第十六話:メルの解放感

 隠し小部屋を後にし、上層百階層から地上へと続く回廊に足を踏み入れたとき、メルはふと、自分の身体が自分のものではないような錯覚に陥った。


 物理的な重荷は、もうない。

 数人分の月銀が詰め込まれた、あの呪いのような巨大な荷袋は、今はクロとフェリアが手分けして持ってくれている。背中に食い込んでいた麻の感触も、皮膚を焦がすような鈍い痛みも、今はもう遠い記憶の向こう側だった。


「……軽い」


 思わず漏れた独り言に、メル自身が驚いた。

 一歩踏み出すごとに、地面を蹴る感覚が羽のように軽やかだった。これまで、どれだけ深く暗い底に沈んでいたのかを、自由になって初めて思い知らされる。魔障濃度の高い地下階層特有の重苦しい空気さえ、今のメルにとっては、肺を清める爽やかな風のように感じられた。


 何よりも彼女を軽くしていたのは、心に巣食っていた絶望という名の重石が消え去ったことだ。


(お母さんが……助かる。本当に、助かるんだ)


 男たちが言っていた「病気が悪化するぞ」という脅しも、偽物の薬を盾にした搾取も、すべては嘘だった。クロが断言してくれたその言葉が、メルの暗闇を鮮やかに塗り替えていた。


 道中、一行は淡々と、しかし確実な足取りで階層を駆け上がっていく。

 戦闘の疲労はあるはずなのに、三人の間には、これまでの張り詰めた緊張とは異なる、穏やかな空気が流れていた。


「――メル、これを持っていろ」


 三十階層付近、魔障の霧が立ち込める湿地帯を通りかかったとき、クロがふと足を止め、一束の草をメルに差し出した。

 それは、クロが道中に鋭い観察眼で見つけ出していた、清冽な碧色みどりいろをした薬草だった。


「これは……『月影草つきかげそう』? 本物の、心臓の特効薬になる……」


 独学で必死に薬学を学んでいたメルには、その草が持つ価値がすぐに分かった。王都の高級薬局でも滅多にお目にかかれない、野生の、それも最高品質の生薬だ。


「さっきの瓶はただの水だったが、こいつは本物だ。……これを持って帰れ。ギルドに戻ったらすぐにリーサさんに渡すんだ。彼女なら正式なルートで本物の薬師を動かせる。あんたの母親の病気も、これで落ち着くはずだ」


 クロの言葉は、相変わらず無骨で飾り気がない。

 けれど、メルはその草を受け取った瞬間、指先から温かな熱が全身に広がるのを感じた。


「あ……ありがとう、ございます……。私、ずっと、どうすればいいか分からなくて……」


 また、涙が溢れそうになった。

 けれど、メルは今度は泣かなかった。零れそうになる涙をぐっと堪え、胸の内で大切に薬草を抱きしめる。

 それは、誰かに守られるだけの子供から、大切な人を守るために立ち上がった一人の冒険者としての第一歩だったのかもしれない。


「いい顔になったわね、メル。やっぱり、女の子はそうやって前を向いているのが一番よ」


 横を歩くフェリアが、優しく微笑みながらメルの肩を抱いた。

 天才と称えられながらも孤独だったフェリア。魔力を欠きながらも自らの刃を磨き続けたクロ。そして、理不尽に踏みにじられながらも、優しさを捨てなかったメル。


 三人の足音は、地下迷宮の暗い通路にリズミカルに響き渡る。

 地上に近づくにつれ、空気の中に混じる土の匂いが強くなり、遠くから生き物の気配が漂ってくる。


 メルの視線は、もう足元の暗がりを彷徨ってはいない。

 彼女の瞳は、迷宮の出口から漏れ出る一筋の光、そして自分を救い出してくれた二人の背中を、真っ直ぐに見据えていた。


「さあ、行きましょう。お母さんも、きっと待っていますから」


 メルの足取りは、さらに加速する。

 かつて死を待つだけだった少女は、今、自らの手で掴み取った「未来」へと、力強く歩み始めていた。

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