透明な檻
真島二郎
短編
新田圭介は、発表だけは完璧だった。
学会でも社内報告でも、彼が前に立つと空気が変わった。
導入は短く、論点は明快で、難しい箇所ほど言葉がやわらかくなる。聞いている側がどこで置いていかれるかを先回りして、そこで一段だけ階段を増やす。最後には、本人が本気で面白いと思っている核心だけが、きれいに残る。
質問にも強かった。
相手が何を聞きたいのか、質問の表面より半歩奥で分かる。誤解を解き、必要なら少しだけ相手の面子も守る。敵を作らず、内容だけを勝たせる。そういう話し方ができた。
だから、周囲はよく言った。
「新田さんってコミュ力高いですよね」
「頭いい人って説明下手なこと多いけど、ほんと分かりやすい」
「研究できて話せるって最強ですよね」
圭介はそのたびに笑った。
訂正しようとは思わなかった。面倒だったからだ。
彼はコミュニケーションが得意なのではない。
管理された場面でだけ、失敗しないように振る舞えるだけだった。
研究も同じだった。
彼は本当に研究ができた。流行をなぞるだけの仕事ではなく、ちゃんと問いを立て、要らないものを削り、論文として残る形まで持っていけた。人の論文を読めば、どこが弱いかすぐ分かった。自分で書けば、論理の骨格が崩れない。
派手ではなくても、確かに良い論文を出せる人間だった。
それでも、研究室の休憩スペースで雑談が始まると、彼は突然、駄目になった。
「昨日さ、あの店行った?」
「マッチングアプリどう?」
「新田くんって休日何してるの?」
「そういえば彼女いるの?」
そういう話題になると、頭の中で何かが一気に混線する。
普通に答えればいいだけなのに、それができない。
何を言えば自然か。
どこまで言うと軽く見られるか。
どこで笑えば無難か。
何か言って、薄っぺらいとか、経験がないとか、女慣れしてないとか、そういうふうに見抜かれないか。
考えることが多すぎた。
その間に会話は先へ進む。
圭介は一拍遅れて笑い、一拍遅れて何かを言う。たいてい微妙にずれる。
相手は「あ、そういう感じなんだ」と察して、少しだけ目の色を変える。
その変化を、圭介は見逃さない。
見逃せない。
最初は敬意がある。
研究ができる人、発表がうまい人、すごい人。
だが、雑談でつまずいた瞬間に、その敬意は別の棚に移される。
仕事はできるけど、男としては弱い。
能力はあるけど、人間としては押せる。
対等ではなく、少し下に置いていい。
彼はそれを、女の目でも、男の目でも、何度も見た。
同年代の女は彼を「すごい人」だと思った。
相談相手にはする。研究の話は楽しそうに聞く。真面目で、賢くて、ちゃんとしていると言う。
だが、その先には来ない。
同年代の男、とくに雑にモテる種類の男は、もっと露骨だった。
最初は「新田さん」と呼んでいても、少しすると「圭介ってさ」と言い始める。肩を叩いてくる。恋愛の話を振ってくる。経験のなさを笑うほどではないが、確認するような顔をする。
そして、その顔には決まって同じものがある。
こいつは反撃してこない。
その感覚を、圭介は子どもの頃から知っていた。
父親がそういう顔をしていたからだ。
父は体が大きかった。
九十キロを超えていたはずだと、圭介は後から母に聞いた。
子どもの目には、もっと巨大に見えた。家の中を歩くだけで床が少し鳴る。機嫌が悪い日は、それだけで胃が固くなった。
父は怒鳴る前に黙る人間だった。
黙って、相手を見た。
その沈黙の長さで、その日の危険度が分かった。
成績が悪いと、「なぜこんなこともできない」と言った。
良いときは、「お前は選ばれた人間だ」と言った。
どちらも、同じ顔だった。
圭介を見ているようで、見ていない顔。
目の前にいる子どもではなく、自分の期待、自分の失望、自分の恥だけを見ている顔だった。
妹にはもっとひどかった。
父が本気で怒った夜、廊下に血が落ちたことがあった。
鼻血だったのか、口の中を切ったのか、圭介はもう覚えていない。ただ、白い床に点々と赤が落ちて、それを母が夜中に無言で拭いていた光景だけが残っている。
妹は泣いていた。父はもっと怒った。泣くな、と言った。泣くと余計にいらだつ、と。
圭介は自分の部屋の前で立ち尽くしていた。止められないし、逃げてもいけない気がした。何もしないことでしか、生き延びられなかった。
一度、自分がやられたこともある。
父の機嫌が最悪のときに、子ども特有の浅はかさで、少しいたずらをした。何をしたのか、内容はもう曖昧だ。だが罰だけははっきり残っている。
父は本気で蹴った。
ローキックが二発、脚に入った。
息が止まって、その場に崩れた。しばらく痛みで喋れなかった。後で骨にひびが入っていたと分かった。
あれ以来、圭介は理解した。
この世界では、恥をかくことは危険なのだと。
失敗すること。
滑ること。
子どもっぽく見えること。
弱いと悟られること。
それは単に気まずいのではなく、攻撃の入口だった。
だから彼は早くから、恥を回避するための技術を身につけた。
勉強。
論理。
語学。
プログラミング。
研究。
プレゼン。
相手より先に準備しておけば恥をかかない。
相手より先に論理を整えておけば軽んじられない。
相手より先に価値を示しておけば踏まれない。
そのはずだった。
実際、それで多くのものは手に入った。
学歴も、論文も、仕事も、年収も、専門性も。
だが、それでも人は彼を軽く見た。
正確に言えば、人は彼の価値を認めた上で、彼を軽く見た。
そこがいちばん残酷だった。
評価されないのではない。
評価はされる。
使える人間だとは思われる。
だが、近い距離になると、急に別の棚に移される。
すごい人。
でも、男としては弱い。
でも、雑にしても壊れなさそう。
でも、実はずっと下にいる。
その「でも」が、圭介を削った。
研究は進んだ。
論文は通った。
学会でも存在感はあった。
一見すれば、人生は順調そのものだった。
なのに夜になると、奇妙な空洞が部屋に満ちた。
仕事が終わり、一人で帰宅して、鍵を閉め、電気をつける。
きれいな部屋だ。必要なものは揃っている。
冷蔵庫も、机も、本棚も、全部ちゃんとしている。
なのに、その部屋には誰も住んでいない感じがした。
自分が住んでいるはずなのに、自分の生活だけがどこにもない。
休日にカフェでノートPCを開いていると、隣の席の男女の会話が耳に入ることがあった。
つまらない話だった。どこへ行ったとか、上司がうざいとか、眠いとか、映画がどうとか。
そのくだらなさが、圭介にはときどき眩しかった。
自分には、ああいう無意味な会話がない。
いや、できるのかもしれない。だが、やろうとすると恥が先に立つ。
経験のなさを見抜かれるのが怖い。
軽薄に見えるのが怖い。
本当は女と話したいくせに、そう思っていること自体を見抜かれるのが怖い。
だから構える。
構えるから空回りする。
空回りするから、ますます軽く見られる。
彼はよく、自分の人生は透明な檻みたいだと思った。
外から見れば、檻はない。
優秀だし、自由だし、稼げるし、将来もある。
どこへでも行けそうに見える。
だが中にいる本人だけが、ぶつかる。
見えない壁に何度も額を打つ。
三十二歳になった春、圭介は出身研究室の集まりに顔を出した。
教授も、先輩も、後輩もいた。
酒が入るとみんな少し無責任になる。
研究の話から、結婚の話になり、そこから恋愛経験の話になった。
「新田はどうなんだ」
「いや、こいつはモテるでしょ」
「でも研究しかしてなさそうだよな」
「逆にそういうタイプが一番危ないんだって」
みんな笑った。
悪意は薄かった。
だから余計にたちが悪かった。
圭介も笑った。
その笑い方で、自分がまた負けたのが分かった。
帰り道、駅までの暗い坂を一人で歩いた。
春なのに風が冷たかった。
スマホには、学会関係の連絡と、共同研究の相談と、学生からの質問が入っていた。
誰かに必要とされていないわけではなかった。
だが、その必要はいつも機能に向けられていた。
説明できる人として必要。
研究できる人として必要。
便利な人として必要。
人として、ではない。
坂の途中で、自販機の前に立ち止まった。
缶コーヒーを買い、開けずに持ったまま、しばらく何も考えないようにした。
だが、頭の奥では別のことが動いていた。
努力は間違っていなかった。
努力しなければ、もっとひどかった。
もっと貧しく、もっと惨めで、もっと踏まれていただろう。
それでも、努力は救済ではなかった。
努力は、成果にはなる。
論文にもなる。
金にもなる。
評価にもなる。
だが、子どもの頃に身体へ沈んだ恥や、他人の目に対する恐怖や、「弱いと踏まれる」という確信までは変えなかった。
つまり、自分はずっと、努力で違う種類の穴を埋めようとしていたのだ。
そのことが、急に馬鹿らしくなった。
いや、馬鹿らしいというより、静かだった。
何か大きな真実が見えたときの静けさに近い。
方程式が解けるときの感じに少し似ていた。
ああ、そういうことか。
守備範囲が違ったのか。
それだけのことだったのか。
圭介は缶を開けた。
ぬるい甘さが口に残った。
駅前には川がある。
大きくはないが、夜になると水面だけが妙に黒い。
彼はその橋まで歩いた。終電はまだあったが、急ぐ理由はなかった。
橋の上で立ち止まり、欄干に手を置く。
風が少しあった。
水面はほとんど見えない。街灯の色だけが細く揺れている。
圭介は、ふと、父親のことを考えた。
憎いとは思わなかった。
父もまた壊れた人間だった。
自分と向き合えないほど弱く、他人の人生を想像できないほど空虚で、だからこそ家族を支配することでしか立っていられなかった人間。
被害者であり、加害者だった。
だが、理解したところで何も戻らない。
戻らないものは、本当に戻らない。
その当たり前の事実だけが、急に冷たく澄んだ。
彼は欄干を握った。
手のひらに少し汗がにじんでいた。
この瞬間でさえ、彼の頭のどこかは妙に明晰だった。
水位、足場、高さ、時間帯、人通り。
考えようと思えば、いくらでも考えられる。
そういう男だった。
それでも、あるところまで来ると、計算は意味を失う。
意味ではなく、感触になる。
これ以上先へ進んでも、戻っても、人生の本質は変わらない。
自分は研究を続けるだろう。
また論文を書く。
また評価される。
また雑談で空回りする。
また誰かに軽く見られる。
また家に帰って、空の部屋で一人になる。
それが延々と続くだけだという予感が、妙に具体的だった。
スマホが鳴った。
研究室の後輩からだった。
「今日の議論すごく勉強になりました。ありがとうございました」
圭介は画面を見て、すぐに消した。
ありがとう。
勉強になりました。
そういう言葉はもう十分持っていた。
多すぎるほど持っていた。
それらの言葉が、一度も自分の孤独の中心に触れなかったことまで含めて、よく知っていた。
橋の上を自転車が一台通った。
ベルも鳴らさず、彼の横をすり抜けていった。
その風で、手の中の缶が少し揺れた。
圭介は笑った。
小さく、乾いた笑いだった。
ここまで来ても、世界は劇的ではない。
誰も見ていない。
音楽も鳴らない。
特別な台詞もない。
ただ、よくできた人間が一人、うまくできなかった人生の前で立ち止まっているだけだった。
彼は缶を欄干の下に置いた。
両手を空けた。
そのあと彼がどうしたかを、橋は何も語らない。
川も語らない。
街灯の揺れだけが、変わらず水の上で細く崩れていた。
翌朝、その橋のたもとに、開けかけの甘い缶コーヒーだけが残っていた。
透明な檻 真島二郎 @Gertrudemian
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