第六話 教室の外

午後四時二十分。

 教室には、机と椅子が整然と並び、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだった。

 教師の中村は、黒板の前に立ったまま、チョークの粉を指先で擦っていた。

 三年二組に、一人、どうしても届かない生徒がいる。佐久間。授業中はほとんど話さない。ノートも取らない。声をかければ距離が開き、放っておけば遠くなる。その間が、分からなかった。連絡帳には、母親・由紀の名前がある。最近、少し疲れた字になっている。

 中村も、昔そうだった。誰かに助けを求められなかった。「ちょっと分からない」その一言が、どうしても言えなかった。

 コンコン、とドアが鳴る。

 振り向くと、佐久間が立っていた。

「忘れ物か?」

 佐久間は何も言わず、自分の席へ向かい、ノートを取り出す。そのまま出ていこうとした。

「ちょっといいか」

 足が止まる。振り向かない。

「怒ってるわけじゃない。分からないなら、一緒にやるぞ」

 沈黙。廊下の音だけが、遠くに聞こえる。

 やがてドアの前で、佐久間が止まった。

「……あの」

 初めて、自分から声を出した。

「今日の、最後のやつ」振り向かないまま。「ちょっとだけ……分からなかったです」

 中村は、すぐに答えた。

「そうか。じゃあ、ここ座れ」

 自分の席ではなく、隣の席を軽く叩く。

 佐久間は少し迷ってから、ゆっくりと座った。

 難しい言葉は使わない。指で空中に線を描きながら、ただ分かる形にする。

「……あ」

 佐久間が声を漏らす。

「そう、それ。そこが分かれば繋がる」

 ペンが動き始める。その音だけが、静かな教室に響く。

 やがて手が止まった。

「……できた」

 中村は何も言わなかった。褒めると、壊れる気がした。

 佐久間は立ち上がり、ドアの前で一瞬だけ止まる。

 振り向かないまま言った。

「……ありがとうございました」

 その声は、朝より少しだけはっきりしていた。

 ドアが閉まる。

 中村は、チョークを手に取り、さっきの式をもう一度なぞった。白い線が、まっすぐに伸びる。

 明日また、距離が戻るかもしれない。それでも今日、何かが一ミリだけ動いた。

 電気を消して、廊下へ出る。

 部活の声が、夕空に響いていた。

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