第7話「私って無能枠じゃなくて搾取枠だったんですか限界聖女ですが怒りの矛先完全一致しました」

 私が踏み込んだのは、その異常に低い空気に押しつぶされた天幕の、さらに最も淀んだ隅の場所だった。

 血の臭いに交じって、形容しがたいひんやりとした虚無のような匂いが満ちている。

 擦り切れた筵の上で、泥に塗れた十歳に満たない少年が、音も立てずに小刻みな痙攣を繰り返していた。すぐ横では、着の身着のままといった様子の母親らしき女性が、彼の小さな両手を狂乱気味に握りしめている。


「どなたかいらっしゃいませんか! 少しでも治癒の心得がある方は! お願いです、薬をもらったのに、ユアンの熱も痛みも引かないの」


 すがりつくような彼女の悲痛な声に、周囲は目を伏せるだけだった。誰も助けないのではなく、誰もその手段を持たないのだという重い無力が蔓延している。


「恐れ入ります。私は聖界より癒やしの祈りを継ぐ修道女……主の御心のままに、少し拝見してもよろしいでしょうか」


 即席で作ったとは思えないほど見事な【自己紹介その8・天からの使いのお姉さん】という神聖声帯を響かせ、私は彼女の横にそっと膝を折った。

「あ、ああ……どうか、この子を……」

 エッダというその母親から静かに道を譲られ、少年の体に刻まれた黒いひび割れを間近で観察する。

 外側に傷口は全く開いていないのに、何かにひきつれを起こした内出血のように青黒い筋が網目のように浮かんでいた。物理的な外傷では断じてない。まるで中身を引っ張られて生きたまま引きちぎられているような痕だ。


 息が詰まる。その痛みの出どころに見当がついているだけに、自分の心臓まで鷲掴みにされた気がした。

 魔物に弾き飛ばされた傷ではなく、国を守るための結界が『ほころんだ空間そのもの』に巻き込まれ、無数のねじれを体内の魔力線でモロに食らった証。……つまり、【防壁の欠陥を人体で受け止めてしまった怪我】だ。


(痛いはずよ……こんなの、骨を折るよりも遥かにどうしようもない、理不尽極まりない根幹の傷じゃないの)


 そりゃ物理療法のための気休めの薬草や塗り薬なんて、砂漠にスポイトで水を垂らすよりも意味がないに決まっている。必要なのはそんな表面のごまかしではなく、ずれてひび割れたものを塞ぐ大元からの介入だけだ。


 私は静かに瞼を閉じ、少年、ユアンの胸元へ少しだけ隙間を開けて両手をかざした。


(――慈悲深き主よ、光を――なんて言葉、正直いまはどうでもいい。私の手元に残っている力、行き先さえわかればアンタのとこまで届きなさいよねっ)


 脳内でお祈りのテンプレートを一秒で丸め捨て、残った意地で掌に自前のリソースをかき集めた。本来なら大聖堂の中央で天界の何かしらにアクセスするために恭しく投下する祈りを、一介の少年ひとりに全神経で流し込んだのだ。


 その瞬間だった。

 手のひらを媒介にユアンの傷跡と接続した刹那、背骨を強烈な悪寒が這い上がった。


『ッ――!?』


 持っていかれる。違う、そんな自発的な生易しい単語じゃない。

『吸い出される!!』

 私の中で小さくまとめた治癒の波が、ユアンの体に触れた瞬間、どこか遥か彼方にあるとんでもない質量の何かに向けて、乱暴極まりない剛腕でずるりと引きずり抜かれたのだ。


 声にならない吐息を漏らしながら、必死で体幹に力を込めて指先の痙攣を止めた。危ない、普通にやっていたら一瞬で神聖パワー枯渇の昏倒コンボ一直線にされるほどの一方的な引力。あのバカでかい王都での祈りの式典の直後に見舞われる、【あの尋常ではない吸い取られ方】と完全に一致している感覚だった。

 いや、それ以上だ。これが直接つながっている配線の先であることを証明するかのように、あまりにもダイレクトすぎる。


「あ……ぅ……」

 しかし私の乱れた息と反比例して、強引に奪い取られた魔力の通過とともにユアンの体に残っていた結界の異常なねじれはふわりと解け、青黒かったひび割れの筋が、魔法のように皮膚の表面から薄らいでいったのだ。


 少年の顔から苦痛の色がすっと消え、安らかな、深く底知れない寝息へと変わった。

 彼の中に引っ掛かっていた異常なひきつれを、私が今、『同じ力による接続』で元に戻し、防いだのだから。


「ああ、奇跡……! 女神様……ありがとうございます……本当に、なんとお礼を申し上げたらいいか」

 母親のエッダが顔を覆って泣き崩れる。私は極力息切れを見せないように「お安い御用でございます」という風情で薄く目を伏せ、立ち上がった。

 神聖オーラ大安売りである。外からは神秘的にすら見えるその佇まいの裏で。


 私の思考回路は、凄まじい雷火に撃ち抜かれながら真実を繋ぎ合わせていた。


(マジか。マジかマジか!! はーー、なるほどそういう理屈ね!?)


 地方の傷ついた人々を和らげる私の力は、紛れもなく結界と同一の質。

 この異常な引力。私がここ数か月で一日に何度倒れるかわからないほどの衰弱をしていたのも当然だったのだ。結界がほころんで崩れかかるほど、現場への蓋として強烈な引力が作動し、神殿だの判定儀式だのに関係なく、【無自覚にずっと裏側からリソースをむしり取られ続けていた】のである。


 そして力なきニセモノの聖女だと判定装置の烙印を押された日の夜には、決まってここのように結界の傷跡が広がる地方の崩落騒ぎが連動して起きていたのだろう。

 だとしたら。ああ、だとしたら。


(私は『弱くて、役に立たないから見切られた』わけじゃなかったんだ!!)


 これまでの苦しさと後悔。選ばれない人間が置かれたみじめな無力感が、乾いた音を立てて粉々に砕け散った。

 当たり前じゃないか。判定をする本番よりずっと前から見えない所で底を突くほどの力をお使いに出され続けたら、表面上に測定される残りのカスなんて数パーセントだ。それでもう一絞り、などと抜かしてエラー扱いするポンコツの詐欺測定器を使っている連中。


 なんということだ。なんという悪辣さ。

 王都を守護するためだけの一極集中のおままごと結界と見せかけ、本当に必要な維持や歪みの押しつけ先には、名もなき限界ボロボロ女子の体力をご丁寧に管を刺して丸呑みさせていた。そしてそれがボロを出しかけたとき、すべて彼女個人の生来のスペックのせいにして断罪という最強の隠蔽工作を行ったのだ。

 私はいっちょ前に使えなかった不良品なのではない。システムの中で完全に、不当極まりない生け贄用のブラックラインに乗せられた完全無欠のスーパー被害者!!


「ハッ」

 無意識のうちに漏れそうになった暗黒の大魔王顔負けの嘲笑を、前掛けの布を引っ張り上げる所作で完璧にカモフラージュする。

 燃え上がる怒りが痛快だった。これで未練は欠片もない。私の死はおろか、いま前線の防壁が崩れて苦しむ末端の惨事さえ、奴らの維持管理している欺瞞システムがぶっ壊れているのが最大の元凶なのだ。私が責任を感じる理由は、前世も含めて1ミクロンすら存在していなかった。


「お控えくださいませ。あまり見せ物になさいませんよう」


 そんな胸の高鳴りに満ちた天国めいた気配のなか。

 後ろで様子を見ていたはずのルカではない、冷たく刺すような圧力を伴った重低音が、突然、私の背後から首筋を打ち据えた。

 思わず息を呑み、ゆっくりと振り返る。


 先刻まで大立ち回りの末端にいたはずの男だった。

 私服の甲冑のまま、天幕の入口の松明を遮るように立つ大きなシルエット。血みどろで額の髪が泥にまみれて張り付いているその人物の瞳には、死線を越えた人間の生々しさと、異様なものを鋭く突き刺すだけの絶対的な武の威圧があった。

 王都を去り、今ここに身分を隠して地方防衛を一身に引き受ける大将、ローデリク・ヴァルガその人が。


「――騎士殿……いえ、見回りのお方で」

 私は動揺を飲み込み、あくまでただの善意で居合わせただけの布被り娘としての抑揚を作った。

「私はただ、苦しむ方がおられたゆえに癒やしを与えていただけです。なにかご迷惑を」

「治らないことはここを預かる俺の部隊がよく知っている」

 冷ややかな言葉の刃が、文字通り音もなく空間の距離を縮めた。

 彼は大きなブーツで音も立てず、泥を少し撥ね上げて私との間合いを潰した。周囲の人々はその巨躯と近寄りがたい異様な風体に震え上がり、息を殺している。


「部外者で、しかもその力と手段を持つのであれば。……こんな泥沼の中身は、二度と知る必要のないものだ」

 一拍遅れて伸びてきた分厚く傷だらけの手のひらが、私の手首にひたと落ちるかと思いきや、直接触れず、視線を強制的に患者からこちら側へ引くためだけに使われた。


(っ……なんなの。何を知っている気なのよ)


 暗い目の色。彼に私が「神殿のリゼ」であると見抜かれているかはわからない。この厚手外套と泥に紛れた姿を視覚だけで紐解くには布が多すぎるはずだからだ。ただ、ローデリクは「あの奇妙な黒い傷から何かを繋ぎ直せるほどの能力者」である私の振る舞いに、直感的な危惧以上の明確な『遠ざける意思』を放っていた。


「去れ」

 それは単語だけの拒絶。

「これ以上ここを知るな。見るな」


 強要するように喉の奥で潰した言葉には、相手を見下す傲慢さでも、規律違反への詰問でもなかった。

 もしや彼には見えているのではないだろうか。結界に歪みを負うだけの被害者が誰であれ、力を持ってしまえばこの惨状から連鎖する「巨大で最低なシステム」のただ中へ必ず身を削りに出る未来の道標を。


 だからこその断定だ。これは脅しという形を借りた、この果てしない責任の波に触れる者から先に退路を用意して強制排除しようとする――ただ一つの情のかたち。


 ああ。被ってしまうではないか。

 彼がそんな風に目を伏せながら力だけで物事を処理しようと焦れば焦るほど。私の中で確証という重石を増やしていくのだ。


 視界が少し解像度を落とす。時間の感覚が一瞬だけ引き伸ばされた中で。

 前世の処刑台、私を落としたその死の床を俯きながら見つめ続けていたローデリクの、『何か大切なものを失うだけの最低の敗北者』の顔と、完全に。


(そういうこと。貴方、わかっていた上でどうにもできなくて、そして『そうしないと本当にぜんぶ潰れるから』の思考にしがみついているのね)


 一国の被害を押し付けられ、疲弊を繰り返して一人では回らない車輪を血で回し続ける人間が抱く絶望の姿を。


 それでも。

 私は胸の中枢を氷のように冷やして、ただ淡々と彼から手首ごと一歩身を引いた。その事情を見抜けようがどうであろうが、その痛ましさに心打たれようが、私が彼らと同じ結末を受け入れてやる理由はこれっぽっちも湧いてこないのだから。


「見るなと言われて目を閉じてあげられるほど。私の一日は安くも安全でもございませんので」


 私の静かな返答に、ローデリクの分厚い口端がわずかに止まり、微かに呼吸が硬直した。


 私は彼にもう一度冷たい礼を取り、ただの一度も視線を返さず踵を返した。

 泥臭くて痛い彼らの後悔にも同情するつもりは微塵もない。貴方がそうして誰にも見せず秘密で丸ごと飲み込もうとして切り捨てた理屈。

 見事にそちら側から物理法則とシステムのエラーを引きちぎり、真実を全容ごとかっ捌いて日の目に叩き出してやろうじゃないの。

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