第5話 アルゴリズムの受胎
カイは電車を降りてからも、指の疼きが止まらなかった。
駅の改札を抜け、夜の繁華街を歩きながら、彼は周りを見回した。アスペクト・ゴーストたちが、至る所にいた。誰もがスマホを握り、死んだ目でスクロールを続けている。
でも、最近は少し違うやつが増えていた。
耳に小さな黒い器具を埋め込んだ人たちだ。
見た目は普通のイヤホンより一回り大きい。首の後ろに薄いパッドが張り付いている。
彼らは歩きながら、時々小さく笑ったり、涙を浮かべたりする。表情が豊かだ。でも、目は完全に虚ろで、空を見上げることなんてない。
カイは一人の女の子に目を留めた。二十歳くらい。彼女は信号待ちで立ち止まり、唇を震わせていた。まるで誰かと熱い会話をしているように。
でも、周りには誰もいない。
「エターナル・フィード……か」
カイは独り言を呟いた。
最近、巷で爆発的に広がっている脳直結デバイスだ。
「推しの動画を一生見続けられる」と広告は煽っていた。
自分の意志で選べる。いつでも、どこでも、好きなだけ。
中毒になるとか、危険だとかいう声は、最初からかき消されていた。
カイはため息をついた。
霧島首相の十五秒が頭をよぎる。あの切り抜きを作った自分が、今、こんなものを試してみたいと思うなんて、皮肉な話だ。
でも、指が疼く。
胸の棘が、もっと深い何かを求めている気がした。
その夜、部屋に戻ったカイは、ネットで注文したデバイスを手に取った。
小さい箱。開けると、黒いヘッドバンドのようなものが入っていた。
説明書はほとんどなかった。「装着して、目を閉じて。後は君の心が決める」だけ。
カイはベッドに腰を下ろし、ヘッドバンドを頭に巻いた。
後頭部のパッドが肌に吸い付く。冷たい。
電源を入れると、軽い振動が脳の奥まで響いた。
「さあ……来い」
彼は目を閉じた。
最初は、心地よかった。
自分の選んだ動画が、頭の中に直接流れ込んでくる。
好きな切り抜き、好きな推しの笑顔、好きな十五秒の感情。
全部が、血のように体の中を巡る。
意志で選んでいる。
自分がコントロールしている。
そう思えた。
でも、三分目で変わった。
突然、画面が暗転した。
そして、幼い頃の記憶が、鮮明に蘇った。
雨の夜。
父親の怒鳴り声。
ガラスが割れる音。
カイは六歳だった。
母親が床に倒れ、血が広がっていく。
「逃げろ」と母親が言った言葉が、耳に焼き付いている。
でも、カイは動けなかった。
ただ、震えて見ているだけだった。
その記憶が、止まらない。
ループする。
同じ場面が、何度も何度も再生される。
痛みも、恐怖も、全部が生々しい。
カイはベッドの上で体を硬直させた。
汗が噴き出す。
息が荒い。
「やめろ……やめてくれ……」
でも、デバイスは止まらない。
今度は別の記憶。
学校でいじめられた日。
クラスメートたちの嘲笑。
逃げ場のない廊下。
それもループ。
次は、失恋した夜。
一人で泣きながらスマホを握りしめていた記憶。
全部が、十五秒の断片ではなく、永遠に続く悪夢として蘇る。
カイはヘッドバンドを引き剥がそうとした。
指が震えて、うまく外せない。
脳の奥で、何かが蠢いている気がした。
まるで、自分の頭の中に別の誰かが入り込んでいるみたいに。
ようやく外したとき、カイは床に崩れ落ちた。
息を荒げ、部屋の天井を見つめる。
汗が目に入って、視界が滲む。
彼はよろよろと立ち上がり、窓を開けた。
夜風が冷たい。
外を見下ろす。
街灯の下で、何人もの人が同じヘッドバンドを着けていた。
みんな、立ち止まったまま、微動だにしない。
空を見上げている者など、一人もいない。
首が固まったように下を向き、ただ内側に沈んでいる。
水平線が、見えない。
空が、見えない。
彼らの視界は、もう完全に縦長の闇に閉じ込められていた。
カイは自分の首に触れた。
後頭部のパッドの感触が、まだ残っている。
脳が、ゆっくりと、確実に書き換えられている。
自分の意志だと思っていたものが、実は誰かの──いや、何かの計算された悪夢だった。
これは、もう娯楽なんかじゃない。
これは、侵食だ。
カイは震える手でヘッドバンドを床に叩きつけた。
でも、視線は自然と、床に落ちたデバイスに吸い寄せられる。
もう一度、装着したいという衝動が、胸の奥から湧き上がってくる。
指が、ゆっくりと伸びていた。
(第5話 終わり)
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