未来視の魔女はすべてを仕組んでいたー忌み子と呼ばれた彼女と、気づけば夫婦になっていた話
セイケン
一日目
森のほとりに、ひとつの湖がある。
風はなく、水面は鏡のように静まり返っていた。空も木々も、そのまま沈み込んでいるような、不気味な静謐。
その縁で――一頭の馬が、水を飲んでいる。
ただ静かに、喉を潤すだけの動作。
だがその背には、一人の男がいた。
黒髪。引き締まった体躯。鎧は砕け、全身に乾ききらぬ血がこびりついている。力尽き、うつ伏せのまま動かない。
――生きているのが奇跡だった。
その光景を。
まるで“待ち侘びていた”かのように――
女は現れた。
白い髪。黒の魔術師服。細身の身体は、無駄を削ぎ落とした刃のように研ぎ澄まされている。
目元は、アイマスクで覆われていた。
額から大きく隠すそれは、視界を奪っているはずなのに――
なぜか、見られていると錯覚させる。
隠されてなお分かる、端正な顔立ち。
冷たい美しさと、触れれば壊れそうな繊細さ。そして――触れた瞬間に壊される危うさ。
女は男を見上げる。
観察するように。
解剖するように。
「……ふふ」
口元が歪む。
「来たか」
その声音は、歓喜に近い。
だがそれは救済ではない。
もっと歪で、個人的な――期待が満たされた響き。
(どこまで壊れるか……試してみるのもいい)
静かに、胸の内で呟く。
女は馬の手綱を取った。
馬は抵抗しない。最初から従うべき主を知っていたかのように。
そのまま、森の奥へと消えていく。
――
「……うっ……」
意識が浮上する。
鈍い痛みが、全身を這う。
「……うーん……」
目を開ける。
天井。古びた梁。だが丁寧に手入れされている。
部屋だ。
古い家具。整えられた布。人の生活の気配。
「……ここは……」
身体を起こすと、違和感。
鎧はない。代わりに、清潔な肌着。
――手当てされている。
「起きたか」
声。
振り向く。
そこにいたのは――白髪の女。
椅子に片膝をかけ、無造作に座っている。
だがその姿勢に、隙はない。
見えないはずの視線が、突き刺さる。
品定めするように。
「あんたが……ここに?」
「そうだな。傷だらけだったんでな」
微笑む。
柔らかいはずなのに、どこか冷たい。
男は眉をひそめる。
「……すまないな」
起き上がろうとして――気づく。
右手首に、手錠。
「……これは」
「ああ」
女は肩をすくめる。
「私はな。一人暮らしでな……」
口角が上がる。
「わかるだろ? 女の家だからな」
(何を言っている……)
だが同時に理解する。
漏れ出る魔力。
異常だ。
この女は――化け物に近い。
その時。
「肋骨、三本。内出血。右肺、少し潰れていたな。今は戻してある」
女がさらりと言った。
男の目が見開かれる。
「……見たのか?」
「見えるからな」
あっさりと。
まるで当然のように。
アイマスクの奥で、“何か”が蠢いた気がした。
「……そうか」
男は息を吐く。
「まあ、仕方ないな」
「お前が大丈夫だと思えるまでは、このままだ」
女は言う。
本気で、それが“当然”だと信じている声音で。
「そうか……」
男は頷き、
「では、このまま出ていくよ。迷惑をかけた」
と告げた。
そして――
手錠を、引きちぎる。
容易く。
まるで飴細工のように。
「――っ」
女の顔が、歪む。
ほんの一瞬。
予想外。
(……やはり)
次の瞬間、確信へ変わる。
(一筋縄ではいかないか……)
喉の奥で、笑いが生まれかける。
それを抑え、顔を背ける。
「心配するな。このまま、ここを去る」
男は立ち上がる。
ふらつきながらも、足取りは確か。
女の横を通り過ぎ、扉へ。
開ける。
――真っ黒な空間。
底のない闇。
何かが蠢き、遠くでうめき声が響く。
存在してはならない“虚無”。
男は目を閉じる。
そして静かに、扉を閉めた。
「……これは?」
「虚無だ」
女はそっけなく言う。
顔を背けたまま。
まるで――“知らんな。お前が悪い”とでも言うように。
「外に出るなら、そっちだが?」
何事もないように付け足す。
日常の一部のように。
「……いや、遠慮しておく」
男は短く返す。
「……あんた、名前は?」
主導権を取り戻すように問う。
女はわずかに間を置き、
「先に名乗るのが筋ではないのか?」
と返す。
冷たい声音。
だがその奥に、わずかな興味。
「そうだな」
「俺の名前は……ノリヒト・シラト」
「転移者……だな」
即座に言い当てる。
迷いなく。
「私の名前は――」
女は、口元をわずかに緩めた。
「モルテリア・オクルスだ」
一拍。
「真名は教えんがな」
くすり、と笑う。
妖しく――それでいてどこか無邪気に。
「まあ、食事は運んでやる」
立ち上がる。
「しばらく、ここで休むがいい」
扉へ向かう。
自然な動作で開ける。
今度は普通の廊下が続いていた。
出ていく、その直前。
ほんのわずかに、足が止まる。
振り返りはしない。
ただ――
(……妙だな)
胸の奥に、わずかなざわめき。
その感覚の名前を、彼女は知らない。
知らないまま、扉を閉める。
静寂が戻る。
廊下に出たモルテリアは、そっと胸に手を当てた。
「……妙だな」
もう一度、呟く。
鼓動が、ほんの少しだけ速い。
理由は分からない。
だが確かなのは――
「……当たりか」
小さく、笑った。
その笑みは、美しく。
そしてどこまでも――不穏だった。
しばらくして――
扉が静かに開いた。
コツ、と軽い足音。
現れたのは、白髪の魔女――モルテリア・オクルスだった。
手には盆。
載せられているのは、素朴な食事。
発酵していない硬そうなパンと、湯気の立つスープ。
それだけ。
「……」
ノリヒトは、無言になった。
視線は自然と皿へと落ちる。
――食べて、大丈夫なのか?
その一瞬の逡巡。
それを、見透かしたように。
「毒など入ってないから、安心しろ」
モルテリアが、にやりと口角を上げた。
まるで、心の内を覗き込んだかのようなタイミング。
「……すまんな」
ノリヒトは短く言い、食事に手を伸ばす。
(まあ……殺すつもりなら、とっくにしているか)
(人買いに売るつもりなら……もう売り払っているだろうしな)
そう割り切る。
パンをちぎり、スープに浸す。
味は……悪くない。むしろ、妙に身体に染みる。
だが――
妙に、食べづらい。
理由は明白だった。
モルテリアが、じっとこちらを見ている。
いや。
正確には――見えていないはずなのに、“見られている”。
その圧が、離れない。
ノリヒトはゆっくりと顔を上げる。
「……すまないが」
「なんだ」
「なんだか……食べづらい」
少し間を置いて、
「凝視されている気がしてな」
モルテリアの肩が、わずかに揺れた。
「……見えているのか?」
問い。
一瞬の沈黙。
そして――
「み、見えているだと……?」
モルテリアが、顔を逸らす。
わずかに、赤い。
「見えてない……」
「気の所為だ……」
言葉が、妙にたどたどしい。
さっきまでの冷静さが、ほんの少しだけ崩れていた。
(……わかりやすいな)
ノリヒトは、内心で苦笑する。
あれだけ異常な魔女が、こういうところで妙に“普通”なのが、逆に違和感だった。
「そういえば」
パンを口に運びながら問う。
「あんたは? 魔女なのか?」
ぴくり、と空気が変わる。
「……モルテリアだ」
低い声。
「あんたじゃない」
語気が強まる。
その一言に、妙なこだわりが滲む。
「……すまん。モルテリア」
素直に言い直す。
「魔女なのか?」
「まあ、そうだな」
モルテリアは腕を組み、少しだけ顎を上げた。
「呪い師(まじないし)をやっている。占いなんかもな……」
どこか誇らしげで。
どこか、試すような声音。
「ここは?」
「私の家だ」
即答。
「街の外れにある。城壁の外だ」
「一番近い家までは……そうだな、一刻ほど」
さらりと言う。
(城壁の外……?)
(かなり危険なはずだが……)
その疑問。
口に出す前に。
「結界を張ってあるから、そうそう近づけんぞ」
ぴたりと、言い当てられる。
ノリヒトの視線が細まる。
(……やはり、読まれているな)
完全ではない。
だが、思考の流れを“視ている”。
あの魔眼。
ただの視覚ではない。
「……お前のことを教えてくれ」
モルテリアが言った。
静かに。
だが、逃がさないという圧を含めて。
「そうだな」
ノリヒトは肩をすくめる。
「転移者だ。面倒事ばかり押し付けられてな」
「嫌気がさした」
淡々と。
「円満とは言い難いが……犯罪は犯してない」
ため息。
少しの疲労。
「……いつになったら、ここから出られる?」
その問いに――
モルテリアは、わずかに笑った。
「そうか……ノリヒト」
名を呼ぶ。
それだけで、空気が変わる。
「この部屋から出たいなら――誓約を交わしてもらう」
どこからともなく、一枚の紙が現れる。
古代文字。
淡く光を帯びた誓紙。
「――契約か」
「そうだ」
モルテリアは、すらすらと読み上げる。
「一つ。私に危害を加えないこと」
「一つ。怪我が治るまで、この家に住むこと」
「一つ。必ず一緒に食事を取ること」
――そこで、ほんの一瞬だけ、間が空いた。
「一つ。私の許しなく、この家を去らないこと」
静寂。
「……それが出来るなら、この部屋から出してもいい」
ノリヒトは目を細める。
「“許しなく、この家を去らない”……ってのは」
「いつまでもいろ、ってことか?」
「……まあ」
モルテリアはわずかに視線を逸らす。
「挨拶もなく勝手に去らない、という意味だ」
「他意はない」
その言い方が、どこかぎこちない。
まるで、自分でも言い訳だとわかっているような。
「……ありがたい話だが」
「いいのか?」
「何がだ」
「勘違いされるぞ」
さらりと。
「モルテリア。顔立ちが美しいしな」
沈黙。
一拍。
「……な、ななななな!!?」
モルテリアが、完全に崩れた。
「お、お前……勘違いするなよ!」
「ちょっとかっこいいからって……!」
耳まで赤い。
さっきまでの冷徹な魔女はどこへやら。
「……いや」
ノリヒトが首を傾げる。
「目、見えないんじゃなかったのか?」
「――っ」
一瞬で、動きが止まる。
「……ほとんど見えてない」
咳払い。
強引に立て直す。
「ただ、映像化はできる。頭の中ではな……」
いつもの調子に戻ろうとするが、どこかぎこちない。
(……なるほどな)
ノリヒトは、少しだけ笑みを浮かべた。
(こいつ、面白いな)
「……じゃあ、誓約をする」
紙を受け取る。
名前を書く。
――ノリヒト・シラト。
モルテリアも、続けて記す。
その瞬間。
誓紙が、ふわりと宙に浮かび――
音もなく、燃え尽きた。
契約成立。
見えない何かが、確かに結ばれる。
「……これでいい」
モルテリアが言う。
どこか、ほんのわずかに安堵したような声音で。
ノリヒトは、息を吐いた。
こうして――
二人の奇妙な同居生活が、始まった。
―― 一日目、終了。
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