第19話 罪とバツ
「ゴレムさん、こいつ無茶苦茶だぞ。」
夕闇が迫る攻略者ギルド。分厚い樫の木の扉を蹴開けるようにして帰還するなり、コナトスさんが吐き捨てるように言った。
その端正な顔には、一日中未知の生物に振り回されたような、隠しきれない困惑と深い疲労が色濃くにじんでいる。
「おや、お帰りなさい。……エプロン姿で迎えるのもなんですが、一体何があったんですか?」
奥から出てきたゴレムさんは、夕食の準備中だったのか、手には木べらを持っていた。
どこからか煮込み料理の甘い匂いが漂ってくる。そのあまりに家庭的で平和な姿と、コナトスさんの殺気立った雰囲気のギャップが、ギルドの空気を奇妙に歪ませていた。
「こいつ、魔術を何発撃っても全く魔素中毒になる気配がない。そもそも『詠唱』なしで、息をするように発動させてやがった。そのくせ、誰でも使えるはずの無属性魔術は使える気配が一切ない……。どうなってるんだよ、こいつの体は。」
結局、僕は壁に向かって、検証のために氷の魔術を連射し続けていた。正確に数えてはいないが、おそらく七十回は超えていたはずだ。
コナトスさんによれば、普通の人間なら二十回で顔が青ざめて嘔吐し、三十回も撃てば歴史に名を残す天才らしい。
……でも、結局「身体強化」の感覚は、爪の先ほども掴めなかった。
強力なエンジンを積んでいるのに、ハンドルの握り方もタイヤの回し方も分からない車。他人が当たり前に持っている部品が、自分には決定的に欠け落ちている。
自分が人間ではない別の「何か」なのではないかという、薄ら寒い居心地の悪さが僕の足元を這い回っていた。
「うーん、なるほど。……水晶に反応がなかったこと、無詠唱であること、そして既存の魔術体系が使えないこと。以上の状況から推測するに……」
ゴレムさんは木べらを置き、顎に手を当てた。その温和な瞳の奥に、人間離れした数百年を生きる学者を思わせる、ひどく鋭い理知の光が灯る。
「彼は私と同じ『代行者』としての力、すなわち『魔力』を持っているのかもしれませんね。」
「こいつがかぁ!?」
コナトスさんの悲鳴に近い叫びが、静かなギルド内に反響する。……それより、今、彼の口からさらりと聞き捨てならない単語が混ざらなかっただろうか?
「ゴレムさん、今なんて言いました……?」
「ん? ああ、そういえば名乗るのが遅れましたね。私はダンジョンの守護者が一人、泥土の代行者ゴレムですよ。」
……。
時が止まったかのように、僕は瞬きを忘れた。しれっととんでもない爆弾が落とされた。この優しそうで、料理が上手で、関節が球体なだけの(それだけでも十分に特異だが)親切なおじさんが、あのダンジョンの「守護者」の一人?
「ゴレムさん、こいつに言ってなかったのかよ……。」
コナトスさんがこめかみを押さえて、深く深く息を吐き出している。この人、少し口は悪いが、実はこの奇妙な空間で一番の常識人なんじゃないだろうか。
「……ま、まあ、その衝撃の事実は一旦脇に置いておくとして。僕の状況と『魔力』には、どんな関係があるんですか?」
「『魔力』は、世界の法則の外にある力ですからね。世界の内に縛られないからこそ、世界との手続きである『契約』が出来ないんですよ。……まあ、例外もいますがね。」
世界の法則の外。その途方もない言葉に、僕は自分の指先をじっと見つめた。
「ということは、僕もその『代行者』ってやつなんですか?」
「いや、それは違うでしょうね。代行者たちは全員、昔からの腐れ縁ですが、私は貴方の顔を知りません。それに今の世界では、新しく代行者は生まれないはずですしね……。」
「それってつまり……」
「……結局、何も分からないということですね。」
「もう……わけわからん。」
コナトスが本日何度目か分からない絶望のポーズで、深々と頭を抱えた。
◻️◻️◻️◻️◻️
「コナトスさん! 一緒にご飯食べに行きませんか? 今日は本当にお世話になりましたし、僕の奢りです!」
その日の晩。僕は気分転換も兼ねてコナトスさんを誘った。初陣で腰が抜けていた僕を見捨てなかった礼もしたかったし、何より、この「わけわからん」空気を少しでも和らげたかったのだ。
「……あんたか。まあいい、明日の打ち合わせも必要だしな。」
連れてこられたのは、ギルド近くにある活気あふれる大衆酒場だった。扉を開けた瞬間、熱気と麦酒の匂い、そして人々の大きな笑い声が全身にぶつかってくる。
彼のおすすめに従い、骨付き肉の香草焼きと、中殻麦のパンを注文する。
「これ、おいしいですね!」
運ばれてきた肉は、じっくりと炭火で炙られ、表面の脂がチリチリと爆ぜている。数種類の野草を合わせたスパイシーな香りが、食欲をそそる熱い湯気と共に立ち上っていた。
表面はカリッと香ばしく、ナイフを入れれば閉じ込められていた熱い肉汁が皿いっぱいにあふれ出した。
火傷しそうなそれを頬張ると、弾力のある肉質が心地よく歯を押し返し、噛みしめるたびに野性味あふれる濃密な旨味が口いっぱいに広がる。冷えた麦酒を流し込む客たちの喧騒が、ひどく心地よかった。
「それは良かった。……さて本題だが、明日はとりあえず第二層までの攻略を目標にする。予行演習だ。あんたのその無尽蔵の『魔術もどき』があれば、二層までの移動なら難なくこなせるだろう。」
「魔術もどきって……。あ、そういえば、ゴレムさんが守護者なら、一気に第三層まで送ってもらえたりしないんですか?」
「守護者の転移か。……あれはそこまで融通のきく話じゃない。あの人が自由に干渉できるのは、自分が担当する第六層だけだ。六層まで飛ばされたところで、第三層までの距離はほとんど変わらない。しかも、第五層以降は魔物の質が変わる『深層』だ。ただ死ぬ確率が上がるだけだな。」
なるほど、残念だ。世の中そう甘くはない。
不意に、僕は目覚めた時からズボンの奥底で握りしめていた「私物」の硬い感触を思い出した。
「コナトスさん、これ……目覚めた時から持ってたんですけど、何か分かりますか? 大切な物のような気がするんですけど……。」
ポケットからテーブルの上へ転がしたのは、掌に収まるほどの大きさの石だった。
それは、周囲のランプの光を吸い込むような、不気味なほどに鮮やかな「赤い魔石」だった。血の雫を固めたようなその石は、喧騒の中でそこだけ異質な光を放っている。
「これは……赤い魔石? ……って、おい! これ、『守護者の魔石』じゃねぇか! 何であんたがこんなもん持ってるんだよ!」
ガタッ!と椅子を蹴倒して立ち上がったコナトスの怒声に、周囲の客が一瞬、水を打ったように静まり返った。
「……あの、守護者の魔石って、普通のとは違うんですか?」
「その辺のモンスターの魔石と同じだ! つまりこれは守護者の『命の核』そのものだぞ! これを持ってるってことは、あんた……守護者を一人、『殺した』ってことだぞ!」
「え!? 僕が!?」
心臓が冷たい手で鷲掴みにされた。
記憶を失う前の僕は、一体何をやらかしてるんだ? 優しい粥の味に感動し、虫に怯えていた平和を愛するジョン・ドゥのアイデンティティが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
「……もう、勘弁してくれ……。」
コナトスが、泣きそうな顔で特大のジョッキを煽った。周囲の客たちが遠巻きにこちらをヒソヒソと見ている。僕はただ、テーブルで妖しく光る赤い石を、震える目で見つめることしかできなかった。
◻️◻️◻️◻️◻️
~翌日~
あの赤い魔石は、第一層の守護者「アルデーレ・エピストゥラ」のものだったらしい。その魔石を使うことで、ダンジョンの入り口から一気に、第一層の最奥にある守護者の部屋までショートカットできるのだという。
僕たちは今、ダンジョンの入り口である、見上げるほど巨大な黒曜石の門の前に立っている。
「赤い魔石は持ったか? よし、そのまま門に触れろ。」
コナトスさんが背後から僕の肩に手を置く。
言われるがまま、ひんやりと冷たい門の表面に掌を当て、強く念じた。
数秒後、赤い石が脈打つように熱を持ち、足元の重力がおかしくなったような強烈な浮遊感に包まれた。三半規管が掻き回され、視界が強烈な白い光に塗りつぶされる。
再び目を開けた時、そこはもう、土と獣の臭いがするジメジメとした第一層の通路ではなかった。
「ここが……守護者の間。なんだか、神殿みたいですね。」
ひんやりと澄んだ空気が肺を満たす。床は磨き上げられた純白の大理石で舗装され、高い天井を支える柱や壁には、精緻な幾何学模様のレリーフが刻まれている。どこからか、古い香木のような厳かな匂いが漂っていた。
「ああ。ちゃんと転移できた。守護者が姿を見せないのも、その魔石が本物の証拠……って、おい、あんた、何があった!?」
「え……?」
コナトスの焦ったような声に指摘され、僕は自分の頬に触れた。
指先が、温かい液体に濡れた。
なぜだろう。次から次へと、涙が止まらないのだ。
この場所には、初めて来たはずだ。記憶のどこを必死に探っても、この白い石畳の感触も、香木のような匂いも、覚えはない。頭は完全に冷静なのに、身体だけが激しく嗚咽を漏らそうとしている。
胸の奥が、鋭い刃物で抉り取られたように張り裂けそうに痛い。
まるで、最も大切な「誰か」をこの場所に置き去りにしてきてしまったような、取り返しのつかない喪失感。ひどく懐かしくて、血を吐くほどに残酷な悲しみが、とめどなく溢れてくる。
「……ごめんなさい、何でもないんです。……なんだか、すごく懐かしい感じがして。」
「……記憶の一部か?」
コナトスはそれ以上追及するのをやめ、少しだけバツの悪そうな、不器用な優しさを滲ませた表情で僕の背中を軽く叩いた。
「……無理はするな。何もないなら、いいが。」
「はい。……行きましょう。先へ。」
僕は袖で乱暴に涙を拭い、一段と深く、重い空気が漂うダンジョンの闇へと続く第二層への階段を見据えた。
この先に、僕の「本当の名前」と、僕が犯した罪の正体が待っていると信じて。
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