第一話 残雪
その人を最初に見たのは、真紘が小学校の四年生に上がる年の、冬の只中の頃のことだった。
その頃はまだ曾祖父が存命で、毎年の盆と正月には、親族一同が本家に集まるのが恒例だった。真紘の父は本家の直系だったが三男坊で、実家からは少し離れた都市部に居を構えて外に勤めに出ていた。そういうわけで、幼い頃から真紘はずっと、毎年の夏と冬には、高速道路を二時間程度車に揺られて本家に向かうのが当たり前だった。
年に二度だけ訪れる本家は、かつての真紘にとっては少しばかり恐ろしいところでもあった。古い作りの日本家屋は広々としていて、大きな池のある立派な庭園には、夏は色とりどりの凌霄花や朝顔、大輪の白百合が咲き誇り、冬は深い雪の中にまっ赤な寒椿がよく映えた。
宴席に飽きた子どもたちはしばしば、夏の暑さも冬の寒さもものともせず、広い邸内や庭で隠れん坊や鬼ごっこに勤しんだものだ。しかし、庭でふと一人きりになった瞬間の静けさや、廊下の隅の暗がりに何かが潜んでいるような想像は、幼い真紘をしばしば不安な気持ちにさせた。
加えて、古い家には似合いの怪談や、曰く付きの骨董品やらの話を大人たちによく聞かされていたのも、その気持ちに拍車をかけた。今にして思えば、子どもたちが危険なことを仕出かしたり、高価な調度品を壊したりしないための脅しだったのだろうが。
それは新年を迎えたばかりの、二日目か三日目の昼過ぎのことだっただろうか。親戚の子どもたちは例によって、大人たちが集まる広間を抜け出し、昨夜積もったばかりの雪の色も眩しい庭に繰り出した。最初の頃は雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりしていたのが、そのうちに隠れん坊をやろうという話になったのだ。
真紘は二番目に鬼になった。水面が凍った池の上に無数の枝を覆い被せるように生えた枝垂れ梅の隣で、真紘は目を瞑ってゆっくりと三十まで数を数えた。そして目を開けると、先ほどまでは大勢いた子どもたちの声で騒がしかった庭は、打って変わってしんと静まり返っているのである。
雪に埋もれた庭にいる寒さにか、不意に訪れた不安にか、真紘はふるりと体を震わせた。
「……もういーいかい」
怖じ気づく気持ちを振り切ってぽつりと口にする。深い雪の中に吸い込まれそうな真紘の声に応えて、微かな囁きめいた声がどこからか返った。
──もういーいよ……。
ともすれば幻聴のように頼りなく反響するそれを聞いて、真紘はゆっくりと足を踏み出す。さくりと足の下で分厚い雪の層が音を立てる。
雪の上を歩けば足跡が残り、寒い屋外に長く隠れていては体も冷える。そういうわけで真冬の隠れん坊は比較的難しい。今も、つい先ほどまで子どもたちが駆け回っていた庭の雪は、いくつもの足跡に踏み荒らされている。それらを辿っても隠れ場所に辿り着くのは難しそうだった。思っていたよりも、みんなを探すのに骨が折れそうだ。
分厚い雲に遮られつつ、時折差し込む弱い日差しは、深く積もった雪を溶かすには至らない。真紘は首周りにしっかりと巻かれたマフラーと、深く被せられたニット帽の隙間に覗く頬を真っ赤に火照らせて、白い息を吐きながら雪を踏み締めた。さくさくと鳴る足音と、少し早い自分の息遣いだけが、静かな庭に響いている。
きょろきょろと辺りを見回しながら庭の中を歩いて行って、ふと気がつくと、真紘は邸内でも来たことのないところに佇んでいた。真紘たち親族の泊まっている母屋の奥から、渡り廊下で繋がった離れの付近は、大人たちからあまり近寄らないようにと言い含められている場所だった。
「……、」
真紘はなんとなく息を潜めて、その場に立ち尽くした。離れには、ここ数年で体を悪くするに伴って、だんだんと気難しくなったと聞く曾祖父の自室がある。ここまで入り込んだことが見つかったら、ひどく叱られてしまうかもしれない。
長く吐き出した息が白く虚空を染めて、曇り空へと昇っていく。誰かに見つかる前に、そっとその場を離れようと心に決めた時のことだった。
音もなく、離れの間とくれ縁を隔てる障子が開いた。はっと息を呑んだ真紘がそちらへ視線をやると、板張りの縁を微かに軋ませ、一人の女性がそこへ足を踏み出すのが見えた。
女性は肩の下まで伸びた長い黒髪を少し乱して、淡い色の長襦袢を簡素に着付けていた。女にしては幾ばくか背が高いだろうか。くれ縁と庭の間にはガラス戸が張ってあるが、それにしても真冬の日本家屋を行き来するには随分な薄着である。彼女は後ろ手に障子を閉めようとしつつ、ふと顔を上げて庭の方へ視線を巡らせた。
濡れたような切れ長の黒い瞳と視線がぶつかって、真紘はついそこから動けなくなってしまう。まだ幼い少年だった真紘の目からしても、彼女は美しい人に見えた。ほっそりとした立ち姿に白い肌、日本人にしても深い色味の黒髪と黒い瞳とのコントラストは、庭の雪とも鮮やかによく映える。儚げでどこか秘密めいた雰囲気の、涼しげな目元や薄い唇が印象的だった。
その姿は、つい先日、大部屋で親戚の子たちと眠る前に、叔父が語って聞かせてくれた昔話に登場した、雪女という妖怪を思わせた。
呆然と立ち尽くす真紘の姿に目を留めた彼女は、何事か言おうと口を開き、それから目の前のガラス戸の存在に気づいてそこへ手をかけた。
からりと音がしてガラス戸が開き、女性はまた真紘へ声をかけようとした。その時、開いたままだった障子の奥から、小さな白っぽいものが飛び出し、彼女の足元をすり抜けて庭先に降り立った。
「あっ」
彼女は小さく声を上げて、素早く視線を走らせた。細い枝の上に雪を乗せてたわむ南天の根元でにゃお、と鳴いたのは、祖父が長年可愛がっているという飼い猫のふくだった。
彼女は慌てたように、雪の上で毛繕いを始めたふくと、背後の障子の向こうの座敷を見比べた。それから今度こそ障子を後ろ手に閉めると、裸足のつま先を一歩踏み出し、そっと庭の雪の上に下ろそうとする。
「……待って!」
真紘は咄嗟に声を上げた。彼女の白い足と、まだら模様のふくの尻尾の先が、同時にびくりと跳ねる。
戸惑うように送られた視線にひとつ頷くと、真紘は慎重に雪を踏み締めてふくに近づいた。警戒するように真紘を見やった年嵩の三毛猫は、飼い主の曾祖父に似たのか気難しくて子ども嫌いだ。近づかないようにしていれば害はないが、ちょっかいをかけて引っ掻かれた子もいると聞いていたから、真紘は緊張気味にそっと手を伸ばす。
「……おいで」
雪で湿った手袋を外した真紘の指先に、ふくがゆっくりと鼻先を寄せた。何度か窺うように鼻をひくひくとさせて、ふいと目を逸らしながらその場に座り直す。真紘は素早くふくを抱き上げると、女性に向き直り、思いのほか重さのある三毛猫を差し出した。
「はい、どうぞ」
「え、ああ……」
女性は差し出されたふくを受け取ってしっかりと抱え直すと、真紘の顔にその黒い瞳の焦点を合わせてじっと覗き込んだ。吸い込まれそうな深い色味に内心でどぎまぎしながら、真紘は首を傾げた。
「何か?」
「いや……ありがとう」
女性はゆっくりと首を横に振り、ふと微かな笑みを口元に浮かべた。化粧ではないのだろうが、白い顔の中でそこだけかすかに腫れたような唇に、何か言葉にし難い色気を感じて、真紘はどぎまぎしつつ目を伏せた。
「冷えすぎないようにね」
踵を返して走り出した真紘の背に、少し掠れた、女性にしてはハスキーな声がかけられた。真紘は振り返らなかったが、その響きに心臓がひとつ、大きく鼓動を打ったことを、いやに鮮明に覚えている。
彼女は名を千雪といい、若くして曾祖母と死に別れた曾祖父の元に、ここ数年になって通い出して居着いている「ゴサイサン」だということは、しばらく後に親族の大人たちの噂話で聞き知ったことだ。その時の真紘は「ゴサイサン」が何なのかを知らなかったが、声を潜めた大人たちが、彼女にあまりいい感情を抱いていなかったということだけは、確実にわかったことだった。
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