第9話行軍開始 —— 移動式インフラの悲哀

隣国・帝国との国境付近で、大規模な魔力衝突が発生した。王宮からの緊急令を受け、魔導師団は北方への進軍を開始する。田中は、巨大な水瓶をいくつも積んだ重い荷馬車の御者台に座らされていた。




「……あかん、これ、地方ドサ回りの営業車移動よりケツが痛いわ。腰、爆発するんちゃうか?」




51歳の精神にとって、サスペンションなど存在しない中世風の馬車の揺れは、拷問に等しかった。だが、周囲を行進する数千人の歩兵たちの視線は、田中に対して羨望と、そして依存に満ちていた。行軍中の飲み水の確保は、軍の死活問題だ。




「田中さん、水、頼むわ!」「こっちは少し温かいのがいい!」




兵士たちの要求に応え、田中は馬車を走らせながら指先から清流を放ち、次々と水瓶を満たしていく。22歳の若返った肉体は、どれだけ歩いても、どれだけ魔法を使い続けても、残酷なほどに疲労を感じさせない。だが、中身の51歳は「働き方改革、どこ行ったんや……。残業代の計算だけでもさせてくれ」と、止まらない労働の螺旋に涙していた。




北へ向かうにつれ、気温は急激に下がり、空気は戦場のそれへと変わっていく。田中は、商社マン時代に身につけた「周囲の空気を読む」スキルで、兵士たちの間に漂う死への恐怖を敏感に察知していた。


(……あかん、これ、倒産危機の会社に出向させられた時と同じ空気や。誰も幸せにならへんやつやんか)




セレスは馬上で凛として前を見つめ、アリスは時折田中にウィンクを送ってくる。51歳の悲哀を乗せた馬車は、冷たい風を切り裂きながら、最前線の地獄へと着実に近づいていた。

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