異変
それから昼休憩を挟み、鏡の調律に挑んだ。
シエラはまた調律中に鏡の中に引きずり込まれるだろうと覚悟していた。
だが、拍子抜けするほど何も起こらなかった。
調律自体は順調とはいえないまでも、僅かに進んでいた。
内部の魔力の流れは、あるところは捩れ、あるところは断絶し、またあるところは滞っている。
分かってはいたが、まるで何百と絡まり合った糸のように複雑で、今日一日だけではようやく末端のいくつかを解きほぐした程度だ。
「……今日のところはここまでね……」
そう呟き、シエラは工具を置いた。
すでに日は沈み、辺りはとっぷりと暗くなっていた。
手鏡を柔らかな布で包むと、作業台の引き出しの中に入れる。もうここが手鏡の定位置となっていた。
「ルネ、ぼちぼち食事の準備をしましょう」
ルネは長椅子から窓を眺めていた。
窓の外は、墨を流したような夜空と、白い宝石を砕いたような星々が輝いていた。
「今日は星が良く見えてるわね。
『アステリアの星月夜』っていうのよ。アステリア王国って、星が良く見えるので有名らしいわ。――母さんもアステリアの星はきれいって言ってたな」
普段から見慣れているシエラからすれば、きれいだけれど、当たり前にある光景だ。
星空に、そこまで見入る訳もなく、窓に映る自分の姿に目がいった。
「…………?」
一瞬、窓に映る自分と視線が合わなかったような気がして、シエラは首を傾げた。
そんな訳はない、鏡像のシエラは不可解そうな顔をしてこちらをしっかりと見ている。
さすがに疲れているんだろうとシエラはバリバリと自分の頭を掻いた。
「……星というものを、初めて見ました」
「それじゃあ何、あんたの世界の夜空は真っ黒ってこと?」
「月はあります。大きくて真っ白な月が」
「……それってちゃんと満ち欠けするやつよね?」
「満ち欠け……いえ、しません。毎夜、月は決まって丸く、そして、まぶしいほど、明るく光ります」
おかしいでしょうかとルネは首を傾げた。
「おかしいっていうか……」
シエラの世界では月は満ち欠けして当たり前のものだ。何と言っていいのか分からず、シエラは口をもごもごとさせた。
それをどう思ったのか、ルネは夕闇に侵食されている瞳で、シエラを見た。
「……鏡の国は、静かです」
一拍置いて静かに話し出す。
「静寂は美徳とされています。音を立てることは、あまり好まれません」
さらにルネは少し考えるように目を伏せた。
「……すべてが整っています。形も、色も、配置も」
視線を窓に映る星へと映す。
「けれど――」
ほんのわずか、言葉が止まった。
「……何かが、足りないように感じることがあります」
「……変な国なのは確かだけど。――あんた、何か思いつめてない?」
「いいえ。――いいえ、そうではありません。
……『思いつめる』という状態を、私は知りません」
ルネの言葉が、やけに静かに響いた。
シエラは何か言い返そうとして――やめた。
代わりに、もう一度窓の外へ視線を向ける。
星は、相変わらずきらきらとさんざめいていた。
だが。
「…………?」
まただ。
窓に映る自分の動きが、ほんのわずか、遅れた。
シエラはゆっくりと右手を上げる。
――映る自分も、同じように手を上げる。
だが。
ぴたりと重ならない。
ほんの指一本分、遅れている。
「……気のせいじゃ、ない」
小さく呟いた瞬間。
窓の中の“シエラ”が、先に動いた。
――にやり、と。
ありえない角度で、口元が歪む。
「――っ!」
シエラは反射的に一歩下がった。
その拍子に椅子が軋む音が、やけに大きく響いた。
「どうしました」
背後からルネの平坦な声。
「窓……見て」
短く言うと、ルネは静かに立ち上がり、隣に並ぶ。
共に窓を見る。
そこには――何もない。
いつも通りの、自分たちの姿だけ。
「……正常に見えます」
「さっき、動いたのよ。あたしより先に」
「先に?」
ルネがわずかに首を傾げる。
シエラは舌打ちした。
こんな事が起きるだなんて……全く、信じ難い。
「通りで不気味なくらい大人しいって思ってたのよ。……最悪」
嫌な予感が、確信に変わる。
「“中”だけじゃない。あれ、外にも干渉してきてる」
シエラがそう言い切った、その時。
――コツ。
小さな音がした。
工房の奥を二人は同時に見た。
魔導炉の手前、作業台の方――手鏡を仕舞ったはずの場所から、音がした。
――コツ。
今度は、はっきりと。
内側から叩く音。
シエラの背筋に冷たいものが走った。
「……冗談でしょ」
ゆっくりと、作業台に近づく。
足音がやけに重い。
引き出しに手をかける。
開けるべきか、一瞬だけ迷う。
――コツ。
今度は、急かすように。
「……っ、うるさいのよ!」
勢いよく引き出しを開けた。
中には、布に包まれた手鏡。
それだけだ。
しかし、布が、わずかに脈打っている。
呼吸するように――膨らんで、縮む。
「……生き物じゃないんだから」
シエラは自分に言い聞かせるように呟きながら、布に手を伸ばす。
触れた瞬間。
――ぞわり。
今までよりもはっきりとした“感触”。
冷たさじゃない。
触り返された。
指先に、何かが絡みつく。
――寂しい。
耳元で、声がした気がした。
シエラは反射的に手を引く。
だが、遅かった。
布の隙間から、黒い“何か”が滲み出る。
液体のようで、影のようで。しかし形を持たないまま、ぼとりと床へと落ちた。
それはぬたり、と広がった。
そして――ゆっくりと、“立ち上がる”。
人の形をなぞるように。
真っ黒な影法師のような姿だ。顔も身体も全てタールのような黒で塗りつぶされている。
ただ――。
こちらを見ていることだけは、はっきり分かった。
「……あんた、何よそれ」
シエラの声は、思ったよりも落ち着いていた。
恐怖より先に、職人としての苛立ちが勝っている。
「……余計なもん、噛んでるって言ったでしょ」
ハンマーに手をかける。
「あたしがそれごと、直してやるわ」
その言葉に反応したように、“それ”は、ゆらりと揺れた。
そして。
か細い声で、確かに言った。
――さみしい。
子供のような、老人のような、男のような、女のような、どれでもあって、どれでもない不思議な声だ。
“それ”は、ゆらりと揺れながら――まっすぐ、ルネの方へ向いた。
「……来るな」
低く、短い声。
いつもの笑みを取り去ったルネのものだった。
その声には初めて、明確な“拒絶”が滲んでいる。
けれど、“それ”は止まらない。
二足歩行に慣れていないのか、よたよたとゆっくり、けれど確実に距離を詰めていく。
――さみしい。
――さみしい。
繰り返すたびに、形がわずかに変わる。
細く、歪に。
まるで、誰かに“合わせよう”としているみたいに。
ハンマーを握るシエラの手に、力が入る。
シエラはしっかりと影法師――鏡から出てきた”それ“を見据えた。
「こいつ、何故かあたしじゃなくて、あんたに向かってるわね」
その言葉に、ルネの瞳がわずかに揺れた。
“それ”は、すでにルネの近くまで来ていた。
腕を影のように伸ばして、触れようとする。
ルネの身体が、びくりと震えた。
「……やめろ」
かすれた声で制止するが、当然、“それ”は止まらない。
触れる――ルネの頬に。
ルネの呼吸が、一瞬だけ乱れる。
その目に、初めて、鮮明な感情が浮かんだ。
――恐怖、だ。
「……っ、シエラ!」
ルネに呼ばれて、シエラは動いた。
迷いない動作で作業台を蹴るように踏み込み、そのまま“それ”とルネの間に割って入る。
ルネを自身の背後に押しやって、シエラは威勢良く、ハンマーを振るった。
「触るんじゃないわよ、未調整品が!」
振り下ろされるハンマー。
だが――、手応えはない。
空を叩いたように、すり抜ける。
”それ”は怯んだ様子もない。
「ちっ……物理じゃ効かないか」
シエラは顔を歪ませたが、思考をすぐに切り替える。
シエラは腰の工具袋から細い針金のような器具――調整針と呼ばれるものだ――を取り出す。
「だったら、こっちよ」
魔導炉へ視線を走らせる。
「ちょっと借りるわよ!」
片手で調整針を構えたまま、もう片方で魔導炉の炎を“呼んだ“。
炎が、応じるようにぼわりと膨れ上がり、一つが千切れて火の玉となった。それは火花を撒き散らしながら、シエラの手にある工具に燃え移った。
その火の玉は手袋もしていないシエラの手をもじゅっと焼いていったけれど、彼女は構わず魔導炉の熱を宿した工具を“それ”へと差し込んだ。
手応えはなく、まるで空気を差したようだった。
金属でもガラスでもない、歪な音が、ギィィインと響いた。
“それ”が大きく揺れる。――初めて、反応した。
「っ、なるほどね」
冷徹な眼差しで観察していたシエラの口元が、歪む。
「音がズレてる。まったく合ってない……」
目を細めたシエラはさらに一歩踏み込む。
「存在がブレてんの。だから、あんたはまともに形も取れない」
器具を深く差し込む。
“それ”の輪郭が、ぐにゃりと歪む。
――さみ、しい。
声が途切れる。
「うるさい!」
ぴたりと言い切る。
「泣くならちゃんと泣きなさい。こんな半端な形で出てくるんだったら――最初から壊れてなさいよ。あたしが必ず直してあげるわよ!」
そのシエラの啖呵に、“それ”が、止まった。
一瞬の、沈黙。
――ぐしゃり。まるで破裂した水風船のように、形が、一気に崩れた。
床に広がる黒。
だが、完全には消えない。そいつは、まだ“そこにいる”。
「……やっぱり核があるみたいね」
シエラは息を整えながら呟いた。
「これ、ただの現象じゃない」
ちらりとルネを見る。彼は青白い頬をして、ただ佇んでいた。
「まだ、終わらないわよ。――調律しないかぎり」
ルネは答えない。
ただ、じっと床の黒を見ている。
その目に浮かんでいるのは――先ほどよりも、濃い感情だった。
それが何かを、シエラはまだ知らない。
だが、確信だけはあった。
「面倒な依頼、引き受けちゃったわね。
――でもまあ、いいわ」
火傷した手をひらりと揺らし、シエラはにやりと笑う。
魔力で満たされた内部から出てくる、”魔導具“。なんて面白く興味深いのか。
恐怖より、好奇心が勝った。
「こういうの、嫌いじゃないのよ」
***
ひとまず、一段落したと判断すると、途端にシエラのお腹がなった。
「あーー!!腹減った!!もう腹ぺこで死にそうだわ!!」
「……呑気なものですね」
未だに床の黒い染みに視線を注いでいるルネの声音はいつものように柔らかいものではなかった。
それどころかやや刺々しくも感じられ、シエラは眉を上げた。
「あら、あんたもそんな声出せるのね!
悪いけど、こっちは朝から晩まで働いてるのよ、腹が減って当然でしょう!」
「……不安ではないのですか、これで終わらないと言ったのはあなたですよ」
「そんなの、また魔導炉の火でぶっ差してやりゃあいいのよ!難しく考えなくったっていいの!」
――ああ、でも、飯…の前に火傷の処置の方が先だとシエラは思い直した。
長年、魔導炉相手に仕事をしてきたシエラにとって、軽い火傷など慣れっこである。しかし、早く冷やして、軟膏を塗っておかないとピリピリとした痛みが長引くのを経験上知っていた。
まず水で冷やそうと、キッチンで桶に水を汲み、そこにちゃぷちゃぷ手を浸ける。
幸い、親指と人差し指の先だけの火傷で、大したことは無さそうだった。
これなら明日の手鏡の調律も問題なく、行えるだろう。
「……怪我をなさったんですか」
そんな風に火傷の様子を観察していたシエラの背後にまた気配なく、ルネが現れた。
「いや、だから、ルネ、あんた急に現れたらびっくりするでしょうが!」
「傷の具合は如何ですか」
「だから人の注意を無視するなっての!
……大した怪我じゃないし、明日の手鏡の調律も問題なく行えるわよ。一応軟膏塗って、包帯は巻いとくつもりだけど」
そうですか。そう相槌を打つルネは変わらぬ笑みを湛えていた。もうあの眼に浮かんだ激情はかれの奥深くに沈んだようだった。……少なくとも表面上はそう見える。
しばらくして、水から手を出し、キッチン棚に並んでいる瓶の中から青色のものを出す。
火傷に良く効く軟膏のものだ。しかし、瓶の蓋がどうにも開かない。利き手の指を火傷したのだから、当たり前なのかもしれない。
瓶の蓋を苛々しながら開けようとするシエラに見かねたのか、ルネが声を掛けてきた。
「シエラ、貸して下さい。開けます」
「ああ、悪いわね」
しかし、ルネは瓶の蓋を開けたまま動かなかった。
「……?あんたもどっか火傷したの?」
「いえ、あなたの傷に塗らせて下さい」
「はあ?怪我したの、片手だし、あたし一人でも塗れるわよ」
「……あなたはあの影から私を守って下さった。私が依頼したのは手鏡の調律だけです。それなのに、あなたは躊躇うことなく、果敢に立ち向かいましたね」
「それは……あれも調律の一部といえば一部だし……」
「『手当て』。これは感謝に該当する行為だと思われます」
ルネは両手で、シエラのタコと傷だらけの手を取って、椅子に座らせた。
ルネの手は予想通り冷たくて、でも意外としっかり大きい。
「あなたの行動は、対価と同等とはとても言えません。――それにも関わらず、行動を継続する理由が理解できない」
ルネはシエラの指先にそっと薬草の匂いの強い軟膏を塗る。二人の間に薬草のつんとした匂いが広がった。
「包帯は?」
「……さっきの瓶が入っていた……棚のところに……。あ、いや、自分で巻くから!」
「シエラ」
薄氷色の目が瞬く。
「私にやらせて下さい。……そうすることで、何かが『適切になる』気がします」
「……片手で包帯を巻くのって難しいから、別にいいけど……」
ルネは包帯を丁寧な所作で指先に巻いていく。
シエラはそれを眺めながら、「あんたってほんと訳が分かんない」とぼやいた。
ルネはふっと手元からシエラに視線を移した。
「言葉通りです。今のあなたを放置するのは不適切だと判断しました」
「不適切、ねぇ……。適切かそうじゃないか、相応しいか否か……そんな面倒な事を考えながら、あんたは行動してるの」
ルネはひんやりとした指先でシエラの手のひらに触れた。ルネは爪の先まで整えられたように美しい。
「あなたの手は傷が沢山ありますね。皮も厚い」
「そりゃあ、鍛冶仕事をしてたら、そうなるわよ」
ルネは指先を移動させ、シエラの包帯を緩まないようにきゅっと締めた。
「……きついわよ」
「ああ……失礼しました」
ルネは締めていた力を緩める。しかし、その調整に、少し時間が掛かっているように思え、シエラは声を掛けた。
「ちょっとどうかした?」
「いえ……何でもありません」
ルネはゆっくりと、どうしてだかややぎこちなさすら感じる動きでシエラの手を離した。
――……。
シエラははっと工房に繋がる扉を見た。しかし、工房からは何の音もしなければ、”あれ“の気配もしない。
けれど。
「今、反応、した……?」
「……シエラ?」
「……何でもない!さあ、もう遅いし、ぱぱっと夕食を食べちゃいましょう!」
シエラは胸に掠める違和感を振り払うように、椅子から立ち上がった。
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