第11話 少しだけ、先のこと

 結婚して1か月。

 ようやく少し落ち着いて、どちらからともなく云った。

「行こうよ、新婚旅行」

 新婚旅行歴ゼロの2人。

 行かなくてもいいよね、とも思っていたのに、なぜか自然にそうなった。

 のんびりするなら海外。

 どこに行きたいか、せーので。

「フィジー」

 声が重なる。

 二人とも一人で行ったことがあった。

 そして、もう一度行きたいと思っていた国だった。

 即決。

 こういうところ、迷いがない。


 2階建ての小学校みたいな国際空港に降りる。

 ゆるい風。

 湿った甘い匂い。

 バスで首都へ向かう途中、道路の両脇に洋ランが咲き乱れている。

「前に思ったんだよね。これ持って帰ったら何千万だろうって」

「タンポポみたいに咲いてるけど、持ち出し禁止よ」

「もったいない」

「だから、きれいなの」

 なるほど、と思う。

 守られているから、無邪気に咲ける。


 町は不思議なくらい混ざっている。

 インド系、中国系、フィジアン。

 映画館の看板はボリウッドの踊る人たち。

 中華料理店の赤い提灯。

 香辛料の匂い。

「今日はゆっくりして、明日から島だね」

「うん。中華でいい?」

 地元向けの店に入る。


 インド人の家族、中国人の若者、地元の人たちが笑いながら食べている。

「青島ビールあるかな」

「ぬるくてもおいしいって云うよね」

「ビールをあんなにキンキンに冷やすの、日本くらいだよ」

「じゃあ青島で」

 乾杯。

「今回の旅程、あんまり聞いてないけど?」

「海でのんびり。明日は出航まで軽くゴルフして、島まで1時間。ホテルしかない島だから、ほんとに何もない」

「のんびり大好き」

「だよね」


 料理をつまんでいると、小さな女の子が近づいてきた。

 6歳くらい。インド系の子だ。

「ブラ、これ、あげる」

 花で編んだ髪飾り。

「ブラ、きれい。ありがとう。うれしいな」

 とうこさんはしゃがんで目線を合わせる。

「写真、撮ってくれる?」

「あいよ」

 身をかがめてシャッターを押す。

「誰と来たの?」

「おばあちゃんと」

 奥で、おばあちゃんがにこにこ手を振っている。

「ほのぼのしてるなあ」


 とうこさんが小さく云う。

「あなたは子ども、好き?」

「嫌いじゃない。かわいい」

「そう」

 その「そう」には、何か測るような響きがあったけれど、すぐに消えた。

 向かいの映画館の看板を指さす。

「全部ボリウッドダンス」

「見てるだけで疲れそう」

「踊れる?」

「なぜ聞く?」

 笑い声が夜に溶ける。


 翌日、ハーフで軽く回ってから、島へ向かう船に乗る。

 海は透明で、船底の影まで見える。

「久しぶりだなあ」

「本当に。でも同じ島に来てたなんてね。ホテルのある島だけで100くらいあるのに」

 偶然。

 でも、偶然にしてはできすぎている。

「ノースビーチのブレにしたよ。あっちのほうが静かだから」

「やるねこさんね」


 ブレの扉を開けると、目の前は海。

 波の音しかない。

 荷物をほどき、少し散歩。

 暑すぎず、水温もやわらかい。

「明日は朝から海でのんびり」

「空港で買ったペーパーバック、コメディだった」

「ビーチで声出して笑えば?」

「うー」

 翌日も晴れ。

 2人で潜り、浮かび、また潜る。

 時間がほどける。


 夜、プールサイドで食事をしながら。

「年取ったら、こっちに住むのもいいかもな」

「そう?」

「のんびり」

 とうこさんはグラスを回す。

「あなたは動いてたい人だから、飽きると思う」

「そうかな。とうこさんは?」

 少し間。

「先のことは、あまり考えないようにしてる」

「そうだっけ?」

「うん。いまだけで、いいの」

「さらっと云うけど、人生は長いよ」

「そうね」

 何かが、ほんの少し引っかかる。

「何かあきらめたわけじゃないの。ただ、いまが楽しかったら、それでいいかなって」

「一緒にいるんだから、それはいいけど」

「あなたと一緒なら、どこにいても楽しい」

「それ、一緒」

 彼女は笑う。

「毎日ニモ見られるなら、住みたくもなるよね」

「そこ?」

「だってかわいいもの」

 肩の力が抜ける。


「東京って、生きてるだけで削られる気がするんだよ。みんな必死で」

「毎日、おつかれさま」

 その一言で、胸の奥の何かがほどける。

 この人は、いつもそうだ。

 僕が言葉にできない疲れを、先に見つけてくれる。

 数日、何もしない日々を過ごす。

 泳いで、眠って、食べて、笑って。

 世界はこんなにも単純でよかったのかと思う。


 帰りの船。

 振り返ると島は小さくなっていく。

 また来られるかな、と思う。

 でも、「いまだけでいい」と云った彼女の声が、波の音に混じって、なぜか少しだけ胸に残る。

 東京に戻れば、また速度のある毎日。

 それでも、この海の青さと、隣で笑う人のぬくもりがあれば、きっとやっていける。

 そう信じながら、僕たちは機体の小さな窓から、ゆっくり遠ざかるフィジーの海を見ていた。

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