第14話 カミダーリの夜
第一章:なりたいと言った人
その女性は、最初こう言った。
「先生みたいになりたいんです」
まだ二十代後半。きちんとした仕事を持ち、結婚もしている。いわゆる“普通の人”だった。だから私はすぐに首を振った。
「これは、なるものじゃない」
彼女は笑っていた。その笑顔は明るいのに、どこか“焦り”のようなものが滲んでいた。憧れというより、急いでいる顔だった。何かに追いつきたい人間の顔ではない。何かに追われている人間が、それを自分の望みだと思い込んでいるときの顔だった。
「でも、修行すればいいんですよね?
努力すれば、近づけるんですよね?」
その言葉が危険だった。
ユタというものを、努力や訓練の延長で考えている人間は少なくない。けれど実際は違う。これは“選ばれる側”の話だ。選ばれたくて選ばれるものではない。
私はそのとき、彼女の声の奥に、ほんのわずかな引っかかりを感じていた。言葉そのものではない。言い終わったあとに残る、妙な静けさだ。普通なら会話はそこで終わる。けれど彼女の言葉のあとだけ、少し遅れて、別の“聞いているもの”がいるような間が残る。
私はそれが嫌だった。
「軽い気持ちで近づかないほうがいい」
そう言ったとき、彼女は少しだけ首を傾げた。
「軽い気持ちじゃないです」
その返し方も、よくなかった。真剣ならいいという話ではない。むしろ、真剣に呼びかける人間ほど、向こうは応えやすい。
私はそれ以上、強く言わなかった。言葉で止まるなら、最初から触れない。こういうものは、止められる段階では、まだ本人が“自分で選んでいる”と思っている。
帰り際、彼女は深く頭を下げた。礼儀正しく、きちんとした人だった。けれど、玄関を出る直前、一度だけ振り返ったときの顔が、妙に印象に残った。笑っていなかった。何かを確かめるように、私の肩の少し後ろを見ていた。私ではなく、その向こうにいる何かへ、返事を待つみたいに。
その時点で、もう遅かったのかもしれない。
第二章:最初のズレ
数日後、彼女から連絡が来た。
「眠れません」
それだけだった。
その声には、すでにわずかなズレがあった。音が一拍遅れている。
言葉の間が、微妙に合っていない。
私はすぐに分かった。始まっている。カミダーリだ。神憑きによって、心身の調子だけではなく、生活そのものの噛み合いが崩れ始める状態だ。
沖縄では昔から、“神に呼ばれた人間はまず壊れる”と言う。病気でも、精神の問題でもない。もちろん、外から見ればそう見えることもある。けれど内側では、もっと別のことが起きている。生活のリズムがずれていく。眠る時間、起きる時間、食べる感覚、話す間、目線の置き方。そういう、人が人として日常に留まるための細い糸が、一本ずつ外れていく。
「名前を呼ばれるんです。でも誰もいなくて……」
彼女は震える声で言った。私は短く答えた。
「それ、聞かないほうがいい」
聞くと、深くなる。深くなると、戻れなくなる。
「でも、すごく近いんです」
彼女は言った。
「耳元じゃないんです。もっと近い。頭の中で思い出す声とも違うし、外から聞こえる声とも違う。ちょうど、その間みたいなところで呼ばれるんです」
私は黙った。それがいちばん厄介だ。外から聞こえるなら、まだ外だ。内側から響くなら、自分の中だ。
その“間”で呼ばれる声は、境界を探っている。
「返事はしましたか」
少し間があった。
「……一回だけ」
それで十分だった。私は受話器を握る手に、わずかに力を入れた。返事をした時点で、向こうは“届く場所”を知る。
「何て返したんですか」
「……はい、って」
そのたった一言で、人は深くなる名前を呼ばれて返事をする。それは日常では何でもない。けれど、見えないものに対してそれをやると、“呼ばれた側”ではなく“応じた側”になる。
その夜から、彼女は眠れなくなった。眠れないだけではない。目を閉じると、眠る直前の暗さの中に、誰かが立っている気配がするのだという。顔は見えない。けれど、立っている位置だけが分かる。枕元ではない。部屋の隅でもない。ちょうど、自分が立っているときの目線の高さに、誰かの“いる位置”だけが残るのだと。
それは、もうかなり近い。
第三章:家庭のひずみ
一週間後、彼女は再び来た。今度は、少し痩せていた。目の下の影が濃く、肌の色も薄い。けれど、いちばん変わっていたのは、声だった。小さいのに、妙に遠い。目の前で話しているのに、廊下の向こうから聞こえてくるみたいな響き方をしていた。
「夫に、変だと言われました」
当然だ。見える世界と、見えない世界がずれ始めると、周囲は必ずそう言う。
「家にいるのに、いないみたいって。
話してるのに、私じゃないみたいって」
彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。口角だけが上がり、目がついてこない。
「先生、これって修行なんですよね?
私、頑張れば……」
私はそこで、はっきり言った。
「違う」
これは修行ではない。選別だ。その言葉を、私は口の中で止めた。言えば、彼女はもっと深くなる。“選ばれている”と理解した瞬間、人は自分から崩れ始めることがある。
「最近、家の中でよく場所が分からなくなるんです」
彼女は俯いたまま言った。
「台所に行こうとして、気づいたら玄関に立ってたり。
お風呂に入ってたはずなのに、服を着たまま洗面所で立ってたり。
夫に話しかけられても、何を言われたのか、少し遅れてしか分からないんです」
それは記憶が飛んでいるのではない。同期がずれているのだ。本人はここにいる。けれど、生活の流れの中で、ほんの少しだけ“今”に遅れている。その遅れが積み重なると、家族は同じ空間にいるのに、同じ時間にいないように感じ始める。
「昨日、夫に肩を掴まれたんです」
彼女はそこで初めて、少しだけ声を震わせた。
「“今、誰と話してた”って」
私は何も言わなかった。
「私、一人だったんです。
でも、気づいたら、廊下の方を向いて、ずっと頷いてたみたいで」
その光景が、はっきり浮かんだ。本人には相手が見えていない。けれど、体だけが“応答”している。それがいちばん怖い。見えるなら、まだ拒める。見えないまま、返事だけが先に出るようになると、人は自分の境界を失う。
第四章:霊媒
その夜、彼女は私の前で急に黙った。目が焦点を失う。呼吸が浅くなる。肩が、ほんの少しだけ下がる。その下がり方が嫌だった。疲れた人間の姿勢ではない。中にある重さが、急に別の位置へ移ったときの沈み方だった。そして、口が動いた。
「まだ、入ってない」
声が変わっていた。低く、湿った響き。彼女の喉を使っているのに、彼女の声ではない。私はすぐに手を上げた。
「止める」
短く切る。それ以上は危険だ。“入られる”前に線を閉じる。彼女の目が、そこで一瞬だけこちらを見た。いや、彼女ではない。彼女の目の位置を使って、別のものがこちらを見返した。
その視線には感情がなかった。怒りも、悪意も、喜びもない。ただ、“まだ入っていない”ことを確認しているだけの目だった。
私は数珠を強く握り、息を切った。深く通さない。ここで説明してはいけない。理解させてもいけない。彼女は一瞬だけ泣きそうな顔になり、そして普通に戻った。
「……今、何が」
「触れかけてた」
私はそれ以上説明しなかった。説明すると、理解しようとしてしまう。理解しようとすると、扉が開く。けれど、そのあと彼女がぽつりと言った一言が、いちばん嫌だった。
「今の、私じゃないのに……懐かしかったんです」
私はその場で返事をしなかった。懐かしい、という感覚は危険だ。怖いものなら、人は逃げる。けれど、懐かしいものには、自分から近づいてしまう。
第五章:家庭が壊れる理由
数週間後、彼女の夫から連絡が来た。
「離婚することになりました」
理由は単純だった。
「同じ空間にいるのに、いないように感じる」
それだけだ。私は長くは話さなかった。こういうことは、理解されるものではないからだ。
ユタになるということは、日常との接続が少しずつ変わることだ。家族が悪いわけでも、本人が悪いわけでもない。ただ、世界の“同期”がずれる。夫は、最後のほうでは彼女の足音が怖かったと言った。廊下を歩く音が、本人の歩幅と合わないのだという。一歩、二歩、三歩と聞こえるのに、姿が見えるタイミングが半拍遅れる。あるいは、立ち止まっているはずなのに、足音だけがもう一歩先まで続く。
「夜中に、台所で誰かと話してるんです」
夫は低い声で言った。
「でも、会話じゃないんです。
返事だけなんです。
“はい”とか、“そうです”とか、“分かりました”とか。
相手の声は聞こえないのに、妻だけがずっと応じてる」
それはもう、かなり深い。
「ある夜、後ろから肩を叩いたんです」
彼はそこで少し黙った。
「そしたら振り向いた顔が、一瞬だけ、妻じゃなかった」
私は何も言わなかった。言えることは少ない。
「顔が違ったわけじゃないんです。
同じ顔なんです。
でも、“今ここにいる人間の使い方”が違う感じがしたんです」
それが正しい。顔は同じでも、そこに入っている“位置”が違う。人はそれを、理屈では説明できないまま、本能で怖がる。彼女は、もう以前の生活に戻れないところまで来ていた。
第六章:ウグァン
私は最後に彼女と会った。もう以前の彼女ではなかった。静かで、遠い。声の響きが、少しだけ“こちら側”ではない。目の前に座っているのに、距離が合わない。近くにいるはずなのに、話しかけると少し遠くから返ってくる。
私はヒラウコーを立てた。火を灯すと、煙はまっすぐ上に行かず、横に流れた。
「サリ、ウートートー」
私は静かに言った。
「これは戻すものじゃない」
彼女が顔を上げた。
「じゃあ、何なんですか」
私は少しだけ間を置いて答えた。
「通るか、止まるかだ」
そして続けた。
「あなたはもう“途中”にはいない」
その言葉で、彼女は泣かなかった。ただ静かに頷いた。覚悟ではなく、受容。それは、選ばれた者の表情だった。けれど、その頷き方が、あまりにも静かすぎた。人が人生を失うときの頷きではない。もっと自然で、もっと抵抗がない。まるで、最初からそこへ行くことが決まっていて、ようやく自分の位置に収まっただけのような頷き方だった。
私はそのとき、少しだけ寒気を覚えた。壊れているのではない。むしろ、向こうに合ってしまっている。それがいちばん戻らない。
「怖くないんです」
彼女は小さく言った。
「前は怖かったのに、今は、呼ばれると落ち着くんです」
私は目を伏せた。それは救いではない。馴染んだだけだ。深い水に長く浸かっていると、冷たさを冷たさとして感じなくなるのと同じだ。
そのとき、彼女の背後の壁に落ちた影が、本人の動きよりほんの少し遅れて揺れた。私は見なかったふりをした。もう、そこに何かがいるかどうかを確かめる段階ではない。
彼女自身が、経路になっている。
第七章:残るもの
帰り道、私は少しだけ考えた。ユタになるということは、救いではない。力でもない。ただ、通るものの“経路”に入ってしまうことだ。そして時々、その経路は人間の生活と噛み合わない。
家族、仕事、日常。それらは壊れるのではない。少しずつ“ずれていく”。
夜の空気は静かだった。風の音も、車の音もない。ただ、人の人生が時々――別の流れに乗ってしまうことがある。それだけだ。そう思って歩いていたとき、背後で、かすかに足音がした。振り返らなかった。彼女ではないと分かっていたからだ。彼女の足音なら、もっと生活の重さがある。あの音は軽すぎた。けれど、軽いのに、妙に近かった。ついてきているのではない。私の歩幅の“あいだ”に、もう一つ別の歩幅が重なっている。私はそのまま歩いた。数歩。十歩。足音は消えない。
そして、信号のない小さな交差点に差しかかったとき、耳のすぐ横で、女の声がした。
――つぎは、だれ。
私は立ち止まらなかった。カミダーリは、一人で終わるものではない。経路が開けば、次を探す。だから私は、その夜、家に帰ってからもしばらく玄関を開けなかった。外に誰かがいる気配がしたからではない。玄関の向こうで、まだ“名前を呼ぶ前の沈黙”が、じっと待っている気がしたからだ。
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