第28話 4つの壁
外に出ると、日が落ちかけていた。二人並んで歩いた。リナは黙っていた。セイチも特に何も言わなかった。それでよかった。
リナの家の前まで来た。
「ゆっくり休んで。明日のことは明日でいい」
「……うん」
「何かあったらすぐ来て」
リナが扉の前で振り返った。何か言いかけて、やめた。それから小さく頷いて、中に入った。中からベンゾの声がした。「おかえり」。リナが何か答えた。聞き取れなかった。
少しして、扉が開いた。ベンゾが出てきた。リナの様子を見て何かを察したのだろう。扉を引いて外に出て、静かに閉めた。
「何があった」
セイチは小声で話した。ギルド長のこと。客間でのこと。リナが朝から何も食べていなかったこと。全部。
ベンゾは黙って聞いていた。話が終わっても、しばらく何も言わなかった。夜の路地に、二人分の息だけがあった。
「……そうか」
絞り出すような声だった。大きな手が、脇腹のあたりで握られた。
「俺には、何もできないな」
低い声だった。自分に言い聞かせるような。
「シトロさんの病も。ギルド長の話も。貴族の事情も。全部、俺の手の届かないところにある」
セイチは何も言わなかった。
「情けない話だ」
笑おうとした。うまくいかなかった。
「逃げ出したほうが楽だって、わかってる。そっちに引っ張られる自分もいる」
少し間があった。
「でも、それじゃ駄目だ」
顔を上げた。目が赤かった。
「セイチ、ありがとう」
手が差し出された。その手が、かすかに震えていた。セイチはその手を握った。
「リナのそばにいてやって」
ベンゾが頷いた。扉の中に戻っていった。
帰り道、セイチは一人だった。夜の路地は静かだった。足音だけが続いた。
工房に戻ると、ネロはもう寝ていた。気を遣ったのだろう。いつもより早い。
明かりを一つだけつけた。作業台の前の椅子に座った。外套を脱いだまま、椅子に座っていた。どこにも手が伸びなかった。
静かだった。
明かりが作業台の上だけを照らしている。台の上には何もない。セイチはそこを見ていた。見ていたが、見ていなかった。
頭の中がうるさかった。
リナのことが浮かんだ。朝から何も食べていなかった。あの立ち方。焦点が合うまでの、あの一瞬。ギルド長のことも浮かんだ。背筋の丸み。公爵があんな姿勢で人を迎えることは、まずない。二人とも、限界に近い。
リナとギルド長には、少し気持ちを落ち着かせる薬を届けたほうがいいかもしれない。それはできる。明日にでも。
でも、それは枝葉だ。
根っこはシトロ工房長だ。
シトロ工房長の水晶肺病を治さない限り、何も変わらない。ギルド長は錯乱し続ける。リナは消耗し続ける。わかっている。わかっているが――昨夜、渾身のものを作った。地・闇属性の成分を最大限に引き出した。投与した。変わらなかった。
物理的に、届かなかった。組織の奥まで浸透できなかった。昨夜の全力が、そこで止まった。
同じことがぐるぐると回った。シトロ工房長。薬。届かない。ギルド長。リナ。シトロ工房長。薬。届かない――。
「今の技術では、もうどうしようもない……」
声が出た。自分でも気づかなかった。静かな工房に、その言葉だけが残った。
セイチは少し、止まった。
今の。今の、技術では。
もう一度、その言葉を頭の中で転がした。自分で言った言葉だ。間違ってはいない。今夜の自分が持っている技術では、これ以上のものは作れない。それは本当のことだ。
ならば。今の技術ではない方法が、あるか。
届かない理由は何か。成分の分子が大きすぎる。通常の溶媒では組織の奥まで浸透できない。既存の抽出法では、そもそも有効成分を十分に引き出せていない。
ふと、一つの言葉が浮かんだ。
――超臨界二酸化炭素抽出。
元の世界の技術文献で読んだことがある。二酸化炭素を特定の温度と圧力の臨界点を超えた状態にする。液体でも気体でもないその流体は、気体のように物質の隙間に入り込み、液体のように有効成分を溶かし出す。通常の抽出では届かない場所まで浸透できる。熱をかけないから、成分が壊れない。
これしかない。
と同時に、重い既視感が落ちてきた。以前にも、この結論に辿り着いたことがある。そして同じところで止まった。あのとき、作れないと判断した。理由があった。
まず、圧力容器がない。超臨界状態を作り出すには、極めて高い内圧に耐える容器が必要だ。通常の容器では内側から破裂する。この世界の素材と技術では――。
待て。内圧。思考が、一瞬止まった。
以前作った容器。あれはハニカム多層構造で、外圧に耐えるために設計した。外側からの圧力を各層で分散させる構造。内圧に対して、同じ発想を逆から使えば。
多層構造の各層が、内側からの圧力を段階的に受け止める。一点に負荷を集中させない。魔水晶で要所を強化すれば――できる。圧力容器は、作れる。
一つ目の壁が、消えた。
では次。二酸化炭素をどこから調達するか。超臨界状態に必要な量と純度の二酸化炭素を、この工房で――。
あった。
リナとベンゾに依頼されて作った、あの二酸化炭素生成・加圧装置。虫型モンスターの駆除用に設計したものだ。棚にある。あれを転用すれば、必要な量の二酸化炭素を供給できる。
二つ目の壁が、消えた。
だが、問題はまだある。超臨界状態の維持には、細かな温度管理が必要だ。バイザーで成分の変化は見える。でも温度の精密な制御となると――。
あった。
温度計。第一工房の品質ばらつきを解決するために、自分で開発したあれ。棚の奥にしまってある。あれがあれば、臨界点前後の微細な温度変化を追える。
三つ目の壁が、消えた。
それでもまだ足りない。温度だけじゃない。超臨界状態の反応は繊細だ。容器の中で何が起きているかをリアルタイムで見ながら制御しなければ、成分が壊れる。密閉容器の中を外から観察する手段が――。
あった。
魔水晶の覗き窓。シトロ工房長の査察に応えるために作ったあれ。透明な魔水晶を容器に組み込めば、密閉状態のまま内部の反応を目視できる。バイザーと組み合わせれば、成分の変化まで追える。
四つ目の壁が、消えた。
セイチは静止したまま、しばらくそこにいた。
全部、あった。
圧力容器も。二酸化炭素も。温度計も。覗き窓も。一つ一つ、別々の問題を解くために作ったものが、今夜、一列に並んだ。
全部、ある。
しかし、その認識が落ち着いた瞬間、別の考えが割り込んできた。
もしこれが完成したら。不治とされた病を治せる技術が、この工房にある。それを知った者が、何をするか。
金で動く者は買いに来る。力で動く者は奪いに来る。もっと大きな力を持つ者は――工房ごと、セイチごと、手中に収めようとするかもしれない。国家がその気になれば、二人しかいない工房など。
今夜のギルド長のことを思った。錯乱した公爵が「婿に取れ」と言った。あれは今夜の話だ。技術の価値が広まれば、もっと冷静な、もっと大きな力を持つ者が、もっと合理的な手を打ってくる。
わかっている。危険はよく、わかっている。
セイチは目を閉じた。わかった上で、どうするか。
シトロ工房長が、大事な友の家族が死にかけている。自分にできることが、あるかもしれない。
目を開けた。セイチは立ち上がった。作業台の引き出しを開けた。設計用の紙を引き出した。
ペンを取った。白い紙の上に、最初の線が引かれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます