あの時、人々はまだ気づいていなかった——
窮地に立たされた時、人は習慣的に助けを求める。これは大多数の人にとってごく自然な行動だ。
「なぜ自力で抜け出そうとしないのか」と問う者もいるかもしれない。
しかし、それこそができる者は、ごく少数の強い者に限られる。
困難にある大多数の人々は、往々にして「助けになれそうだ」と自分で思い込んだ相手を頼る。
その割合からいえば、彼ら自身もまた、習慣的に他者への依存を繰り返してきた側かもしれない。
こうして、この「慣習的な責任転嫁」の中で形作られ、あるいはそれによって回り続ける社会の仕組みは、
結局のところ“精神的な”負担の分散でしかない。
“実質的な”問題解決ができないこと自体は、まだ小さな問題だ。
もしその負担分散が、負担を軽減するどころか、かえって増幅させてしまうのだとしたら——
それは、社会的な連鎖反応を引き起こす災厄と言えるだろう。
残念なことに、そのような災厄は、ほんの些細なきっかけから、じわりと広がっていくことが多い。
乾ききった森の一点の火種が、森全体を燃やすように。
社会も森と同じく、維持管理が必要だ。もしそれを怠れば、自然の法則のように淘汰が繰り返され、循環する発展状態に留まる。
しかし社会は自然ではない。文明の象徴として、発展の後退は許されるべきではない。
だから社会を維持するには、強くて責任感のある有能者がその責務を果たさねばならない。
さまざまな役割を担う者たちが、その任に足りなければ、表面上どれだけ制度が整った社会システムでも、
それは結局、慣習的な責任転嫁の社会にすぎない。
いつか必ず訪れる悲劇を、避けることはできないのだ。