第四十一話:獄炎の代償と、不気味な工場

 中層一階。上層とは打って変わって、大気に混じる魔障ましょうの濃度が跳ね上がる。

 フェリアは一人、湿った岩壁に背を預け、アンリエットから託された銀色の紋章を掌に握りしめていた。


「……行くわよ。見てなさい、クロ。あんたの知らないところで、私はもっと先へ行くんだから」


 独り言で自分を鼓舞し、フェリアは紋章に意識を集中させた。アンリエットに教わった通り、己の魔力を回路へと流し込む。

 だが、次の瞬間、彼女の顔から血の気が失せた。


「――っ!? な、にこれ……ッ!」


 喉の奥からせり上がるような、強烈な嘔吐感。

 紋章は単なる道具ではなかった。それはフェリアの魔力貯蔵庫マナ・プールに直接太い杭を打ち込み、中身を強引に吸い上げる寄生体に近い挙動を見せたのだ。

 視界が急激に歪み、足元が泥沼に沈むような感覚に襲われる。魔乏症まぼうしょう――急激な魔力の枯渇によって三半規管が狂い、脳が悲鳴を上げる現象だ。


「はぁ、はぁ……ッ! あいつ……アンリエットは、こんなものを……呼吸をするみたいに扱ってるの?」


 膝をつき、激しい眩暈に耐えながら、フェリアは驚愕していた。

 王都最強、Sランク。その称号の裏にある、常軌を逸した出力の差。自分が天才と持て囃されていた領域が、いかに浅瀬であったかを思い知らされる。

 それでも、彼女は指を離さなかった。


「私を信じて待っていて」


 あんな大口を叩いておいて、入り口で倒れるわけにはいかない。

 フェリアは奥歯を噛み締め、無理やり魔力の奔流を御した。すると、紋章から黒い霧が噴出し、一体の漆黒の鴉――偵察用召喚獣が産声を上げた。


 召喚獣の視覚と己の意識を同調させ、フェリアは中層を下り始めた。

 五階、八階、十階。

 魔乏症の余波で、一歩進むごとに脳を針で刺されるような痛みが走る。意識を召喚獣に飛ばしながら本体を動かすのは、精神を二つに裂くような苦行だった。


 そして、中層十三階。

 そこは、ギルドの地図では「行き止まり」とされている廃棄区画だった。

 だが、偵察用の鴉が暗闇の隙間に偽装された空間を見つけ出した。フェリアは壁の向こう側へと召喚獣を滑り込ませる。


 映し出された光景に、フェリアの心臓が凍りついた。


「……何、これ……」


 そこは、迷宮の静寂とは無縁の工場だった。

 巨大な試験管のような装置が数十本並び、その中には中層に棲まう魔物たちが、生きたまま鎖で繋がれている。

 装置からは細い管が魔物の胸部へと突き立てられ、脈動するたびに、魔物の生命の源である「魔核マギア」が、汚泥のような液体と共に強引に吸い出されていた。

 抽出されるたびに、魔物たちは声にならない悲鳴を上げ、灰のように崩れ落ちていく。


 命を、ただの資源として精製する、地獄のような光景。


「あそこに、誰かいる……」


 工場の中心。

 魔核を詰めた瓶が積み上げられる検品台の側に、その男は立っていた。

 周囲に指示を飛ばすその男は、迷宮にはおよそ似つかわしくない、仕立ての良い高級な外套ケープを纏っている。深く被った帽子の影で顔の詳細は見えないが、口元には不敵な、それでいてどこか退屈そうな笑みが浮かんでいた。


 その男が、ふと顔を上げた。


「――っ!?」


 召喚獣の視界越しだというのに、フェリアの全身に凄まじい衝撃が走った。

 男から放たれる魔力。それはアンリエットのような圧倒的な質量とも、シルヴィアのような鋭利な冷気とも違う。

 もっと根源的な、死そのものが服を着て歩いているかのような、生理的な恐怖を呼び起こす重圧。


 一瞬、目が合った気がした。

 フェリアは反射的に召喚獣との接続を遮断し、冷たい地面に崩れ落ちた。


「はぁ、はぁ……あ、あんなの……勝てるわけない……」


 震えが止まらない。

 エスティリオが追っていたのは、単なる裏ギルドの残党ではない。迷宮のことわりそのものを踏みにじる、絶対的な悪だ。


 フェリアは這いずるようにして、その場を離れた。

 伝えなければならない。

 あの場所に、今の自分たちでは決して触れてはならない深淵が口を開けて待っていることを。

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