第51話 治せるわよ
有栖川アリスが薔薇園に駆け込む、少し前のことだ。
第一騎士団の訓練所では、朝から木剣の打ち合う音が絶え間なく響いていた。
向かい合うのは二人。
一人は金髪の少女。有栖川アリスは腰を深く落とし、木剣を正眼に構えている。額には汗が滲み、肩で息をしていたが、その蒼い瞳に宿る闘志だけは少しも衰えていなかった。
対するのは壮年の男。
木剣を片手にぶらりと下げたまま立つ、第一騎士団団長ダーウィン=ストラバリウス。
ルクセリア最強の剣士と呼ばれる男は、まるで朝の散歩でも楽しんでいるかのような気楽さで、有栖川の間合いの外に立っていた。
訓練所の壁際では、アポロネアが腕を組みながら二人の模擬戦を見守っている。
有栖川が地面を蹴った。
一気に間合いを詰め、木剣を横薙ぎに振るう。
しかしダーウィンの体は風に流される木の葉のようにひらりと横へ舞い、刃は虚しく空を切った。
続けざまに縦斬り。
返す刀で横薙ぎ。
さらに踏み込みながら突き。
どれも届かない。
ダーウィンは二度だけ木剣で軌道を逸らし、三度目は半歩退いただけで躱した。
「相変わらず殺気がただ漏れだねぇ。これじゃ闘牛と変わらないんじゃないのかい? せっかくの才能も宝の持ち腐れだねぇ」
「黙れ!」
有栖川が鋭く睨みつけた。息は荒く、肩も大きく上下している。対するダーウィンは呼吸一つ乱しておらず、その圧倒的な実力差は誰の目にも明らかだった。
それでも有栖川は木剣を握り直す。負けたくない。その一心だけで立ち続けていた。
アポロネアは小さく目を細める。有栖川の剣は昨日より速く、踏み込みも鋭くなっていた。成長速度だけなら驚異的と言っていい。
だが、このダーウィンに届くにはまだ足りない。速さだけではなく、技も経験も、そして覚悟も必要だった。
有栖川が再び踏み込もうとした、その時だった。
訓練所の入口が勢いよく開かれ、どっと人の気配が流れ込む。
金属が擦れる音、乱れた足音、そして苦痛に耐える呻き声が一斉に響き、尋常ではない空気にアポロネアが真っ先に反応した。
「何事だ!」
飛び込んできたのは城内警備を担当する兵士たちだった。
その後ろには第二騎士団の団員たち。
だが彼らの姿を見た瞬間、訓練所の空気が凍り付いた。
「なっ……」
アポロネアは言葉を失う。
戻ってきた騎士たちは全員が満身創痍だった。鎧は爪で引き裂かれたように砕け、血と泥に塗れている。
腕を吊っている者、肩を失っている者、顔面を包帯で覆われている者までおり、自力で歩ける者の方が少なかった。
生きて帰ってきたというだけで奇跡に思えるほど悲惨な有様だった。
アポロネアは我に返ると、慌てて負傷した騎士の一人へ駆け寄り、その身体を支えた。
「何があった! 報告しろ!」
「魔族……です……」
団員の声は掠れていた。
「北の街道で突然……大規模な魔族の群れに襲撃され……団長は……子供たちを庇って……」
そこで男は唇を震わせた。
視線が後方へ向く。
兵士たちが運んでくる担架。
その上に横たわる人物を見た瞬間、アポロネアの顔色が変わった。
「ギヌヌ団長っ!?」
担架の上にいたのは狼獣人の女――第二騎士団団長ギヌヌだった。
だが、その姿はあまりにも痛々しい。左腕は肩口から失われ、腹部から胸元にかけて深い裂傷が走り、止血布はすでに血で真っ赤に染まっていた。
息は浅く、顔色も死人のように青白い。今にも命の灯火が消えそうなほどの重傷だった。
アポロネアは慌てて担架の横へ膝をつく。
いつもの豪胆な表情は消え失せ、その顔には隠しきれない動揺が浮かんでいた。
「ギヌヌ……団長」
その声には明らかな動揺が滲んでいた。
ダーウィンも静かに歩み寄り、ギヌヌを一瞥しただけで容態を悟る。
いつも浮かべている飄々とした笑みは跡形もなく消え去っていた。
間もなく王城付きの薬師たちが駆け込んでくる。
先頭にいたロキシーは即座に担架の脇へ膝をつき、傷口や出血量、毒の侵食具合、脈拍、呼吸を手際よく確認していく。
しかし診るほどに、その表情はみるみる険しさを増していった。
「……っ」
ロキシーが唇を噛んだ。
「傷が深すぎます……回復薬ではどうにもなりません」
周囲がざわめく。
さらに教会所属の白魔道師たちも到着した。
「退かぬか!」
先頭の老魔道師がギヌヌを見る。
そして数秒後には首を横に振った。
「駄目だな」
その一言で場の空気が重く沈んだ。
「傷が深すぎる。加えて魔族の毒が臓腑にまで達しておる。もはや通常の回復魔法ではどうにもならん」
「そんな……!」
第二騎士団の団員たちから悲鳴のような声が上がる。
「何とかならないのですか!?」
「この御方は、この国にまだ必要な御方なのです!」
「頼みます! ギヌヌ団長を助けてください」
老魔道師は苦々しい顔で首を振った。
「不可能だ」
そして小さく息を吐く。
「もし治せる者がいるとすれば――」
「いるのですか!?」
アポロネアが食い付いた。
「誰なのです!?」
「
訓練所が静まり返った。
「聖女……グランタリアの……?」
「左様。しかし今から向かったところで到底間に合うまい」
無情な宣告だった。
誰も反論できない。
誰も希望を口にできない。
担架の上ではギヌヌの呼吸が少しずつ弱くなっている。
第二騎士団の団員たちは拳を握り締め、唇を噛み、ただ俯くことしかできなかった。
アポロネアもまた奥歯を噛み締める。
握りしめた拳から血が滲みそうなほど力を込め、何もできない自分への怒りを押し殺していた。
そして、その光景を見つめていた有栖川の胸にもまた、得体の知れない焦燥が静かに広がり始めていた。
◆
有栖川は担架の上のギヌヌを見つめた。
呼吸は浅い。
顔色も悪い。
だが、まだ死んではいない。
胸は微かに上下している。
その命の灯火は今にも消えそうだったが、確かに残っていた。
「まだ助かるわよ」
静まり返った訓練所に、有栖川の声だけがはっきりと響いた。
アポロネアが勢いよく顔を上げる。
ダーウィンは目を細めた。
第二騎士団の団員たちは信じられないものを見るような顔で有栖川を見つめている。
ロキシーやガランをはじめとする薬師たちも息を呑んでいた。
ただ一方で、教会の白魔道師たちだけは露骨に顔をしかめていた。
「適当なことを言うでないわ!」
先ほどの老魔道師が怒鳴り声を上げた。
「この者はもう助からん! 我らが診たのだ! 神の奇跡、回復魔法を以てしても救えぬ!」
「助かるって言ってんでしょ」
有栖川は平然と言った。
「まだ言うかッ! 神より祝福を与えられぬ小娘に、回復魔法の何が分かると言うのだ!」
「そんな役に立たないもので治療するなんて言ってないわよ」
「なっ……なんだと!?」
老魔道師の顔が真っ赤になる。
「もう一度言ってみよ!」
「何度でも言ってやるわ。見ただけで試そうともせず、最初から諦めてるだけの無能な回復士に頼る必要はないって言ったのよ」
「き、貴様ぁっ!!」
老魔道師は激昂した。
「この者を捕らえよ! 神を愚弄する異端者である! 即刻捕らえ、火炙りにせよ!」
法衣の袖を振り回しながら喚き散らす。
しかし、誰も動かなかった。
第一騎士団も。
兵士たちも。
第二騎士団の団員たちも。
誰一人として有栖川へ手を伸ばそうとしない。
むしろ皆、有栖川の言葉の続きを待っていた。
「な、何をしておるのだ! 早く捕らえぬか!」
老魔道師の怒声が空しく響く。
だが返ってきたのは沈黙だけだった。
「……有栖川」
アポロネアが口を開いた。
その声は震えていた。
「本当に、本当にギヌヌ団長を助けられるのか」
有栖川は真っ直ぐ彼女を見つめる。
その瞳に迷いはなかった。
「ええ。助けられるわよ」
その断言に、アポロネアは思わず立ち上がる。
「嘘ではないのだな……?」
「ええ」
「もしもつまらぬ嘘であれば……私はお前を斬るぞ」
「構わないわ」
有栖川は腕を組む。
「と言っても、あんたじゃあたしには勝てないわよ」
「今はそういう話をしているのではない!」
アポロネアが思わず怒鳴る。
それでも訓練所の空気は、先ほどまでとは明らかに変わっていた。
絶望だけが支配していた空間に、僅かな希望が生まれている。
「それでアリスちゃん」
ダーウィンが穏やかに問いかける。
「一体どうやってギヌヌ団長を救うつもりなのかな?」
「かげ……聖人なら、この程度の傷なんて一瞬で治してしまうわよ」
その言葉に、再び訓練所が静まり返った。
「せい……じん?」
ダーウィンが首を傾げる。
「申し訳ないけれど、ボクたちにも分かるように説明してもらえるかな」
「聖女は神から寵愛を受けた者のことを言うわ」
「そんなことは誰でも知っておるわ!」
老魔道師が再び怒鳴り声を響かせた。
「少し黙っていてもらえますかな」
ダーウィンが視線だけを向けた。
「――ひぃっ」
老魔道師が凍りついたように硬直する。
有栖川はその様子を横目で見て、鼻を鳴らした。
「神から寵愛を受ける者が、なぜ女なのか分かる?」
有栖川の問に、誰も答えなかった。
「神が至ってノーマルな男だからよ」
訓練所の空気が微妙になる。
「……馬鹿馬鹿しい」
老魔道師が呆れたように呟いた。
「ではなにか? 貴様は男が神の寵愛を受けたとでも言うつもりか」
「それはないわ」
有栖川は首を振る。
「男は神から寵愛を受けない。神って意外と女好きなのよ。だから聖女も剣聖も女が選ばれる」
有栖川は続ける。
「ただし、聖人は別。なぜなら聖人とは、神の魂を分け与えられた者を指す言葉だからよ」
「「「!?」」」
全員が息を呑んだ。
あまりにも常識外れの話だった。
そんな教えは誰一人として聞いたことがなく、聖書にも記されていない。
「ば、馬鹿を言うでない! 神の魂を持つ者など存在するはずがない! そんな者がいるなら、それは神そのものではないか!」
「事実よ!」
有栖川は即答した。
「光劫清森幸福論の教えでは、神は数万年に一度、世界の秩序を見定めるため現世に降り立つとされているわ。その際、人々の暮らしを知るため、人の姿を取るとも言われている」
「でたらめだ!」
「そうかしら?」
有栖川は肩を竦める。
「グランタリアとの国境沿いでは、すでに聖人様の噂が広まっているわ。奇跡を目撃した村人たちは感動して像まで建てたそうよ」
周囲がざわつく。
誰も聞いたことのない話だった。
だが、有栖川の口調には一切の迷いがなく、それがかえって不気味なほどの説得力を生み出していた。
「有栖川」
アポロネアが尋ねる。
「話は分かった。だが、それとギヌヌ団長が助かることにどんな関係がある?」
「来てるのよ」
「来てる?」
「聖人様が、この城にいるのよ」
再び大きなどよめきが起きた。
「騙されるでない!」
老魔道師が叫ぶ。
「何が聖人だ! その者が聖人である証拠など何一つないではないか! そもそもなぜそのようなことが貴様如きに分かるというのだ!」
「分かるわよ」
そして当然のように言った。
「だって、あたし剣聖だもん」
静寂。
誰も動かなかった。
誰も声を出せなかった。
まるで時間そのものが止まったかのようだった。
「ちなみに、グランタリアにいる聖女はあたしの親友よ」
「なっ――」
アポロネアの口がぱくぱくと動く。
「ななななな……なんでそんな大事なことを今まで黙っていたのだぁぁぁぁっ!!」
「聞かれなかったからよ」
「貴女は剣聖様ですかなどと聞く人間がどこにいるのだ!」
訓練所のあちこちから頷きが上がった。
しかし同時に、誰もが納得していた。
アポロネアが敗れた理由。
ダーウィンが感じていた異常な才能。
常識外れの強さ。
その全てに説明がついてしまったからだ。
そして何より、剣聖である彼女が断言するのであれば、本当にギヌヌは助かるのかもしれない。
そう思わせるだけの重みが、その肩書にはあった。
「それで、アリスちゃん」
ダーウィンが問いかける。
「その聖人様は、今どちらにいるのかな?」
「この城のどこかよ」
有栖川は踵を返した。
「ちょっと呼んでくるわ」
それだけ言い残し、訓練所を後にする。
金色の髪が翻り、扉の向こうへ消えていく。
残された者たちは誰一人として声を発せなかった。
瀕死の第二騎士団団長。
現れたという聖人。
そして剣聖を名乗る少女。
あまりにも現実離れした話ばかりだった。
だが、先ほどまで死を待つしかなかった訓練所には、確かに希望が生まれていた。
誰もが扉の向こうを見つめている。
まるで奇跡の到来を待つかのように。
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