第33話 国境の村

 出発の朝、天を仰ぐと不思議なほどに空が広く感じられた。


 西門へ辿り着いたのは、事前に取り決めていた刻限よりも幾分か早い時刻だった。


 早朝特有の濃い霧が石畳の表面に薄く這うようにして漂っている。


 関所に座る門兵が、眠気混じりの欠伸を噛み殺しながらこちらを一瞥したが、すぐに興味を失ったように視線を元へと戻した。


 この時間帯の往来は極めてまばらであり、荷を積んだ行商人が一人、足早に門をくぐっていくのが見えた。


 明智はすでに、約束の場所に着ていた。


 幌が取り付けられた荷馬車の御者台に悠然と腰を落ち着け、扇子を指先で弄んでいる。馬は栗毛の落ち着いた雌馬で、時折退屈そうに石畳を蹄で叩いていた。


「随分と早いな」

「今日という日を待ちわびていましたからな。それよりも玄兎殿、乗る前に一度、荷台の足回りを見てみてくだされ」

「足回り? 何かあるのか?」


 促されるままに腰を落とし、車輪の付け根の部分を覗き込むと、見慣れない小型の魔道具が取り付けられていた。しかも四輪それぞれに一つずつ。それが淡く青白い光の粒子を帯びて、静かに呼吸している。


「何だよ、これ?」

「振動吸収の魔道具ですぞ。せっかく仕入れた瓶詰めが、道中の衝撃で割れてしまっては困りますからな。瓶詰め運搬用の荷馬車として、拙者がカスタマイズしたんですぞ」

「日頃から金にシビアなお前がねぇ」

「拙者とて商人。仕事に必要不可欠なものであれば、惜しみなく揃えてみせますとも」

「……で、本当のところはどうなんだよ」

「……清水の舞台から真っ逆さまに飛び降りるほどの、血を吐くような想いでしたぞ」

「そんなにかよ」


 実際に金を支払った瞬間の生々しい痛みを思い出したのか、明智の顔は今にも泣き出してしまいそうなほど歪んでいた。


「さて、気を取り直して出発するとしましょうか」


 こいつの立ち直りの早さは、いつ見ても見事としか言いようがない。


 俺は黙って荷台に乗り込んだ。そのすぐ後ろから、有栖川が音もなく続く。


 俺達が乗り込んだことを確認した明智が、手綱を軽く引いて馬へ合図を送る。すると、馬がゆっくりと歩きはじめた。


 巨大な西門の影をくぐると、見慣れたレジャスの街並みが小さく遠ざかっていった。


 街道に出てしばらく経った頃、俺は荷馬車が驚くほど静かなことに気がついた。


 舗装されていない砂利道を進めど、車体が跳ねるようなことは一切ない。地面に深く刻まれた轍の凹凸を通過する際にも、あのガタガタとした不快な振動が全く発生しないのだ。


 ただ、前方を歩む馬の規則正しい歩調に合わせた、ゆったりとした心地よい揺れだけが伝わってくる。


 地面から受けるはずの荒々しい衝撃は、魔道具によって完璧に打ち消されていた。


「本当に揺れないんだな」

「そうでしょうとも」


 御者台に座る明智の背中は、自慢の品を褒められた子供のように誇らしげに揺れていた。


「というか、お前御者なんてできたんだな」

「商人のスキルの中には【行商】というものがありましてな。馬の扱いも荷の管理も、この商人スキルさえあればお手のものですぞ」

「思っていた以上に、随分と利便性の高い職業なんだな」


 俺たちの会話を黙って聞いていた有栖川が、おもむろにその場に立ち上がり、確かめるように自身の足元へ視線を落とした。


「ほんとだ。全くと言っていいほど揺れを感じないわね」


 それから感心したような面持ちで、有栖川は前方の御者台へと顔を向けた。


「商人というのも、意外と侮れないわね」

「その代わりに、戦闘行為は一切こなせませんけどな」


 明智は自嘲気味に肩をすくめて苦笑した。


「それは知ってるわ」


 前方で扇子がふわりと小気味よく開く音がした。遮るもののない街道の穏やかな風が、幌の隙間から車内へと吹き抜けていく。


 開かれた視界の両側には新緑に彩られた緩やかな丘陵地帯がどこまでも続き、その遥か遠方には、白雪を冠した険しい山の稜線が薄青い空に描かれていた。


 しばらくの間、一言も発せずに流れる景色を眺めていた有栖川が、突然沈黙を破って口を開いたのは、出発からおよそ半刻ほどが経過した頃だった。


「ねえ、影山」

「なんだよ」

「暇」


 有栖川は退屈そうに頬杖をつきながら、短く不満を漏らした。


「護衛役として同行している人間が、何を贅沢なことを言ってんだよ。いいか、道中が暇であるということは、それだけ安全だということなんだよ。願ったり叶ったりじゃないか」

「理屈ではそうかもしれないけど、このままだとあたし、退屈のあまり死んでしまいそうなのよ」

「安心しろ。退屈が原因で死んだ人間なんて聞いたことがない」

「そういう一般的な話をしてるんじゃないわよ!」


 有栖川はムッとした様子で唇を尖らせ、俺を睨みつけてきた。


「せっかくこうして二人きりなんだから、もっとこう、ないの?」

「ない」

「えっちなやつとまでは言わなくても……そ、そうね。ラブラブ、イチャイチャみたいな、彼氏彼女の距離がぐっと近づくようなイベントがあってもいいはずよ!」

「あってたまるか! そもそも二人きりですらないだろ。前方に座っているお前の雇い主を忘れてやるな」

「あれは数に入れなくていいのよ」

「それはさすがに依頼主に対して酷すぎるだろ。つーか、お前は今仕事中だろ! ――って、おい、なんだよ!?」


 有栖川が滑るようにしてすっと距離を詰めてきた。気づいた時には、すでに彼女の柔らかな肩がこちらの肩と隙間なく密着しており、さらに全体重を預けるかのような格好で、じわりと寄りかかってくる。


 衣服越しに、彼女の胸の感触が腕に当たっているのが分かり、俺は反射的に身体を横へとずらした。


「ばっ、ばか! いくら何でも近すぎるだろ! お前はもう少し人目を気にしろ!」

「揺れるんだから仕方ないじゃない!」

「は? 揺れてないだろ。つーか、さっきまで自分で全然揺れないって感心していただろ!」

「今は揺れてんのよ! きっと魔道具が故障したんだわ」

「してねぇよ! 勝手に壊すな! つーか全然揺れてねぇだろ!」

「あたしが揺れてるって言ったら揺れてんのよ!」


 道理の破綻した、まるでどこかの横暴なガキ大将のような無茶苦茶な理屈を言い出した。


「――きゃっ!? さっきからずっと揺れていて怖くて堪らないから、こうして影山にしがみついていなきゃいけないわね」


 これではドケチな明智が大枚はたいて設置した魔道具の意味が全くない。瓶詰めが振動で割れる以前の、極めて深刻な問題であった。


「玄兎殿」


 御者台の方向から、どこか弾むような軽い声音が飛んできた。


「何だよ」

「少々、前方の路面状況が悪く馬車が大きく揺れますゆえ、お足元にはくれぐれもお気をつけくだされ」


 こちらへわざわざ顔を振り返らせた明智は、口端をにちゃっといやらしく歪め、実に悪意に満ちた笑みを浮かべていた。


「お前なぁ……」

「いやはや、あまりに車体の揺れが酷すぎるせいで、もしかすると有栖川殿が馬車酔ゆえに体調が優れないかもしれませんな。玄兎殿、大変申し訳ないのですが、拙者の大事な護衛役が倒れてしまわぬよう、そちらで介抱してもらってもよろしいですかな?」

「お前は黙って馬車だけ動かしてろ!」

「有栖川殿、玄兎殿はどうやら、ただ照れておられるだけのようですぞ」

「ほんとに呆れるくらい鈍いわね」


 有栖川が不機嫌さを隠そうともせずに冷ややかに口を開けば、「まったくですな」と御者台から即座に同意の言葉を返す明智。


 この組み合わせは最悪だ、と今更ながら思った。


「据え膳食わぬは男の恥、という古き良き言葉を、知らぬわけでもあるまいに」

「うっせぇ! お前は余計な邪推をしていないで、前を向いて手綱を握っていればいいんだよ! ――って、お前はいつまでくっついているつもりだ!」

「揺れてるんだからしょうがないでしょ!」

「まだ言うかッ!」


 有栖川がさらに力を込めて寄りかかってきた。


 今度の彼女の様子からは、一歩も後退する気がないという強い意思が伝わってくる。


 こちらが身を引くたび、その分だけ正確に距離を詰めてくるのだ。


 これ以上逃げても無意味だと悟り、俺は動きを止めた。


 視界の端で、有栖川が小さく勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべる。

 こうなった以上は、徹底して無視を決め込むしかなかった。


「ところで玄兎殿」


 明智がそれまでの軽妙な空気を断ち切るようにして話を変えてきた。

 その声の響きには、商人特有の抜け目のない、どこか探るような調子が混じっている。


「あの国境沿いの村に泊まるのは、これで二度目になりますな」

「グランタリアからルクセリアこっちに来たとき以来になるか。明智は何度か足を運んでいるんだろ?」

「そうですな」


 明智は静かに首を縦に振った。その視線は前方の街道をじっと見据えている。


「ただ、近頃はその村の景気が不自然なほどによいという話を小耳に挟んでおりましてな。一体どこからそれほどの金が流れ込んできているのか、商人仲間の間でもよく噂になっておるのです」

「どういうことだ?」


 俺が以前に訪れた際は、食糧にすら困っているような辺境の村だったはずだ。


「拙者も気になってはおるのですが、正確な内情を知る者が誰一人としていないようでしてな……」


 それきり明智は黙り込んでしまった。

 街道を睨むその横顔には、商人としての警戒が滲んでいる。


 俺も特にそれ以上聞き返すことはしなかった。



 ◆



 太陽が天頂を過ぎ、西へと傾き始めた頃から、街道を取り巻く気配が目に見えて変わり始めた。


 前方および後方からやってくる旅人や商人の数が、時間経過とともに減少していく。


 つい先ほどまで荷を引いた老農夫の姿も、馬の背に揺られる旅人の影も、いつの間にか完全に周囲から見当たらなくなっていた。


 街道の両脇に広がる丘陵の緑は、出発時と変わらず豊かに波打っているが、その静けさはどこか度を越しているように思えた。


 鳥のさえずりすら途絶え、ただ冷ややかな風の音だけが、不穏に街道を吹き抜けていく。


「人通りがかなり減りましたな」


 明智がぽつりと言った。

 その声のトーンは先ほどまでの悪ふざけの気配を完全に払拭しており、低く、警戒を孕んだものへと変わっていた。


 有栖川もまた、先ほどまでの横暴な態度を完全に潜め、黙って街道の先を見つめている。唇は真一文字に結ばれ、いつもの軽口は出てこない。


 俺も背筋を伸ばし、周囲の茂みに意識を伸ばしながら沈黙を保った。


 目的の村が前方の地平に見えてきたのは、夕方の赤い陽光が周囲の影を長く伸ばし始めた頃だった。


 しかし、その光景を視界に収めた瞬間、俺の脳内にある「かつて訪れた時の記憶」と、いま目の前に広がっている「風景」がまったく噛み合わなかった。


 立ち並ぶ木造の家々は以前来た時と全く同じだ。広場の中央にある古びた井戸も、その奥にそびえ立つ教会の尖塔のシルエットも、何一つ変わってはいない。


 だが、決定的に違ったのは、そこに生活する「人」の気配だった。


 本来であれば、一日の畑仕事を終えた村人たちが往来を行き交い、活気に満ちている時間帯のはずだ。


 それにもかかわらず、視界に入る人の数が極端に、それこそ意図的に身を隠しているのではないかと思えるほどに少なかった。


 僅かに横切る数少ない村人たちの顔色は一様に土色で、その足取りは泥に足を取られているかのように遅い。


 すれ違いざま、こちらを盗み見てくる彼らの瞳の奥には、部外者に対する強烈な「警戒」と、芯まで擦り切れた「疲弊」の色が暗く混ざり合っている。


 前にこの村を訪れたときは、泥にまみれて走り回る子供たちの声が村のあちこちから聞こえてきたものだが、いまは不気味なほどに、ただの一声すら響いてこない。


 俺は密かにスキル【状態解析】を発動した。


 視界が淡い光の層に覆われ、すれ違った村人たちの頭上に、未知の数値と文字列が浮かび上がる。


【生命力の著しい低下。および、消化器系への重篤な異常反応】


 一人だけではない。

 視界に映るすべての村人が、同様の病状だという解析結果が出ていた。


 ……これは、伝染病でも流行っているのか?


「明智、有栖川。村の様子がおかしい」

「……ええ。今はとりあえず、予定通り宿へと向かいましょう。詳しいことは、そこへ身を落ち着かせてからの方がよさそうですな」


 有栖川が無言のまま刀の柄へ親指をかけた。

 俺が小さく頷くと、明智も手綱を握り直し、村の中央広場へと荷馬車を進めた。


 広場に面した古びた宿屋の前に、不自然な人影があった。


 三人の若い女が、宿の壁に寄りかかり、地べたに座り込んでいる。


 彼女たちが身にまとっている旅装束はひどくくたびれており、何日も過酷な移動を続けてきたことを物語っていた。


 その顔色は一様に白を通り越して土気色に近く、それぞれの足元に置かれた旅用鞄を抱え込んだまま、自力で立ち上がることすら満足にできない様子だった。


 俺は再び【状態解析】を走らせた。


 視界の先に表示されるのは、先ほどの村人たち同様、消化器系の異常反応だった。


 ただし、重度だった村人たちに比べればまだ軽度だ。

 発症して間もない、初期段階だろう。


 俺は状態解析を解除し、フードの奥のぐったりした顔を捉えた――その瞬間。


「え……?」


 喉の奥から、自分でも驚くほど間の抜けた声が漏れた。


 あまりの衝撃に鼓動が早くなる。


 というのも、見覚えのある顔だったのだ。

 それも一人ではなく、三人とも。


 座り込んでいる三人の顔を、俺はしっかりと覚えている。


 桐島なつめ。水瀬ひより。安西ふみ。


 間違いなく、同じクラスの女子だ。


 こちらに気がついたのか、真ん中にいた桐島が酷く気怠そうなに顔を上げた。


 荷馬車から降りようとしている俺と、御者台にいる明智の姿を視界に捉えた瞬間、彼女の虚ろだった瞳が限界まで見開かれた。


「え……?」


 さらに、彼女は俺のすぐ隣――荷台のステップから軽やかに降り立った人物へと視線を移した瞬間、完全に固まってしまった。


「あ、有栖川、さん……!? うそ!? だって死んだはずじゃ……!?」


 絶叫に近い声が広場に響く。


 桐島は幽霊でも見たかのように、ただ呆然と有栖川の顔を見つめていた。

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