第15話 五時二十分で止まる部屋
「来るのが遅い」
旧時刻印室の扉の前に立つ父は、湊の記憶にあるままの声でそう言った。
低く、少し乾いた声。
家では大きく笑わない人だった。怒鳴ることも少なかった。だからこそ、その一言だけで胸の奥が強く締まる。
「……父さん」
思わず出た呼びかけに、父は首を横に振った。
「返事は要らない。今は時間がない」
その言い方に、榛原蓮司がすぐ反応する。
「本人か、控えか」
父は扉に手をかけたまま、わずかに視線を榛原へ向けた。
「半分ずつだ」
「便利な言い方ですね」
風見梓が低く言う。
「便利じゃない」
父は淡々と返した。
「便利なら、もっと早く終わらせていた」
その瞬間、湊の手の中の青いガラス玉が、かすかに温かくなった。
耳元ではなく、手のひらの内側で、小さな声がする。
――お父さんだよ。
ひよりの声だ。
湊は息を呑み、それでも何とか頷いた。
完全な本人ではなくても、少なくとも“嘘だけの何か”ではない。そう信じられた。
父は赤い光の漏れる扉を押し開けた。
「入れ。時計が動く前に」
◇
旧時刻印室は、倉庫とも地下室とも違う匂いがした。
油。
古いインク。
長いあいだ誰も使っていない機械の金属臭。
部屋の中央には、巨大な時刻印機が二台、黒い塊みたいに並んでいる。片方は完全に沈黙していたが、もう片方だけが、ごく弱く赤いランプを灯していた。
壁の高い位置に、丸い時計。
父の手紙にあった通り、五時二十分で止まっている。
ただし今は、秒針だけがごくわずかに震えていた。
「……本当に止まってる」
湊が言うと、父は機械の脇にある細長い金属棚を指した。
「三番保管箱はあそこだ」
棚は一番から五番までに分かれていた。
三番だけ、赤い封印紙が斜めに貼られている。
榛原が番号札を持ち上げる。
父の封筒に入っていた、印時室 3の札だ。
「これで開くんだな」
「そうだ。だが先に聞け」
父は湊を見る。
視線は合うのに、どこか薄い。やはり“半分ずつ”という言葉通りなのだろう。
「原本をここへ移したのは、家の中に置いておけなかったからだ。
印時室は、配達前の時間を一時的に止められる。消印が押される前の便なら、ここではまだ“出ていないこと”にできる」
「だから五時二十分」
風見が言う。
「柊家の一件がそこで止まったまま、流れを遅らせていた」
父は頷いた。
「だが止められるのは“便”だけだ。
家族の記憶や、返事した記録までは止まらない。だからひよりの名前だけ先に消え始め、湊だけが中途半端に残った」
湊は拳を握った。
「……じゃあ、最初の便はなんだったんですか」
父は答えるまでに、ほんの少し時間を置いた。
「確認便だ」
「確認?」
「受取人が、受け取るか拒否するかを選ぶための便だ。
本来なら、本人が読んで、それで終わるはずだった」
「そんな簡単なものなら、どうしてここまで……」
「簡単だったからだ」
父の声は低い。
「簡単な便ほど、間違った返事一つで、修正が長引く」
榛原が封印紙の前に立つ。
「開けるぞ」
番号札を差し込む。
かち、と軽い音。封印紙がひとりでに裂け、三番保管箱の扉が開いた。
中には、横長の白い封筒が一通だけ入っていた。
他の便と違って、紙は真新しいわけでも古びているわけでもない。年数を拒否したみたいな、妙な無時間の白さをしている。
表には、今度こそはっきりと一つの名前だけが印字されていた。
柊 湊 様
湊の喉が詰まる。
「……俺だけだ」
「本来はな」
榛原が低く言う。
封筒の左下には、小さな赤字でこうあった。
受取確認便
代理応答不可
「不可、って……」
湊が呟くと、父の声が少しだけ苦くなる。
「本来はそうだった。
だがポストの前で、別の便が同時に混ざった」
「ひよりの?」
「ひより宛てではない。ひよりが“拾った便”だ」
父の言葉に、風見が眉をひそめる。
「家族便ではなく、係便」
「そうだ。返却便係で保留になった別の確認便が、同じタイミングで柊家の前へ流れた」
湊の頭の中で、ようやく繋がる。
最初の誤配は一軒目から始まっていた。
柊家宛ての便と、返却便係で保留されていた別便が混ざり、ひよりが先に応答した。
そこから全部がおかしくなった。
「じゃあ黒い封筒は」
「その“訂正便”だ」
父が答える。
「一回で終わらなかった確認を、もう一度、正しい順番でやり直すための便」
五時二十分で止まっていた時計の秒針が、かち、と一目だけ進みかけて、また戻る。
風見がそれを見て、鋭く言った。
「時間がない。
ここで原本を読む?」
「読む」
父は即答した。
「ただし、湊一人では駄目だ。
ひよりの立会が必要だ」
「ここにいません」
湊が言うと、手の中の青いガラス玉が熱くなる。
ひよりの声が、今度ははっきり響いた。
――いるよ。
部屋の空気が少しだけ揺れた。
時刻印機の赤いランプの横に、小さな影が立つ。赤いランドセル。夏服。前より薄いが、たしかにひよりだ。
「間に合った」
ひよりは少し息を弾ませて言った。
「局の中、やっぱりむずかしかったけど」
「充分」
父が静かに答えた。
その一言だけで、ひよりの顔が少しだけ柔らかくなる。
榛原が原本の封筒を湊へ差し出す。
「今度は“あとで”なしだ」
「うん」
「四人で、だよ」
ひよりが念を押す。
「わかってる」
湊は封筒に手をかけた。
自分の指。
ひよりの小さな手。
風見の白い紐越しの指先。
榛原の静かな視線。
父は少し離れた場所で見ている。
封を切る。
中には便箋が一枚。
それだけだった。
湊は開く。
そこに書かれていたのは、拍子抜けするほど短い文だった。
あなたは、これを受け取りますか。
はい / いいえ
たったそれだけ。
「……これだけ?」
湊が呟く。
「だから確認便」
風見が言った。
「本来なら、本人が選んで終わるだけだった」
だが、便箋の下部にもう一行、極小の文字が浮かび上がる。
受取対象:差出人不明便に付随する記録全般
「差出人不明便に付随する記録……」
榛原が低く読む。
「つまり、おまえが“はい”を選べば、差出人不明便に引っかかってる記録ごと受け取ることになる。
ひよりの件も、家族便も、控えも、全部」
「じゃあ“いいえ”なら?」
湊の問いに、父が答えた。
「記録は別の受取人候補へ流れる」
ひよりがすぐに言った。
「それ、だめ」
風見も同時に口を開く。
「だめね」
榛原は少しだけ肩をすくめた。
「少なくとも今の状況だと、だめだ」
湊は便箋を見つめた。
はい。
いいえ。
あまりにも単純な選択肢。
けれど、ここまでの全部が、その二文字に乗っている。
「……受け取ったら、どうなるんですか」
父は少しだけ目を伏せた。
「正しく“本人が受け取った”ことになる。
その代わり、今まで家族が背負っていた保留や控えの一部が、お前に戻る」
「戻るって」
「重いということだ」
率直だった。
「でも、お前が受け取らない限り、誰かが代わりに持ち続ける」
湊はひよりを見る。
ひよりは何も言わない。ただ、まっすぐこちらを見返していた。
母の代理受取。
父の条件付き承認。
ひよりの誤受取。
榛原の保留。
風見の立会。
全部が、ここへ繋がっている。
「……俺」
言葉にする前に、五時二十分で止まっていた時計の秒針が、今度ははっきりと一目進んだ。
かち。
時刻印機のランプが強く赤くなる。
低い駆動音が部屋の底から響き始めた。
「まずい!」
榛原が叫ぶ。
「印時が再開する!」
父の輪郭が、少しだけ薄れる。
「急げ、湊。
時計が動き切る前に選べ。
でないと原本はまた配達に戻る」
湊は便箋を握りしめた。
「……受け取る」
そう言って、はいの文字に指を置く。
その瞬間、便箋の裏側に隠れていた文字が、一気に浮かび上がった。
最終差出人確認:風見 梓
全員が固まった。
「……は?」
湊の声が抜ける。
風見が、息を止めた。
「そんなはず、ない」
榛原が便箋を奪うように見つめる。
だが印字は消えない。
最終差出人確認:風見 梓
時刻印機の音が一段高くなる。
父の輪郭がさらに薄れる。
ひよりも驚いた顔のまま、湊の腕にしがみつく。
「風見さん……?」
湊が振り向く。
風見梓は、見たことがない顔をしていた。
青ざめているのに、それ以上に、自分でも理解できないものを目にした人の顔だ。
「……違う」
彼女は掠れた声で言った。
「私、こんなの知らない」
だが次の瞬間、旧時刻印機の奥、誰もいないはずの操作卓で、ひとりでにレバーが下がる。
巨大な消印ヘッドが、ゆっくり持ち上がった。
赤いインク面には、はっきりと日付ではなくこう刻まれている。
返却便係 発
榛原が顔色を変える。
「下がれ!」
だがもう遅い。
消印ヘッドが、湊の持つ便箋へ向かって落ちてきた。
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