第14話:悲嘆の聖痕

 炎の咆哮ほうこうが戦場を呑み込んだ。


 タールと松脂まつやに、血が蒸発して残す生臭い鉄の匂いが肺を刺した。


 ドレイクは折れた腕の痛みを忘れようと奥歯を噛み締めた。


 義眼はこの瞬間最悪の拷問器具だった。視界の隅で赤い数字が無機質に明滅している。


【重装歩兵162。演算不能】


 盾の列は計算と経験をあざ笑う圧倒的質量の壁だった。奴らは次の動きを読もうともしなかった。


 重い鉄槌が馬車の最後の残骸を砕くと破片が凶器のように跳ね上がった。


 悪態を噛み殺し、残った片腕でスキットルを引き抜いて放り投げた。逃れられぬ運命への嘲りだった。


 スキットルは先頭の盾に当たりあっけなく砕け散った。盾兵は微動だにせず虫けらでも見るように見下ろすだけだった。


 義眼が初めて演算を止め空回りした。論理と力学は力という原初の法則の前に崩れつつあった。


 そのとき、二階の闇の中でテリオンは息を殺していた。


 祭司にとって視界を奪われた戦場は地獄だった。床板のきしむ悲鳴と壁越しに揺れる蒼白い炎だけを頼りに、獣のように感覚を研ぎ澄ませていた。廊下を伝って近づく足音がいくつも聞こえた。


 狩りが始まっていた。


 砕けた扉枠の陰に身を潜め掌に魔力を集中させた。生き残るためのたった一度の機会だった。


 足音が目の前で止まった。


 束の間の静寂。


 扉が荒々しく開かれた瞬間、ため込んだ光を炸裂させた。


 閃光。


 一瞬にして狼団員の目がくらんだ。悲鳴が噴き出す隙を突き最も近い男の喉へ短剣を振るった。


 だが刃が肉に食い込む感触を得る前に脇腹へ鈍重な衝撃がめり込んだ。


 骨がずれる音とともに床へ転がった。視界が戻ったとき目に映ったのは無数の刃だけだった。


 アッシュはそのすべてを冷たい目で見透かしていた。


 四方を取り囲む炎の壁は徹底的に計算された罠だった。過去の声が氷の破片のようにかすめた。


『いかなる罠にも設計者が残した退路が存在するものよ。獲物を誘い込むために』


 イゾルデ。木剣を突きつけながらささやいた、優しくも残酷だった声。


 視線が炎の中をかき分けた。教えどおりならばこの地獄にも道があるはずだった。捉えたただ一つの退路。


 最短の跳躍を試みた。


 神経を削る破裂音。


 身体が空間を断つ前に熱気に沸き立つ大気がマナの流れを引き裂いた。あとずさり、袖先が炎に触れて炭のように崩れた。


 完璧な袋小路。


 目に映る仲間たちの必死の抵抗すらもはや霧の中の風景のように空虚だった。悲しむには遅く、怒る気力さえ失せた。


 手札がさらされた賭場とばの幕引きだった。


 冷たい結論の刹那、勝利を確信したバルガスが包囲網の中心へと悠然と歩み出た。その手には意識を失ったテリオンが荷物のように引きずられていた。


 肩に縫い付けられた教団の紋章をじっと見下ろした。いまいましげに引き剥がし地面に唾を吐くように放り捨てた。


 生涯縛り付けてきた憎悪の答えを見つけた者の顔だった。


 * * *


 宿場を出たエリアーナの耳に世界が崩れ落ちる音がなだれ込んだ。


 走った。行くあてはなかった。悲鳴の聞こえる方へ、黒煙の立ち昇る方へ、本能のままに足を踏み出した。


 路地の入り口にさしかかると、恐慌に駆られた人波が逆流するように押し寄せた。助けを乞う叫び、子を探す泣き声、恐怖に引きつった息遣いが肩に打ち据えられた。


 濁流に逆らうように必死に人波をかき分けた。


 やがて視界が開け、燃え盛る街の地獄絵図が目に突き刺さった。


 これは戦いではなかった。一方的な虐殺だった。


 崩れた建物の残骸の前に座り込んで泣く子供がいた。泣き声はとうに喉の奥で潰れていた。息を切らしながら死んだ母親の裾を声もなく揺するだけだった。


 扉を閉めようとした商人は背後から飛んできた斧に倒れ血溜まりに沈んでいた。手からこぼれ落ちた鍵束が冷たく光っていた。


 奇跡が降り注いだ大地、豊穣を約束した街が松明となって空を焦がしている。希望が灰となって散った。


 口を押さえた。街全体の苦痛が津波のように押し寄せ魂を侵食した。


 聖女として、この悲劇を無力に見つめるしかなかった。


 視線が虚空をさまよった。地獄を止めうるたったひとつの希望を探すかのように。


 街の死を映していた眼差しが一点で凍りつく。包囲網の中心。勝利を確信したバルガスの手に戦利品のように引きずり出された祭司。


 初めはまた一人の無力な犠牲者に見えた。だが血と埃にまみれて力なく垂れ下がる輪郭――見覚えのある姿が重なった。


 テリオン。


 世界が崩れ落ちた。


 バルガスが祭司の体を荒々しく投げ捨てた。そして地面に転がっていた鉄筋の破片を拾い上げた。


 肩を貫く音。


 テリオンの体がぐったりと弛緩しかんした。


 奇跡の代償という枷が粉々に砕け散った。景色が色を失い、鼓動の暴走だけがすべてを支配した。


 頬を伝い、黒ずんだ血の涙がひと筋流れ落ちる。


 音もなく。


 それが焼け焦げた大地に落ちたその刹那。


 世界の音がはるか遠くへ退いた。

 火炎も、悲鳴も、風さえも凪いだ。


 ただ街全体が生き物のように深く鳴動していた。


 * * *


 バルガスは怒号が喉の中でだけ渦巻いていることに気づき狼狽ろうばいして周囲を見回した。


 空から雪が降っている。灰色の雪だった。


 温かく柔らかな灰が亡霊のように炎の上を覆い、血溜まりの上を覆い、怯えた顔の上を覆った。


「な……なんだ……!」


 一人の狼団員が怯え叫んだ。足元、灰の積もった石の隙間から漆黒のとげの結晶が突き出した。黒曜石のように鋭く影よりなお暗かった。


 バルガスは恐怖の中でも命令を下そうと手を上げた。だが応じる部下はいなかった。


 誰もが足元から咲き出す黒い死を見つめ凍りついていた。完璧だった指揮系統が灰のように崩れ去った。


 それは絶望が生み落とした疫病だった。教団の古代の記録ではこの種の災厄を——悲嘆の庭と呼んだ。


 エリアーナの涙がひと雫大地に染み込んだ瞬間、時間と空間を司る理にひびが走った。絶望が形を得て、黒い棘となって大地の肌を突き破り芽吹いた。


 死は幾何級数的に増殖した。


 天の視線は無数の死の中で最も取るに足らないひとつへと錐のように突き刺さった。つい先刻意気揚々と商人の首をはねた狼団員だった。


「来るな! 離れろ!」


 仲間を押しのけ生き延びようとあがいたが、すでに足元は世界の果てだった。


 短い生涯の最後に目にしたのは血が花のように咲き乱れる異様な美しさだった。


 視界が暗転し、恐怖を剥製にしたミイラだけが残った。


 道端に転がっていた青い鳥の人形の胸をもうひとつの黒い棘が無造作に貫いた。失われた希望への無情な終止符だった。


 その小さな悲劇を皮切りに街の一区画全体が巨大な祭壇へと変貌した。路地は棘に満ちた峡谷となり、広場は貫かれた屍の森と化した。


 燃え盛っていた炎さえも黒い棘に囚われたまま赤い結晶のように明滅していた。


 かくして血の滴る庭が完成した。


 バルガスは部隊が一瞬にして凄惨な剥製と化した光景を呆然と見つめるだけだった。


 生涯を戦場で過ごしてきた。


 刃と炎、悲鳴と血。


 だがこれは違った。これは法則だ。


 抗えぬ絶対的な消滅の法則。


 足元でも黒い棘が軍靴の上を蛇のように這い上がっていた。


 * * *


 テリオンは意識が戻った。肺腑はいふに深く突き刺さった鉄筋の欠片が息をするたびに痛みをねじ込んだ。


 血と埃にかすむ視界の向こうに見た。姉が立っていた場所で森が赤光を放ち脈動するのを。


 教団の神聖魔法は常に精製された白、あるいは純粋な金色だった。目の前の惨状は信仰をあざ笑っていた。


 生命の血を糧に育つ黒く歪んだ棘、絶叫が刻まれた骸。大地は呪われたように明滅して呼吸していた。


 悪夢の中にいるかのように呆然と見つめていた。


「駄目だ……!」


 無力な断末魔だった。だが血の滴る庭の姿は変わらなかった。


 震える手で胸を貫いた鉄筋を掴んだ。


 歯の隙間から獣のような呻きが漏れた。掌が裂け、血が流れても止めなかった。痛みだけが悪夢が現実であることをあかす唯一の感覚だ。


 最後に残った力を振り絞って叫んだ。


「……くそっ! ……くそ……! くそ……!」


 砕けた馬車の陰でドレイクは膝をついたままかろうじて持ちこたえていた。残った手が狂ったように明滅する義眼を押さえ込んだ。


【ERROR:DATA OVERLOAD】


 義眼の内部が過負荷に耐えきれず煙を噴いた。


 世界を数式と論理で理解してきた。今視界を埋め尽くすのはいかなる公式でも説明できない純粋な混沌そのものだった。理性が現実を拒んでいた。


 アッシュは冷ややかに眺めていた。


 黒い棘が狼団員の血を啜る光景の上に祭壇に繋がれ生命力を搾り取られていた燃料いけにえの姿が重なった。


 恐怖はなかった。また新たな災厄の誕生を、うんざりするほど見慣れた軌跡を確かめているだけだった。


「……結局このザマか」


 諦観した者の乾いた独白だった。


 災厄の中心でエリアーナがゆっくりと宙に浮かび上がる。


 目、鼻、口がまるで蝋のように溶け落ち、境界が消えていく。


 蒼白い空白へと変わりつつある。


 すべてを吸い込む。灰燼かいじん、ミイラ、崩れた残骸と黒い棘——彼女を中心に渦を巻きひとつの塊へと結びつく。


 地盤が悲鳴を上げる。


 大地が裂け、廃墟の中心に何かがせり上がる。数十メートルに及ぶ黒い山脈だった。


 頭も手足もない不規則な塊。


 表面のそこかしこに狼団員の顔が苦悶に歪んで浮かび上がっては消えるのを繰り返していた。体のいたる所から黒い血涙が溶岩のように流れ落ちた。


 そして、それが泣く。


 この世のあらゆる悲嘆を吐き出す、魂を揺さぶる慟哭どうこくだった。


 もはやそこに女の姿はなかった。


 ただ——だけが残されていた。

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