第19話 建国記念日

「今日は手が冷たいね」

 サトミは、母の手を両手で包み、自らの体温を分け与えるように優しく包んだ。

 指と指の間に手を入れて、やさしく揉んだ。

 母の手は以前と比べてかなり細くなっており、何度も点滴を打った跡が、手の甲にまだ残っている。


「どう?気持ちいい?」

 母の手をマッサージしながら、そう聞くと、

 母は、目を瞑ったまま、コクリと頷いた。

 言葉を交わすことは出来ない。

 ただ、人工呼吸器の規則的な音だけが、静かな病室に響いていた。


 母が、何かを聞きたいらしく、マッサージしている手を解き、テーブルの上の五十音表を指差した。

 五十音表を見せると、母が指差したのは、

「な・や・み」

 という文字だった。


 母は、サトミが何かを悩んでいる。と直感したのだろう。

 こんな状態でも、サトミのことを心配している。

「なに言ってるの。変な心配しないで、早く元気になること」

 サトミは、そう言って笑った。


 病院を出ると、容赦なく木枯らしが吹きつけた。

 街路樹の落ち葉がクルクルと回りながら、巻き上がって舞って行く。

 サトミはブルっと震えて、コートの前を絞って、背中を丸めた。


 健司に報告するため、麹町署へ向かった。

「東京駅で、お父さんが新幹線で帰っていくところを、無事に見送りました」

 これをして、健司の彼女役としての務めを、終わらせるつもりだった。


 寒風の中、歩きながら、サトミはふと思った。

 私は一体、何をしているんだろう?


 自分勝手に勘違いして、彼女のつもりになって、

 実は、相手はそう思ってなかったことに、傷ついた。

 かと思えば、お父さんに会って、彼女です。と言って、ご挨拶している。


 自分のやっていることの滑稽さを思うと、少し可笑しくなってきた。


 さて、そろそろちゃんと仕事を見つけなくちゃ。と思い、

 カオルちゃんがくれた名刺をバックから、取り出した。

 歌舞伎町ヘルス「クリスタル・ギャルズ」の店名だ。

 かなり回転のいいお店で、稼げるらしい。


 カオルちゃんが言うには、

 自分以外の女の子には、声を掛けていないらしい。

 下手に若い娘を誘っても、すぐにバックレるようにやめてしまう娘が多い。

 お店としては、やはり、しっかり働いてくれる女の子が欲しいということだ。

 その点、サトミはカオルちゃんから信用されているらしく、次の働き口を探していると聞いて、いの一番に連絡をくれたみたいだ。

 そう言ってくれるのは、とても有難いとは思っていた。


 カオルちゃんから、先日も電話があった。

「どうするの? 来るなら、店長に話を通しておくけど、面接だけでも一度来てみたら」


 サトミは、ふうッとため息を付いて、バックに名刺を仕舞った。


 *   *   *


 麹町署へ向かう半蔵門線の車内。

 サトミが、つり革を掴んで立っていると、隣のアベックの会話が聞こえてきた。


「ヤバい。俺、メガネどこかで無くしたかも」

 男性がそう言うと、女性の方が、

「やだ。たっちゃん。メガネ、頭の上」

「あ、ホントだ。ずらしてた。バカだな俺。ハハハ」

 そんな会話が聞こえてきた。


 サトミは、思い出し笑いが込み上げてきて、下を向いた。

 健司が、「うる星やつら」のメガネのモノマネをしてくれたことが思い出された。


 あの頃のサトミは絶望感でいっぱいだった。

 母の病気がステージ4の肺癌だと診断され、余命宣告を受けた。

 仕方なく仕事を変えたが、この仕事が自分に合っているとは思えない。

 先の見えない不安と恐怖にさいなまれ、正直言って、生きているのが辛かった。


 そこへ、健司が現れ、大好きな「うる星やつら」のメガネのモノマネ。


 可笑しくて、可笑しくて、何度もリクエストして、やって貰った。

 あの日は、車の中で、一日中笑っていたのを覚えている。

 仕事が終わって、車に帰るのが楽しみだった。


 私、まだ、こんなに笑えるんだ。と自分でも驚いた。

 芸人さんって、すごいな。と感心したし、感動もした。

 あの時が、思いだされた。

 涙が出てきたが、可笑しくてなのか、悲しくてなのか、わからなかった。


 麹町署に着くと、

「今日は、建国記念日で祝日だから、接見は出来ません」と言われた。


 *   *   *


 気が付くと、健司のアパートの前に立っていた。

 ガジュマルの鉢植えにお水を上げるため。

 が、言い訳の様な、ここに来た理由だと、サトミは自分に言い聞かせた。


 健司の部屋に上がる。

 シーンとした室内。静けさが深くなっている。

 私が来ていい場所ではない。すでに、ぎこちなく感じた。


 ガジュマルにお水をあげてすぐに帰ろうと、マグカップを手にした。

 すると、窓枠のサッシの部分のホコリが目に付いた。

 前の時に、大掃除したつもりだったが、やはり細かいところには、手が届いてなかった。


 全部やろう。全部やって、全部綺麗にしよう。


 サトミはコートを脱いで、カーディガンの腕まくりをした。

 髪の毛をゴムでまとめて、後ろで結んだ。

 よし。っと、気合を入れた。


 蛇口やシンクに白っぽい水垢がこびり付いている。

 戸棚を開けると、使いかけの穀物酢があった。これでいける。

 酢を布巾に染みこませて、蛇口を磨く。

 白く曇っていた金属が、少しずつ銀色を取り戻していく。

 濁りが晴れて行くと、くもっていた蛇口に、自分の顔がぼんやり映った。


 小型冷蔵庫の中は、ほとんど空っぽだ。

 ビールの缶と、ウーロン茶のペットボトル。

 消費期限がとっくに過ぎているキムチしかない。

 所々に、お醤油のこぼしたあとや、ソースのこぼしたあとが、こびり付いている。

 これこそ、私が綺麗にしないと、絶対、あの人はやらない。

 と、サトミは変な闘争心に火がついて、ふんっと、鼻を鳴らした。


 冷蔵庫を掃除した後、カラーボックスの整理を始めた。

 ホコリが溜まった本の間に、ブルーハーツのCDが挟まれていた。


 ブルーハーツのCDを手に取ってみると、曲名のところに手書きで番号が振ってある。


 ① リンダリンダ

 ② TRAIN TRAIN

 ③ 人にやさしく


 何度も書き直したあとがあり、最終的に番号が決まって、大きくふってある。

 そっか。ゴン君を引きこもりから立ち直らせるために、何度もトライしたんだ。

 曲の選曲も、順番も、何度も考えたあとがある。


 この人は、どんなにゴン君がどん底に落ちても、絶対見捨てない人だ。

 そういう人なんだ。

 サトミは、CDを持ったまま、しばらく動けなかった。


 カラーボックスには、ネタ帳①、ネタ帳②と書かれたノートが二冊あった。

「あ、噂に聞く、芸人さんのネタ帳だ」

 サトミは興味津々でネタ帳を開いてみた。


 以前ライブで見た、『国会傍聴席』のネタが書かれてあった。

 ゴン君がつくったと言ってたから、ゴン君の字なんだなと思った。

 途中にいろんな書き込みが、赤字で書き込んである。

 これは、健司の字だ。


「ここの間、大事。たっぷりやれ!」

「突っ込みの見せ場!」

「リアクションは緩急つけろ!」


 すごい。芸人さんの稽古のあとが生で感じられるほどだった。

 やはり、芸人さんは相当努力しているんだな。

 だから、あんなに笑わせてもらったんだ。


 パラパラとページをめくると、

『ブルーハーツの取調室』

 と書かれたページがあった。


「あ、このネタ。まだ、オチまで聞いてなかった。どんなオチなんだろう」


 サトミは、目を光らせた。ワクワクしながら、読み始めた。が、

 ――違う。

 このネタは見るべきだ。舞台で行われるコントとして、ちゃんと見るべきだ。

 と、思い直してノートを閉じた。


 健司が出てきたら、必ずどこかのライブにパワーステーションはまた出演する。

 その時は、こっそり見に行くことになるだろうけど、

 生の舞台で目に焼き付けるようにして見たい。それだけの価値があるネタだ。


「ギンザギンザ~、ギンザ、ギンザ、ギンザ」

 で始まる、このネタが出来た経緯を自分は知っている。

 知ってるどころではない。

 ゴン君が引きこもりから立ち直る一瞬の、お手伝いまで出来た。

 思入れが違う。

 ネタバレして、どうするの。とサトミは自分に言い聞かせた。


「きーがーくるいそう、ノーノーノーノーノー」

 が掛かると、モンブランケーキのように毛布にくるまっていたゴン君が、リズムをとって揺れ始めたことを、思い出した。ちょっと可愛くて、可笑しかった。


 これを知っている自分は、いちファンとしても別格の存在だと、自負している。

 その辺の、にわかパワーステーションファンと一緒にして貰っては困る。

 この優越感だけは、誰にも譲れない。

 もし仮に、ゆくゆく、気心の知れたファン仲間が出来たとしても、この裏事情は話さない。

 私だけのものとして、大事に大事に、とっておこう。


 ノートをパタンと閉じて、もう一度、よし。と気合を入れ直した。

 窓ガラスに着いた煙草のヤニを綺麗にしなくちゃ。

 と雑巾を固く絞って、一心不乱に磨いた。

 サッシの溝のホコリも綺麗にぬぐった。

 ついでに、キッチンの床や、六畳間の畳まで、雑巾で拭き上げた。

 汗ばんできたので、いつも間にかカーディガンも脱いで、ブラウスひとつになっていた。


 さて、ここに来た目的は、ガジュマルの鉢植えだ。

 葉っぱの一枚一枚を丁寧に拭くと、ピカピカと光りはじめた。

 最後の仕上げとばかりに、マグカップでそっとお水をあげた。


 ガジュマルの鉢植えは、生き生きとした姿を保っているように感じた。

 それを見ていたら、サトミの目からは、涙が溢れて止まらなくなった。



 第19話 終

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