5, 九字護身法

 そのときだった。

 亜美の足が、ふいに絡め取られたみたいにもつれる。

 同時に、握っていた手に、グッと抵抗が返る。


「亜美」 

 私は振り返った。

 何とか転ばずに済んだみたいだ。


「ごめん、だいじょうぶ。でも……ねぇ、香月さん……」

「なに?」

「……後ろ、やっぱり……」

 亜美の声が言い終わる前に掠れる。


 まるで、喉を内側から撫でられたみたいに。


 ――来てる。

 反射的に、私は亜美の手首を強く掴んだ。


「止まらないで」

「え……?」

「大丈夫。ほら、もう少し」

 自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。


 心臓はうるさいほど鳴っているのに、頭の奥だけが妙に冷えている。

 ――ここで怯んだら、終わる。


 視界の端で、ちらりと“それ”が動く。

 影が、ゆっくりと形を歪める。


 首が、不自然な角度に傾き。

 あの穴のような暗がりが、亜美の背中の向こうから、こちらを覗き込む。


 ――視えるくせに。

 再び直接流れ込んでくる。


 言葉じゃないのに、意味だけがこびりついて離れない。

 胸の奥が、冷たく濡れたようにざわつく。


 ――無視しろ。

 今は、それしかない。


 ――助けないのか。

 その囁きが、頭の奥を掠めた瞬間。


 教室の光景が、フラッシュみたいに蘇る。

 目を逸らすクラスメート。


 聞こえているはずなのに何も言わない沈黙。

 机に残された消しきれなかった落書き。


 ……あのときの空気。

 ぐっと、奥歯を噛みしめる。


「……亜美」

 振り返らないまま、前だけを見て言う。


「この先の公園を抜けたら、私のお母さんの店がある。そこまで行けば――大丈夫」

「公園……」

 亜美が小さくその言葉をなぞる。

 その声は、まだ震えていた。


 言葉が、途中で途切れた。

 亜美の背後で影がぴたりと動きを止める。


 ――来る。

 空気が一気に重くなる。

 肌にまとわりつく圧が、さっきまでとは明らかに違った。


『茜、急げ。圧が強くなっている』

 チチの声が、わずかに鋭さを増す。


『境界を越える気だ。来るぞ』

 視線の先。


 路地の向こうに、公園の入口が見えた。

 街灯の白い光が地面に円を描いている。その縁で――


 あそこまで行けば――

 影が、初めてはっきりと拒む動きを見せた。


 亜美の足がぴたりと止まる。

 同時に彼女の体が後ろへ引かれた。


「……っ!」

 反射的に手首を握る力を強める。

 離さない。


 絶対に。

 手から力が抜けそうになるのを無理やり押しとどめる。


 その拍子にエコバッグが地面に落ちた。

 中身がかさりと乾いた音を立てる。


 気にしている余裕なんてない。

 影が――

 亜美の背中に重なった。


 人の形をした“何か”がぴたりと貼りつくように。

 逃がさないとでも言わんばかりに。


 ――行かせない。

 その意思が、冷たく、はっきりと伝わってきた。


 チチが、背中の毛を逆立てたまま、影に向かって低く言い放つ。

『……そこまで未練を肥やしたか』

 金色の瞳が、闇をまっすぐ射抜く。


『ならば答えろ。お前は――誰を、連れて行くつもりだ』

 影が、ゆっくりと首を持ち上げた。

 その瞬間。


『茜! 九字護身法だ!』

「わかってる!」

 思わず声が跳ねる。

 突然の叫びに、亜美がびくりと体を強張らせた。


「茜……?」

 戸惑いを含んだ声。

 でも、構っている余裕はない。


「――臨」

 短く息を整え、指を組む。


「兵、闘、者、皆、陣、列、在、前!」

 振り下ろした手の先から、火花が散ったような錯覚を覚えた。

 空中に刻まれた九つの格子が、一瞬だけ青白い燐光りんこうを放ち、周囲の闇を無理やり押し広げる。

 

 空気が震え、張り詰めていた何かが、弾ける。

 次の瞬間。


 亜美の背後にまとわりついていた“それ”が、ばちんと弾かれるように引き剥がされた。

 完全じゃない。

 ただの応急処置。


 それでも――今は、それで十分だ。

 私は小さく息を吐いた。

 視線を戻すと、亜美はその場に立ち尽くしたまま、目を見開いている。

 何が起きたのか理解できない顔だった。


『茜、あれはすぐ戻る』

 チチの声が、淡々と告げる。


「うん。わかってる。でも――」

 視線を、公園の先へ向ける。


「“花衣”に行けば結界がある。護符もあるし、とりあえずは凌げる」

 隣で、亜美が不安そうにこちらを見る。

 チチの声は聞こえないから、私の独り言にしか見えないはずだ。


「あの……香月さん……?」

「ごめん、説明してる時間ないの」

 きっぱりと言い切る。


「まずは、黙ってついてきて」

 自分でも驚くくらい、真剣な声だった。

 亜美は一瞬ためらって、それから小さく頷く。


 もう、戻れない。

 街灯の光を背に、私たちは夜へと沈む路地をひた走る。

 あそこに行けば……お母さんの店に行けば、絶対になんとかなる。


 心の中で励ます言葉が、自分自身を鼓舞する呪文になる。

 あの出汁の香りが漂う、温かな「花衣」の暖簾。

 そこは今や、この狂った夜から私たちを守る唯一の要塞に思えた。


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