第8話 消 (一文字シリーズ)

​鍵を回す。

低い抵抗のあと、小さな音がした。

一度止まり、もう一度回す。

今度は手応えがなく、軽かった。

ゆっくりと扉を押す。

​部屋の匂いが、まだそこにあった。

私は中へ入る。

電気はつけない。

窓から差し込む夜の明かりだけで、今の私には十分だった。

​靴を脱ぎ、そのまま上がる。

床が、軋んだ音を立てる。

以前は、この音のすぐあとに重なるような笑い声があった。

今は、ただの木の音しかしない。

​机の上に、コップが二つ並んでいる。

片方だけ、底の跡が薄くなっている。

指でその縁を強く押してみるが、それは微動だにしない。

カーテンが揺れた。

窓は閉まっているはずなのに、風を孕んだように揺れている。

​ソファの前で足を止める。

そこには、誰かが座っていたような「へこみ」が残っていた。

私はその空白に腰を下ろす。

私の重みで、かつての形が上書きされて消えていく。

すぐに、立ち上がった。

​洗面所へ向かう。

歯ブラシが一本。

かつてあったはずの、もう一本はどこにもない。

蛇口をひねり、水を出した。

すぐに、止める。

鏡を覗き込む。

​そこに映っているのは、知らない顔だ。

頬が少し濡れている。

袖で乱暴に拭うと、布の跡が白く残った。

​部屋の奥を見渡す。

どこまでも暗いまま、沈んでいる。

奥へと歩き出す。

響く足音は、ひとつ。

以前は、いつもふたつの音が重なっていた。

​足を止める。

深く、息を吸い込む。

ゆっくりと、吐き出す。

​玄関に戻り、靴を履く。

扉を開けると、外の湿った空気が流れ込んできた。

最後に一度だけ、振り返る。

​誰もいない、部屋の中。

ただ、冷蔵庫の低い駆動音だけが、生活の名残のように続いている。

​扉を閉める。

音が消え、世界が遮断された。

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