第21話 心が溶ける囁き
王都を包む春の風が、穏やかに白百合の庭を揺らしていた。
昨日まで花の牢獄と呼ばれていた塔は、いまや「記憶の庭」として民が訪れる祈りの場所になっている。
アリアはその管理を任されており、毎朝早くから庭を歩き、咲き変わる季節の香りを記録していた。
けれども今日は、なぜか筆が進まない。
机の上に置いた日誌の文字が震えているように見えた。
胸の奥が、絶えず何かを探している。
一月前、レオンと約束した「平原への旅」は延期になった。
国境に不穏な動きがあり、彼は再び指揮に立たねばならなかったのだ。
「すぐ戻る」と笑っていたけれど、便りは途絶えたままだ。
彼が戦うと決めれば、誰も止められない。
それが彼の優しさであり、頑固さでもあった。
アリアは書を閉じ、ふと空を見上げた。
春の陽光の奥に、もう夏の気配が忍び寄っている。
風が甘く、遠くで馬の蹄の音が響く。
まるで昔日の記憶を呼び起こすように――。
彼女の心に、あの時の声が蘇る。
「俺はもう王ではない。ただ人として君と歩みたい。」
その言葉は、時間が経つほどに重みを増して胸を溶かしていく。
「レオン……」
呟いた声が風に消える瞬間、扉を叩く音がした。
アリアは驚いて顔を上げた。
「護印官様、使者の方が!」
ミーナが慌てた様子で駆け込んでくる。
その背から現れたのは、灰色の外套を纏った若い兵士だった。
疲労と緊迫の影を漂わせ、膝を折る。
「師団長レオンハルト様より、伝令を。」
彼が差し出した封書を受け取ると、アリアの指がかすかに震えた。
汚れた封蝋に刻まれた紋章――剣に光、そして百合。
「……無事なのですね?」
「ええ。ですが、戦況は芳しくありません。
国境付近で停戦交渉が難航。師団長殿は単身で敵主使と会見を。」
アリアの唇が冷たくなる。
「また一人で……あの人はいつも独りで戦う。」
使者が去った後、アリアはその場に座り込み、封書を開いた。
中には短い手紙があった。
『この地の風は君の庭に似ている。
どんな夜も百合の香が消えず、光がある。
もしこの戦が終わったら、罪人も王もないあの花の場所へ戻ろう。
そして――君に言えなかった言葉を伝えたい。』
インクの滲みと血の跡が混じる。
その一行の最後には、崩れた筆跡で「アリア」と名が綴られていた。
彼の声が心を焦がす。
遠く離れていても、囁きが耳元に響くように思えた。
「必ず帰る」と言ったその言葉の響きが、時を超えて胸に絡みつく。
アリアは手紙を胸に抱いた。
「言えなかった言葉……それはきっと、愛のこと。」
思考がふと止まり、全身が熱に包まれる。
心が溶け出すように、彼に触れたいという衝動が静かに生まれる。
この一瞬が永遠に続いてくれれば――そう祈りたかった。
***
夕刻。
庭の中央にある小さな礼拝堂の鐘が鳴るころ、アリアは灯を持って塔の奥へ入った。
静寂の中、白い花が夜に光るように咲いている。
香りが濃く、まるで言葉の代わりに彼女を包み込む。
「貴方の声が聞きたい。貴方の笑いが恋しい。」
囁くと、涙が頬を伝った。
忘れたくない想いをひとつずつ胸に刻む。
そのとき、扉のほうで音がした。
振り返ると、礼拝堂の入り口に濡れた靴の跡が二つ。
「誰……?」
言葉の続きもなく、灯がまたたく。
「アリア。」
その声を聞いた瞬間、世界が軋んだように止まった。
まさかと思い、光を掲げる。
そこに立つのは、見間違うはずのない人。
灰色の外套。肩に傷。だが眼差しは生きていた。
「嘘……あなたがここに……!」
レオンは微笑んだ。
「約束を果たしに来た。報告も兼ねてな。」
「無茶をしてはいけないって、何度言いましたか!」
「聞こえていた。でも戦は終わった。停戦だ。」
力が抜け、アリアは膝を震わせた。
レオンが慌てて近づき、彼女の肩を支える。
「そんな顔をするな。俺は生きている。」
「生きているのなら……もう、離れて戦わないで。」
彼は驚いたように息を呑み、手を伸ばす。
指先が彼女の頬をそっとなぞる。
「これが……君の涙か。」
アリアは目を閉じた。
「貴方が戦場にいる間、私はここで何度も祈りました。
貴方の心が壊れないように。貴方が嘘を抱えないように。」
レオンの声が震えた。
「……アリア。あの戦場で俺を支えたのは、君の祈りだけだった。
どんな剣よりも、どんな命令よりも。」
沈黙。
彼の手がそのまま彼女の首筋へ流れ、髪を掬う。
唇が近づく。
心臓が胸を突き上げ、息が喉に絡まる。
ほんの一瞬、誰も存在しない世界で二人の距離が溶けた。
温もりが触れあい、囁き声が耳元を撫でる。
「俺はもう王ではない。けれど――君を守るためなら、また剣を持つ。」
「もう剣はいりません。貴方がいてくれるだけで。」
「それだけでいいのか?」
「ええ。それだけで、生きられる。」
二人の唇が触れた瞬間、灯が揺れた。
白百合の香りが爆ぜ、夜風が窓を震わせた。
時間が止まり、心が溶ける。
彼の囁きが胸の奥で静かに波を立てる。
「愛してる、アリア。」
「私も、ずっと。」
その言葉が夜に溶けて消えるころ、空の彼方で鐘が再び鳴った。
もう罪でも、牢でもない。
その音は、赦しの合図のように優しく響いていた。
レオンはアリアの髪を撫で、少し照れたように笑う。
「俺の戦いは終わった。これからは――君が生きる光として、隣に立つ。」
アリアは微笑んだ。
「貴方の光がここにある限り、私は何度でも咲きます。」
二人の影が花の間で重なり、夜の帳が降りていく。
心はひとつに交わり、愛は言葉より確かにそこにあった。
(第21話 終)
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