第32話
木材に沿わせたナイフを親指でゆっくりと押していく。
ジャリジャリ
木が潰れ、削れる音がする。ナイフに力を込めている指に僅かな抵抗感と沈み込んでいく感触が緩やかに伝わってきた。心地良い感覚だ。
ナイフが沈み、木を削り、木くずが零れ落ちるごとに思考は深く、深く、沈み込んでいく。特には考えない。ただ、いつもなら頭に執拗に浮かんでくる悩みも、考えないといけないことも、全てが消え去った静かなその場所で揺蕩うのみだ。だが、それが良い。
最近暑くなってきた気温のせいでもう一つの手で支えていた木材へと染みが一つできた。知らず知らずの内に近づけていた顔を離し、一息つく。この前始めた木彫り。神様に祈るための像でもと思ったのがきっかけだったが、今はこうやって静かに木を彫っている時間が癒しになっている。
ガチャリ
凝った身体を伸ばしていると部屋のドアが開いた。赤いツインテールが揺れる。
「何してんの?」
「木彫り。」
何処か掠れた声で返事をした。少し恥ずかしさを感じながらその原因を探ってみれば、さっきまで集中していたせいで喉が痛かった。
「ふーん。またやってるんだ。」
「うん。」
「好きなの?」
「落ち着くの。」
荒い跡が残っている木材とナイフを傍の机に置く。塵取りに似たもので床に落ちた木くずを集めていった。そうしていると床ばかりが映っていた視界にリアの足が見えた。
靴と、白い生足。相変わらず丈が短いスカートを彼女は履いていた。夏に近づいてきたので余計に短くなっている。手にある塵取りをそのまま離して彼女を正面から見た。腰に両手を当て、胸を張っている。服が若干張り付いていた。
「何彫ってたの?」
「神様。」
「神様?なんか聞いたことあるけど思い出せないわね。」
首を傾げ唸る彼女に笑みが零れた。
「ほら、私たち人間より高次の存在というやつだよ。世界を作ったり、天候を操ったり、神様のおかげで生きていけてるんだよ?」
「あー、なんか町に行ったときにそんなこと言ってる奴見たかも。」
この世界の女性たちは強い。同じ女性しか彼女たちと対等でいられないくらいには。だからだろう。ここの人はあまり神を信仰していない。それどころか神の存在を知らない人がほとんどだ。救いを求めることがないから、神を求めることもない。全部、自分たちでやって、自分たちで責任を取る。そういう生き方をしているのだ。
「でもなんであんたがそんなの彫ってるの?」
「信仰してるからに決まってるじゃん。」
「うえ~。」
リアは変なものを食べたかのように舌を出した。
「何その反応。」
「だってそんなの信じてるとかヤバいじゃん。」
「し、失礼な。それに私神さま見たことあるし。」
「・・・。」
彼女は顎を引いて上半身を出来るだけこちらから離そうとした。その反応を仕方ないものと受け入れつつも、若干傷つく。
「冗談だよ。」
「そう、良かった。頭でも叩いて直そうかと思ったわ。」
「それはやめて。」
冗談に全く聞こえないのが怖い。
「・・・。」
「・・・。」
鋭い目がこちらを熱く射抜く。別にわざと鋭いわけじゃない。生来のものだ。だが、それに見つめられれば蛇を前にした蛙のように誰もがなってしまうと思う。それもまた魅力だ。先程出していた舌が口の中に戻った跡が唇にぬめりとして残っている。怪しく光っていた。
ゴクリ
どうしてだろうか。喉がなる。
「ふーん。」
リアは何ともなしにこちらの肩を押した。軽い力だったが、それまで腰掛けていたベッドに力なく倒れてしまった。少しの埃が舞う。昼の日差しが窓の近くだけを明るく照らしていた。
ベッドが二回静かに揺れる。少し顔を動かせばこちらを見下ろすリアがいた。自分の体のすぐ隣に彼女の足が置いてあるのが分かる。その片方がゆっくりと胸に押し付けられた。同時に重さを感じる。
白く艶めかしい足をしたから昇るように見れば、白い布が見えた。何処にでもある物。自分だって使ってる。なのに彼女が履いていると、人を惑わすような色を感じるのだ。踏みつけている足がこちらをすり潰すように動く。力の強い彼女がやるものだからかなり痛い。
呻きが漏れそうになる瞬間、甘いリアの体臭が鼻の奥に届いた。先程よりも強くなっている。普段の匂いに汗の匂いが混じり、より蠱惑的な甘さを感じた。鼻から脳へと入って、頭を溶かしていく。甘美なそれが自分の胸に感じる痛みを艶めかしい心地よさに変えていった。視線を上にして、彼女の瞳を見る。彼女もこちらを見ていた。濡れたその目が更に脳を溶かす。
そうして長い時間をそうしていると部屋の外からアルフィーさんが彼女の家庭菜園の世話から帰ってきた音がした。絡み合っていた視線がリアから解かれた。ああ、終わってしまうらしい。胸を踏んでいた足をリアは退け、ベッドから飛び降りた。
「ナギサ、昼ごはん作るんでしょ?」
「・・・うん。」
「じゃあ、私は自分の部屋に戻るわ。」
「分かった。」
彼女に踏まれていた体勢のまま返事をする。リアが出ていったのが閉まるドアの音で分かった。本当にどうしてしまったのだろうか。こういう事は今日が初めてじゃない。
あの日、彼女の言葉に変な喜びを感じた日からおかしくなった。彼女は毎日踏みつけにやってくる。戦士団に行く日は数分だけ、今日のように何もない休みの日は何十分もの間踏んでくる。
「踏みに来る」
字で書いてみれば何のことか意味が分からない。実際に自分でもよく分からない。なぜ、こんなことになっているのか。なぜ、抵抗もせずに喜んで受け入れてしまっているのか。だが、彼女を、あの目を前にするともう駄目なのだ。
「はぁ」
胸の内に溜まっているものを息と一緒に吐き出す。
「暑い。」
汗でべとりとくっ付いた服が気持ち悪かった。
「今日の夕飯は何にしようかしら。」
食卓に並べられたご飯を食べていると、アルフィーさんがそんな言葉を零した。何が良いだろう、そう頭を働かせる間もなくリアが答えた。
「私、今日は魚が良い。」
「あら、リアちゃんにしては珍しいのね。」
「最近暑いからさっぱりしたものが食べたいなって。」
「「確かに。」」
アルフィーさんと相槌が重なった。今もこうして肉を食べているわけだが、正直言ってかなりきつい。ちょっと前までは歓迎していた噛むと溢れてくる肉汁もこの暑さの中だと鬱陶しかった。
「だから、これを食べ終わったら川に行って釣りをしてくるわ。」
「うん、お願い。」
釣りか。昔釣り好きの父親によく連れていかれていたので自分の中では得意分野だ。小さいけど鯛だって釣ったことがある。
「ナギサも来るでしょ。」
「え?」
突然問われたので反射的に聞き返してしまう。
「何、来ないの?」
「いや、行くよ。」
ちょっと不機嫌そうになったリアに慌てて答える。
「ていうか、私結構釣り得意だからリアに見せてあげるよ。」
「へぇ~。そんなに?」
「まあ、昔いろいろ釣ったことあるけど。」
釣りは自分の数少ない取り柄なので、自信があった。その得意げな表情を見てリアが好戦的に唇を吊り上げる。
「じゃあ、どっちが多く取れるか競争しましょうよ。負けた方が勝った方の言う事をなんでも聞くって条件で。」
「良いよ。」
彼女からの挑戦状へ鷹揚に頷いて見せた。こっちは海での釣りだって何回も経験しているのだ。たかだか川での釣りしかやっていない人間に負けるはずがない。勝った暁にはリアに何をして貰おうか。いつもやられてばかりなのだ。彼女が恥ずかしがることでもやらせるというのも良い。リアの悔しがる顔を思い浮かべ、ほくそ笑んだ。
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