第5話:落とした日々探しながら
「ねえ、亜乃。千円だけ貸してくんない?」
深夜のシフトを終えて帰宅した昼下がり。万年床から這い出してきた大樹が、寝ぼけ眼で手を差し出してきた。亜乃は何も言わず、財布から千円札を一枚抜き取ってその手に乗せる。大樹は「サンキュ」と短く呟き、パチンコ屋へと出かけていった。
バタン、と薄っぺらいドアが閉まる音が、六畳の部屋に虚しく響く。
一人残された亜乃は、冷たくなったシーツの上に崩れ落ちた。
私は一体、何をしているのだろう。
天井のシミを数えながら、落とした日々探しながら、亜乃は記憶の糸を遡る。
高校を卒業したばかりの頃は、まだ世界がもう少しだけ鮮やかに見えていた気がする。明確な夢はなかったけれど、「何かになれる」という漠然とした期待があった。
大樹と出会ったのは、最初に入った居酒屋のアルバイトだった。当時の彼は、まだフリーターながらも「いつか自分の店を持つ」と笑って語る、少しだけ頼りがいのある先輩だった。仕事の後に奢ってくれた缶コーヒー。深夜の公園で語り合った、中身のない、でも温かかった未来の話。
いつから私たちは、こんな風に腐敗しきってしまったのだろう。
彼の夢はいつの間にかパチンコ玉と一緒に消え失せ、私の期待は深夜コンビニの廃棄弁当と共にゴミ箱へ捨てられた。
そっと見渡すぼやけた夕焼け。
窓の外には、いつもと変わらない淀んだ空と、疲れた街並みが広がっている。
この街のどこかに、私の落としてしまった「まともな人生」が落ちているのだろうか。拾い集めれば、まだやり直せるのだろうか。
――何が楽しいのか?
――なぜ生きるのか?
答えは、どこにもない。
大樹との生活は、泥水の中で息継ぎをしているようなものだ。苦しいけれど、一人で綺麗な水の中を泳ぐ気力もない。沈んでいくお互いの重さを「必要とされている」と錯覚することで、かろうじて生きる理由を捏造しているだけ。
あぁ 二人はきっと馬鹿さ 馬鹿さ。
分かりきっている。こんなものは愛なんかじゃない。ただの惰性と依存だ。
あの日、カフェで涼に冷たくあしらわれてから、亜乃の中のバランスは少しずつ狂い始めていた。
彼の手とすれ違う手と手の間で感じた、あの絶対的な断絶。
普通ならそこで目が覚めるはずなのに、亜乃の心は奇妙な方向へと振り切れていた。
『彼にふさわしい私になりたい』という願望は砕け散った。
その代わり、『私を見てくれない彼』という存在そのものが、亜乃にとっての神様のような、絶対的な信仰の対象になりつつあったのだ。
彼は、この正義も犠牲もないそんな世界において、唯一の美しいバグだ。
彼が私をどう思おうと関係ない。彼が冷たくて無関心な現実の人間であろうと、私の妄想の中で彼が「完璧な存在」であり続ける限り、私はその妄想を栄養にして生きていける。
スマホのフォルダを開く。そこには、遠くから盗み撮りした涼の姿が何枚も保存されている。
画質の粗い写真の中で、彼は誰かと話して笑っている。
君のくしゃくしゃな顔をさ
浮かばせるたび
亜乃は画面の中の彼に、そっと指先で触れた。
この冷たいガラスの向こう側にいる彼だけが、私の生きる意味だ。大樹との泥沼のような現実を耐え抜くための、強力な鎮痛剤。
もしも、この妄想すらも奪われてしまったら、私は本当に生きていけなくなる。
まだ何だってできるよ。
私は狂っている。それは分かっている。
正解のない世界で、間違った方向に全力で走っている。
それでも、この胸の痛みと、身を焦がすような執着だけは、紛れもなく私自身のものだ。
「……涼さん」
誰にも聞こえない声で、その名前を口にする。
それでも届けるよ、確かなこの僕を、僕を、君に。
決して交わることのない彼へ向けて、亜乃は一方的な、そして狂気じみた祈りを捧げる。
役に立たなくなった空の下で、彼女はついに、現実を完全に手放す覚悟を決めようとしていた。
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