、裏門から抜けたらしい。しかも」


 裴清の視線が琳香へ流れた。


「手記を取り戻したと知っているようです。北門外で、琳香を狙うつもりだという話を、逃げる直前に漏らした者がいる」


 小厨の空気が一瞬で冷えた。


「私を」


「手記を取り戻したのがお前だと、向こうはもう掴んでいる」


 裴清は短く言う。


「今日は一人で動くな。絶対だ」


「分かっています」


 そう答えながらも、琳香の胸はざわついていた。


 敵はもう、尚食局長の拘束を埋め合わせるように動き始めている。しかも狙いが自分へ寄っている。手記の中身を読み進める前に、こちらの口と手を潰すつもりなのだろう。


 暁嵐が器を置いた。


「裴清、兵を増やせ」


「もう動かしています」


「琳香は離れから出すな」


「将軍」


 琳香は反射的に声を上げた。


「手記を読み進めないと」


「ここで読め」


「でも、古材置き場にまだ残っているものがあるかもしれない」


「今日は駄目だ」


 暁嵐の声は低く、はっきりしていた。


 それは正しい。理屈ではそう思う。けれど、このまま手をこまねいているだけでは、敵に先を取られる気がしてならなかった。


「相手が私を狙っているなら、逆に誘い出せます」


 気づけば、そう言っていた。


 裴清が顔をしかめる。


「何を言い出す」


「向こうは手記を奪いたい。なら、私が持って動くと見せれば」


「駄目だ」


 今度は暁嵐が即答した。


「囮にする話ではない」


「でも」


「駄目だ」


 それ以上言わせない声だった。


 琳香は唇を結んだ。正しいのは分かる。だが、昨日、ようやく母の手記を取り戻したばかりなのだ。守るだけでは足りない。進まなければ、また奪われる。


 その焦りが、言葉を尖らせた。


「将軍は、いつも自分が危険へ行くのは平気なのに」


 暁嵐の目がわずかに細くなる。


「それとこれとは別だ」


「別じゃありません。将軍が一人で背負うのと同じです」


「お前は一人で背負う必要がない」


「でも私の家のことです」


 言った瞬間、小厨の中の空気が変わった。


 裴清が何かを言いかけたが、暁嵐が先に口を開く。


「お前の家のことだからこそだ」


 低い声だった。


「復讐の熱があるときのお前は、前へ出すぎる」


「出すぎなければ、何も取れません」


「昨日の焼け跡で死にかけた」


「将軍が来たから助かったんです」


「だからだ」


 その一言は、刃のように鋭かった。


 暁嵐は立ち上がる。狭い小厨でその動きはひどく近く感じられた。


「お前は、自分が狙われる重さをまだ軽く見ている」


「そんなことは」


「ある」


 暁嵐はまっすぐ琳香を見た。


「お前は膳を見ることには慎重だ。だが、自分のことになると急に雑になる」


 反論しようとして、琳香は止まった。

 否定しきれないと分かったからだ。


 沈家のことになると、どうしても視野が狭くなる。

 手記を見つけた昨日など、まさにそうだった。


「……将軍にだけは言われたくありません」


 苦し紛れのように出た言葉だった。

 だが暁嵐は怒らなかった。


「分かっている」


 むしろ静かに答える。


「だから俺も変える」


 琳香は目を上げた。


 暁嵐はそこで初めて、ほんのわずかに視線を落とした。

 言葉を選んでいる顔だった。


「これまで俺は、お前を食医として使い、毒見役として使い、目として使った」


 琳香は黙って聞く。


「だが今はそれだけでは足りん」


 裴清も動かない。

 小厨の中で、湯気の立つ音だけが小さく響いている。


「お前が復讐のためにここへ来たことも、俺を利用しようとしたことも知っている」


 暁嵐は低く言った。


「そのうえで、まだお前をここへ置いている」


 言葉の意味が、ゆっくり胸へ落ちる。


「なら、契約を変える」


 琳香は思わず息を止めた。


「契約……」


「前は、呪いを漏らさない代わりに、お前が俺を治すというものだった」


 暁嵐の目がまっすぐ琳香を捉える。


「今からは違う」


 その瞬間、琳香は不思議なくらい静かになった。

 何を言われるのか、怖いはずなのに、逃げたいとは思わない。


「お前一人で復讐に行くな」


 暁嵐の声は低く、揺るがなかった。


「お前の家のことも、俺の呪いのことも、全部まとめて俺が引き受ける。道具ではなく、相棒として共に戦え」


 言葉が終わるまで、琳香は一度も息をつけなかった。


 相棒。


 その響きは、思っていた以上に深く胸へ刺さった。

 食医でも、毒見役でも、手がかりでもない。

 隣へ立つ者として呼ばれたのだ。


 裴清が小さく息を吐く気配がした。たぶん彼にとっても、この言葉は軽くなかったのだろう。


 琳香は何か言おうとして、けれどすぐには言葉にならなかった。


 復讐はずっと自分一人のものだと思っていた。

 沈家が焼けた夜から、誰にも触れさせないまま抱えてきたものだ。

 それを、今、目の前の人が当然のように自分の側へ引き寄せている。


「……そんな簡単に」


 ようやく絞り出せたのは、それだけだった。


「簡単じゃない」


 暁嵐はすぐに答える。


「だが今さら別々にもできん」


 それはたぶん、本心だった。

 呪いも、沈家も、羽の印も、天狼の膳も。

 もうどれか一つだけを追う段階ではない。


 琳香は唇を結び、少しだけ目を伏せた。


 うれしいと思った。

 同時に、怖いとも思った。

 誰かと復讐を分け合うことなど考えたことがないからだ。


 けれどその怖さの奥に、ひどく静かな安堵がある。

 一人でなくていい、と言われたことへの。


「……分かりました」


 そう答えた声は、自分でも少し震えていた。


「でも条件があります」


 暁嵐の眉がわずかに上がる。


「また条件か」


「はい」


 琳香は顔を上げた。


「将軍も一人で無茶をしないこと。何か決めたら、先に私と裴清さんへ言ってください」


 裴清がそこで初めて、少しだけ肩を揺らした。


「それは良い条件だ」


 暁嵐は裴清を一瞥し、やがて琳香へ戻る。


「善処する」


「それだと駄目です」


「お前は細かいな」


「将軍が大ざっぱすぎるんです」


 ほんの一瞬の沈黙のあと、暁嵐の口元がかすかに和らいだ。


「……分かった」


「本当ですか」


「ああ」


 短いが、今度はごまかしのない返事だった。


 そのとき、外で近衛の足音が止まり、戸口の向こうから声がした。


「将軍、北門外で不審者を一人確保しました」


 裴清がすぐに応じる。


「連れていけ。私も行く」


 暁嵐は琳香を見た。


「お前はここで待て」


「はい」


 もうさっきのようには反発しなかった。

 契約が変わった今、待つことは置いていかれることと同じではないと分かったからだ。


 裴清が出ていき、暁嵐も続こうとして、ふと足を止める。


「琳香」


「はい」


「相棒だと言ったからには、もう勝手に背負うな」


 その言葉を残して、彼は小厨を出ていった。


 戸が閉まったあとも、琳香はしばらく動けなかった。


 胸の奥が熱い。

 苦しいのに、苦しくない。

 昨日、白狼へ触れながら認めた気持ちが、今はさらに別の形で広がっている。


 道具ではなく、相棒。

 その呼び方が、思った以上にうれしい自分がいた。


 小厨の卓には、まだ食べかけの朝餉が残っている。

 けれどさっきまでの空気とは、もう違って見えた。


 復讐は消えない。

 呪いも終わっていない。

 それでも今、琳香は初めて、後ろではなく前を見て戦える気がしていた。


 それは契約の更新というより、もっと深いところで、互いの立ち位置が決まった瞬間だった。

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