第7話 管理人室 ミヨさん

花曇り荘で、いちばん早く起きるのはミヨさんだった。


朝六時。

まだ商店街のシャッターも半分眠っている時間に、玄関の引き戸ががらりと開く。


打ち水の音。

箒で土間を掃く音。

植木鉢を動かす音。

誰かの靴の向きを勝手に直す音。


花曇り荘の朝は、だいたいその音で始まる。




僕がここへ越してきて、二度目の春だった。


大学二年生になり、駅までの近道も、学食で空いている席も、単位の取りやすい講義も覚えた。


花曇り荘にもすっかり慣れた。


ミヨさんの肉じゃがは甘めだとか、ナツミさんは機嫌がいいと鼻歌が増えるとか、ヨシオくんは昼過ぎまで起きない日の方が元気だとか、島田さんの締切前は花曇り荘全体が静かになるとか、タケ爺は本当に天気を当てるとか。


そういうことが、もう驚くことではなくなっていた。


ある朝、寝坊した僕が慌てて階段を下りると、玄関でミヨさんに止められた。


「ちょっと待ちな」


「一限遅れます」


「顔が朝じゃない」


──また始まった。


「昨日何時に寝た」


「二時くらいです」


「馬鹿だね」


即答だった。ミヨさんは呆れた様子で溜息を吐いた。


「若い人はね、若いってだけで無茶が効くと思ってる」


「だいたい効きます」


「効いてるんじゃなくて、削ってるんだよ」


そう言って、ミヨさんは僕の鞄にバナナを一本ねじ込んだ。


「電車で食べな」


「食べにくいです」


「じゃあ駅で食べな」


結局、その日は一限に遅れた。



昼に帰ると、管理人室のドアが少し開いていた。


中から味噌汁の匂いがする。


「おかえり」


待っていたと言わんばかりに睨まれたかと思えば、優しく手招きされた。

管理人室に入ると、ちゃぶ台の上に焼き魚、卵焼き、味噌汁、漬物が二人分並んでいた。


「座りな」


「なんで僕の分まで」


「魚、一人分だと焼く気しないからね」


そう言って、ミヨさんはお茶の入った湯飲みが乗ったお盆を僕に渡してきた。




僕が箸をつけたのを見ると、ミヨさんはゆっくりと口を開いた。


「大学はどうだい?」


「普通です」


「普通って便利だね」


「まぁ、普通ですから」


「友達は」


「います」


「女の子は」


「いません」


「即答だね」


その時、僕は味噌汁で咽せた。

ミヨさんは笑いもせず、味噌汁をすすった。


「楽しんでるかい」


その質問だけ、少し答えに困った。


講義もある。友達もいる。バイトもしている。たまに飲みにも行く。


困ってはいない。


けれど、それを“楽しんでいる”と呼ぶのかはわからなかった。


「……たぶん」


そう言うと、ミヨさんはうなずいた。


「なら大丈夫だ」


何がなのかは教えてくれなかった。




その日の夕方、ナツミさんが花束を抱えて帰ってきた。


「ただいまー」


「「おかえり」」


僕とミヨさんの声が重なった。


ナツミさんはにやりと笑って、


「家族みたい」


と言った。


「家族より気楽だよ」


ミヨさんは即座にそう返した。




夜、共同洗面所で歯を磨いていると、ヨシオくんが隣に来た。


「今日、管理人室で昼ごはんだったんだって?」


「なんで知ってるんですか」


「んー……味噌汁の匂い?」


意味がわからなかった。


「ミヨさん、たまにやるんだよ」


「何を?」


「なんとなく元気ないやつ拾って食わせるの」


「元気なかったですか、僕?」


ヨシオくんは鏡越しに僕を見た。


「少し、二年生っぽかった」


「どういう意味ですか」


「んー……あれだ、ほら、一年生じゃなくなって、三年生でもない感じ」


結局同じことを言っていた。




数日後、大学の帰りに商店街でミヨさんを見かけた。


八百屋の前で、店主と値段交渉している。


「あんた、若いんだから持ちな」


見つかった瞬間、荷物持ちにされた。


玉ねぎ、豆腐、味噌、なぜか大量のじゃがいも。


「重いです」


「あんたよりは軽いよ」


「さっきそんな買わないって言ってましたよね」


「最近、覚えるよりも忘れるほうが早くてね」


そんなやりとりをしながら、花曇り荘へ戻る途中、ミヨさんがぽつりと言った。


「二年生って、いい時期だよ」


「そうですか?」


「まだ失敗しても若いで済む。少し分かった気にもなれる。いちばん調子に乗りやすい」


褒めていなかった。


「でもね」


ミヨさんは歩きながら続けた。


「そのくらいの時期に、何を面白がったかって、あとで結構残るんだよ」


そう言って、ミヨさんはいたずらっ子のように笑った。


その言葉は、なぜか少しだけ胸に残った。




その春、僕は講義を一つさぼって、平日の昼に銭湯へ行った。


帰りに喫茶店へ寄って、誰にも会わずに本を読んだ。


夕方に帰ると、玄関先でミヨさんが箒を持っていた。


「大学は?」


「休みました」


「ほう」


ミヨさんは少しだけ目を見開いて、口をすぼめた。

怒られるかと思ったが、僕の様子を見て、すぼめた口を緩めると、意地の悪そうな視線をこちらに向けた。


「で、面白かったかい?」


僕は少し考えてから答えた。


「……かなり」


ミヨさんは満足そうにうなずいた。


「なら結構」


それだけ言って、また土間を掃き始めた。


花曇り荘には、家族ほど面倒じゃなく、他人ほど遠くない人たちがいる。

けれど、誰が少し立ち止まっていて、誰が少し無理をしていて、誰が少し寂しいか。

いちばん最初に気づくのは、たぶん管理人室の人だった。

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