第43話 色彩の喪失
ザザッという摩擦音。
それと同時に全身へ衝撃が走り、
「……っ!」
アスファルトに擦れた膝が痛む。
(……アスファルト?)
晴はハッとして、ざらつく地面を手で確かめた。
(間違いない、アスファルトだ)
街灯に照らされた先を、紙袋を持ったサラリーマンが歩いていた。トナカイと柊があしらわれたクリスマスのデザインの紙袋。
「……戻ってきた……?」
和服姿で夜道に座り込み、虚空を仰ぐ。
通り過ぎる人々は、関わり合いを避けるように足早に去っていく。その静かな様子が、かえってここが日本であることを痛感させた。
晴は震える膝を叱咤して立ち上がると、逃げるように自宅への道を急いだ。
幸い、
数ヶ月ぶりのはずの部屋は、何も変わっていなかった。
テレビをつけると、夜のニュース番組が放送されていた。
画面の隅に表示された日付を見て、晴は息を呑んだ。
そこには、自分が飛天国に召喚された日付が表示されていた。
飛天国での日々は夢だったのかと錯覚してしまいそうになる。
だが、着物や、袂に入れておいた本を見ると、あれは現実だったのだと改めて実感する。
何より、自身の体に刻まれた数々の傷跡が、夢ではないことの証明だった。
あの時、
だが、晴を日本に戻せるほどの霊力を持った人間は飛天国にはいないはずではなかったか。
だとしたら。
多華は自身の霊力を限界まで削り尽くして、あの術を発動させたのではないだろうか。
(そんなに大変な思いをしてまで、私を日本に帰したかったの……? 何のために……?)
結界は綻び、国はまだ危うい状態だったはずだ。
自分という存在は、それほどまでに足手まといだったのだろうか。
(だったら……最後のアレは何よ……)
そっと触れた頬には、彼の柔らかい唇の微かな熱がまだ残っているような気がした。
拒絶するような言葉とは裏腹の、あの甘やかな温度。
(それに、名前……)
多華は今まで一度だって晴の名前を呼んだことはなかった。
いつも「おい」か「お前」、あるいは事務的に「御使い」としか呼ばなかった男だ。
(なのに……何で……)
何故、あんなにも切なそうに名前を呼んだのか。
まるで、もう二度と会えないと、永遠の別れを告げているようではないか。
「多華……」
自分のベッドに横たわると、飛天国には存在しない柔軟剤の香りがほのかにした。
***
荒い呼吸の音が神殿の中に響く。
多華は天を仰ぐようにかざしていた右手を、鉛のような重さと共にゆっくりと下ろした。
肺腑を抉るような後悔がこみ上げるのを、多華は強靭な意志で抑え込んだ。
彼女と出会ってから。
今まで見ていた色のない景色が、彼女との日々に塗り替えられていくようだった。
朝露に濡れる草花の輝きも、夕暮れが空を溶かす茜色も、この世界には美しいものが数え切れないほどあるのだと、彼女が教えてくれたのだ。
そして、それを失う苦しみも。
あの日。
――御使いが生きていた。
その報せを聞いた時、己の耳を疑った。
実際にその無事な姿を見た時、全身の力が抜け、心の底から安堵がこみ上げた。
これまでの人生で、これほどまでに純粋な、震えるような喜びを感じたことは一度としてなかった。
しかし、それと同時に襲ってきたのは、尋常ではない恐怖。
このまま彼女をここに留めれば、いつまた同じ惨劇が繰り返されるかわからない。
次も運良く助かる保証など、どこにもないのだ。
今度こそ、その温もりを、その笑顔を、永遠に失うかもしれない。
もう、失いたくなかった。
関わらせるべきではなかったのだ。
あちらの平和な世界こそが、彼女の生きるべき本来の居場所なのだから。
何より、多華はただ、彼女に生きていてほしかった。
あの笑顔で生きていてほしかった。
たとえ、彼女に、その未来に、もう自分が触れることができなくとも。
「……晴」
誰もいない神殿で、愛おしい名を紡ぐ。
二度と本人に届くことのない、祈るようなその声で。
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