3
デビル・ドレーン
原色のネオンサインが、雨上がりの水溜まりに乱反射して足元を毒々しく染め上げている。特区の夜は昼間の息詰まるような熱気をそのまま引き継ぎ、多種多様な種族が放つ体臭と、屋台から立ち昇るスパイスの香りをドロドロに煮詰めたような空気を纏っていた。
僕はリリーの歩幅に合わせてゆっくりと人混みを歩いていた。あの日、水族館の分厚いアクリルガラスの前で何かを吹っ切った彼女は僕の服の袖を強く握りしめることはもうなくなっていた。時折、珍しい屋台の食べ物や奇妙な魔族の姿を目で追いかけては、隣を歩く僕を振り返って小さく微笑む。
そろそろ帰ろうと大通りの交差点に差し掛かった時だった。
無秩序に鳴らされるクラクションと、客引きのがなり立てる声が響く雑踏の中で、僕と彼女の歩みが唐突に止まった。
目の前、人波がふっと途切れたわずかな空間に、ジャケットを羽織った大柄な影が立っていた。ケルンだった。いつもと違って、その立ち振る舞いはどこか堅かった。
彼女は鋭いジャッカルの瞳を真っ直ぐに僕の隣へと向けていた。獣人特有のピンと立った耳が、周囲の喧騒を拾い上げながらも、その視線だけは決して僕たちから外れることはない。
「ヨウ、ここで何してる?」
偶然の遭遇だった。本当に、ただバッタリと出くわしただけだ。ケルンの顔には一瞬の驚きが浮かび、それがすぐに刑事としての冷徹な確信へと変わっていくのが見て取れた。
時間が、完全に止まったように感じられた。
周囲を行き交う群衆の動きがスローモーションのように鈍り、耳をつんざくような街の騒音が、水底から響くように遠く、そして嫌に鮮明に聞こえる。心臓の鼓動だけが、不気味なほど大きく僕の耳膜を叩いていた。
ケルンが、ゆっくりと口を開いた。
「そっちはリリー、だな?」
低く、少し濁った声だった。警察にも出回り始めた手配書の写真と、あの日カフェで嗅いだ甘い匂いの記憶を、今、完全に一致させたのだ。
僕は否定も肯定もしなかった。横に立つリリーも息を呑んだまま硬直している。ここで下手な言い訳を口にすれば、それはただの自白に等しい。
冷や汗が背筋を滑り落ちるのを感じながら、僕は努めて平坦な声を作り出した。
「仕事中かい」
ケルンはジッと僕の顔を見つめ返し、それから小さく、本当に小さくため息をついた。
「悪いな、ヨウ。あと十秒もするとオレは応援を呼ばなきゃいけなくなる」
その言葉の意味を理解するのに、一秒もかからなかった。
彼女は警察の犬としての義務を果たす前に、カフェでの馴染みである僕に対して、ほんのわずかな猶予を与えてくれたのだ。捕まえる気がないわけではない。だが、即座に無線に手を伸ばし、市場で見かけたような黒服たちを引き寄せる真似はしなかった。
「走るよ」
「一応言っておくが、抵抗しないで大人しく捕まってくれ」
僕はリリーの手首を掴むと、ケルンに背を向け、雑踏の中へと強引に飛び込んだ。
「きゃっ……!」
リリーの短い悲鳴が上がるが、気を遣うような余裕を無くしていた。僕が先導して人混みを掻き分け、時には肩をぶつけながら、特区の夜の淵に向かって全力で駆け出した。
背後からケルンの怒声が響くことはなかった。だが、あのジャッカルの鼻が一度捉えた獲物の匂いをそう簡単に見失うはずがない。応援を呼ばれ、網を張られる前に、このエリアから完全に離脱しなければならない。
「ヨウさんっ、どこへ……!」
「こっちだ! 口を閉じてて!」
無茶をしている自覚はある。地下鉄の入り口へ通じる薄暗い階段が見えて、僕はリリーの手を引いたままそこへ雪崩れ込む。改札を強行突破するわけにはいかない。デビットカードを改札機に叩きつけるようにしてタッチし、構内へと滑り込む。
ちょうどホームに滑り込んできた車両のドアが開いた。吐き出される乗客たちの波に逆らうようにして、強引に車両の奥へと押し入る。
空気圧が抜ける大仰な音とうるさい警報音とともにドアが閉まり、車両が動き出した。
窓の外を、広告の大判印刷が線となって流れていく。僕は手すりに寄りかかり、荒い息を吐きながら周囲を窺った。今のところ、追っ手の姿はない。
リリーは僕の腕にすがりつくようにして、肩で息をしている。彼女の額には汗が浮かび、瞳にははっきりとした怯えが戻ってきていた。
「ごめんなさい……私の、せいで」
「次で降りてモノレールに乗り換えよう」
一つの交通機関に乗り続けるのは危険だ。防犯カメラの映像を追われれば、あっという間に行き先を特定される。車内にも設置されているが、混雑のお陰で人と魔族の間に紛れることはできそうだった。
たった一駅で地下鉄を降り、今度は地上高架を走るモノレールの駅へと向かう。長く急なエスカレーターを、下りてくる人波を縫って駆け上がり、改札口が見える場所まで来た時だった。
改札の前に、見覚えのある黒服のエージェントたちが立っていた。すでに網が張られている。
「ヤバっ。こっちこっち」
僕はリリーの肩を抱き寄せ、すぐに踵を返した。
「大丈夫?」
エスカレーターを下りながら、僕は周囲を警戒しつつ尋ねる。
「……はい。でも、あの獣人の方って、カフェによく来てた警察ですよね? どうしてすぐに捕まえなかったんでしょうか」
「最低限の情けだよ。僕たちが逃げ切れるなんて思っちゃいない。ただ、自分の手でいきなり首輪をかけるのを躊躇っただけだ」
地上に出ると、そこは旧市街のさらに奥深く、迷路のように入り組んだ路地が密集するエリアだった。
道端でたむろしているバイクタクシーの運転手たちの中から、見覚えのある顔を見つけ出した。以前、買い出しの荷物が多すぎた時に何度か使ったことのある、陽気なトカゲの獣人の男だ。
「おい、二台頼む! 乗せてくれ! 少しでも遠くへ!」
僕は手持ちの小額紙幣をまとめて彼と、その隣にいた仲間の胸元に押し付けながら怒鳴った。
トカゲの男たちは僕の切羽詰まった表情を見て、ニヤリと笑って顎をしゃくった。
「よっしゃ乗りな! 舌噛むなよ!」
リリーを別のバイクの後ろに乗せ、僕もトカゲの男の後ろにまたがる。エンジンが甲高い悲鳴を上げ、二台のバイクは猛烈な勢いで道路の本流へと飛び出した。僕が乗ったバイクを、リリーのバイクが追う形になる。
顔を殴りつけるような生ぬるい夜風とゴミ箱から漂う腐臭、そして無秩序に並ぶ屋台の灯りが視界の端を矢のように後ろへ流れていく。
警察と領事館の連中が手を組んでいるなら、特区内に安全な場所などない。流石に警察がサイレンを鳴らして追ってくれば彼らも止まらざるを得ない。行き先に悩んで思考を巡らせていた時、大通りの向こうに、僕が時たま小遣い稼ぎをしている五つ星ホテルの煌びやかな光が見えた。あそこの地下厨房なら、隠れられるかもしれない。
「なあ、あの一番でっかいホテルに向かってくれ!」
「あいよ!」
揺れる車体にしがみつきながら、僕はポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で通話アプリを開いた。
コール音は一回しか鳴らなかった。すぐに、無機質で平坦な声が耳に届く。
『はい、ニュート・カフェです。ヨウさん、通信プロトコルを確立しました』
「ロカちゃん、急ぎのオーダーだ。林檎とバナナのコンポートを作ってくれ!」
僕はエンジンの爆音に負けないよう、大声で怒鳴った。
『コンポートですね。オーダーを受理しました。レシピのパラメータを参照します』
「シナモンは絶対に入れるな! 抜いて作ってくれ!」
『レシピの例外処理ですね! シナモン要素をマイナスして調理します!』
ロカの融通の利かない、しかし絶対に指示を違えない正確さが、今はひどく頼もしかった。
「できたら鍋ごと、僕がバイトしてる五つ星ホテルの搬入口に運んでくれ。急ぐぞ!」
『了解しました。最短ルートを演算し、ただちに実行します』
通話が切れ、僕はスマートフォンを落とさないように握り続けた。
バイクタクシーは迷路じみた路地を右へ左へと強引に曲がり、ついに一際暗い裏通りの奥でブレーキを軋ませて停まった。
「ここから先は車両進入禁止だ。歩いて抜けな」
「助かったよ」
僕たちはバイクを降りて、背後を振り返った。幸いなことに追手の気配はない。特区の喧騒が遠く聞こえるだけの薄暗い路地で、僕は深く息を吐き出して荒れた呼吸を整えた。
隣を見ると、数秒遅れただけのリリーもまだ肩で息をしていたが、その瞳は怯えどころか奇妙なほどギラギラと輝いていた。
「大丈夫? 舌、噛まなかった?」
「は、はい……! すごかったです、風が……車と車の間をあんな風にすり抜けるなんて……!」
どうやら、ヘルメットも無しにゴールデンタイムの殺人的な渋滞を縫って爆走した初めてのバイクタクシー体験は彼女にとって恐怖よりも衝撃的なアトラクションだったらしい。完全にアドレナリンが出ている様子で、熱を帯びた頬を紅潮させている。
僕は彼女の興奮が冷めやらないうちに、再び手を引いた。
「ここからは歩きだ。まだ安心はできないから、少し急ごう」
僕たちは幾分か速いペースで進む。頭上を見上げれば、入り組んだ建物の隙間から目指す五つ星ホテルの威容が見え隠れしていた。不夜城のように煌びやかな外壁と、規則正しく並んだ客室の窓から漏れる暖かな光。特区の底辺を這いずるような暗がりの中で、それは絶対的な安全を約束する灯台のように僕の目に映っていた。
その光の羅列だけを頼りに、街灯の届かない薄暗い路地を強引に進んでいった。足元には得体の知れない水溜まりが残り、両脇には自由気ままにゴミ袋が積まれて落書きが散らばっている。
息が上がり、肺が焼けつくように痛む。リリーの足取りも目に見えて重くなっていた。彼女の手を引く僕の腕にも、鉛のような疲労が蓄積していく。
やがて、目の前に錆びたトタン板のバリケードと、無造作に積まれたプラスチックのパレットが見えてきた。その先には有刺鉄線が這う高いコンクリートの壁がそびえ立っている。
「……行き止まりだ」
僕は舌打ちをし、周囲を見渡した。逃げ込めるような開いたドアや、登れそうな非常階段はない。文字通り、袋小路に迷い込んでしまったのだ。
いくらこの街の空気に馴染んできたとはいえ、無秩序な廃屋群の路地裏にまで完璧な土地勘があるわけではない。ホテルの光へ直線的に向かおうとするあまり、建物の隙間を縫うような名もなき区画へと自ら迷い込んでしまっていたのだ。
戻るしかない。そう思って踵を返そうとした、その時だった。背後の暗がりから威圧感を伴った足音が響いた。
「だから言っただろ。オレの鼻からは逃げられねえって」
街灯の微かな光の縁に、ジャケットを脱いでシャツ姿のケルンが姿を現した。
彼女の後ろには警察官に混ざって領事館から派遣されたと思われる黒服のサキュバスたちが数人、出口を完全に塞ぐように立っている。あの市場で見かけたエージェントたちもいた。
ケルンの手にはグロックが握られていた。だが、銃口はだらしなく地面を向いている。撃つまでもない、という圧倒的な優位の証明だ。彼女のジャッカルの耳が、獲物を仕留めた満足感で微かにピクピクと動いている。
どれだけ逃げ回ろうと、国家権力と警察の包囲網を、一介の怠惰な埋没バックパッカーが突破できるはずがなかったのだ。
せめてリリーだけでも庇おう。そう思って僕が一歩前に出ようとしたが、背後から細い手がシャツの袖を強く掴んだ。
「ヨウさん」
鈴を転がすような、けれどどこか冷たい響きを持った声。
振り返る間もなくリリーが僕の横をすり抜け、ケルンたちの方へ一歩踏み出していた。
逃げ惑う箱入り娘の怯えはない。水族館の巨大な水槽の前で見せた静かで確かな「覚悟」の色が今はもっと鋭く、そして危険な光を放っていた。
「おいおい、大人しく捕まってくれるのか?」
ケルンが皮肉げに笑い、グロックをホルスターに収めた。黒服の夢魔たちも、無言のまま距離を詰めてくる。
その直後だった。
リリーが、ふうっと小さく息を吐き、目を閉じた。
そして、この特区の濁った空気を肺の底まで満たすように深く、貪欲な音を立てて息を吸い込んだ。
途端に、路地の空気がぐにゃりと歪んだ。僕の錯覚ではない。大気の密度が急激に変化したかのような、重苦しい圧迫感が全身を襲った。
そして次の瞬間には暴力的な甘い匂いが爆発的に膨れ上がり、物理的な重さを持つかのように路地を制圧した。
息が詰まったみたいだった。
甘すぎる香りが鼻腔から肺へと直接叩き込まれ、脳髄を麻痺させるような強烈な酩酊感が襲ってくる。
「なッ……これ……大食らい!?」
最初に異変を起こしたのは黒服たちだった。
同胞であるはずのサキュバスの彼女らが、突如としてガクガクと膝を震わせ、アスファルトに崩れ落ちた。エージェントたちが糸を切られた操り人形のように倒れ伏し、全員が滝みたいに冷や汗を流して虚ろな目で宙を掻いている。
「てめぇ、何しやがっ……くそ、力が、入らねぇ……っ!」
ケルンもまた、膝を突かないまでもコンクリートの壁に手をついて辛うじて立っている状態だった。その獰猛な獣人の顔は青ざめ、顎の端からはボタボタと涎が滴り落ちている。
僕もその効果の例外ではなかった。
手足の末端から急速に温度が失われ、目の前がチカチカと明滅する。激しい動悸と、胃袋を裏返されるような猛烈な飢餓感が全身を襲う。立っていることすら困難になり、僕は膝を折ってアスファルトに手をついた。
これは間違いなく重度の低血糖症状だ。
あの日、心地の悪いカフェで彼女が語った出来事の正体がやっと分かった。相手の精気を強制的に吸い尽くしてしまったという、夢魔族としての権能だ。
彼女は今、それを意図的に引き起こしたのだ。周辺にいる生物の『精気』という名のカロリーを、物理的に強制捕食したのだ。それも、接触すら伴わない、空間全体を巻き込むような広範囲のドレインだ。
「はぁっ……はぁっ……」
リリーも無事では無かった。荒い息を吐き、彼女はふらりとよろめいた。
莫大なエネルギーを一度に摂取した彼女の身体が、キャパオーバーを起こして悲鳴を上げているのだ。
僕は歯を食いしばり、震える手をポケットに突っ込んだ。
掴み出したのはいつか市場の片隅で買った安物のチョコレートバーだった。特区の息詰まるような気温と、先ほどから走り回っていた僕自身の体温に晒され続けたせいで、銀紙の中身は原形を留めないほどドロドロに溶け崩れていた。
噛み砕くことすらできない。僕は躊躇う余裕などなく、べたべたに張り付いた包装を破り開け、泥のように溶けきった甘い塊に直接舌を這わせた。指先にこびりついた分まで乱暴に舐め取り、強烈な砂糖の甘みを唾液ごと胃の奥へと流し込む。血中の糖分が少しでも戻るのを祈りながら、僕は最後の力を振り絞って立ち上がり、崩れ落ちそうになった彼女の細い肩を抱き留めた。
その瞬間、思わず手を離しそうになった。異常なほど熱かった。
出会ったあの夜のように、いや、それ以上に、莫大なエネルギーを過剰摂取した彼女の身体は限界を超えた高熱を発し、まるで燃え盛るストーブのようだった。
「ヨウさん……今の、うちに……」
熱に浮かされたリリーが、焦点の合わない瞳で僕を見上げ、艶やかな唇から熱い吐息を漏らす。
この異常な熱を、今すぐ物理的にでも冷まさないと彼女が焼き切れる。
僕は倒れ伏す追手たちの間を抜け、大通りへと続く方向を見据えた。ここから一番近く、絶対的な冷気も確保できる場所がある。
「……行こう」
僕はリリーの身体を半ば担ぎ上げるようにして、ホテルが立ち並ぶエリア、あの五つ星ホテルの地下厨房へと向かって、再び重い足を引きずりながら走り出した。
彼女が先ほど路地裏の空間全体から強制的に吸い上げた莫大な精気は純粋なエネルギーの塊となって彼女の体内を駆け巡り、相も変わらず致死的な高熱を放っている。服越しにも伝わってくるその熱量は低血糖で凍えきった僕の体力を容赦なく削り取っていった。
従業員用の通用口は残業をする者のために半開きになっていた。僕は警備員の目を盗み、コンクリート打ちっ放しの薄暗い通路へと転がり込んだ。
地下深くへと続く階段を下りる。一段踏み外せば二人もろとも骨折しかねない状況だったが、後ろから迫り来るジャッカルの鼻から逃れるために、一秒たりとも立ち止まるわけにはいかなかった。
重い鉄の防火扉を押し開けると、ディナータイムのピークを越え、しかし依然として熱気と様々な食材の匂いが入り混じる巨大な地下厨房の空気が押し寄せてきた。
「ヨウさん? あの、カフェの方がウチに……」
その一番手前、搬入口に最も近い火口の前に、場違いなフリルのメイド服を着た影が立っていた。スーシェフが傍らに立って、どうしたものかと悩んでいた。
「ヨウさん! 指定座標への到達を確認しました!」
ロカだった。一仕事を終えた彼女は満面の笑みで電子音のような元気な声で報告を上げた。彼女の目の前のコンロでは巨大なステンレス鍋が火にかけられ、林檎とバナナが甘い香りを立てて煮込まれ始めている。
「ロカちゃん、早いな……助かった。悪い、詳しい説明は後にさせてくれ」
僕は息も絶え絶えに答えながら、リリーを傍らのステンレスの作業台に寄りかからせた。
「オーダー通り、シナモン要素は完全にマイナスしてあります」
味覚も嗅覚もない彼女だが、計量と手順の正確さにおいては右に出る者はいない。鍋の中からは果物本来の甘酸っぱい匂いだけが純粋に立ち昇っていた。
「ありがとう。もう火はそのままでいい。ロカちゃんはすぐにニュート・カフェに戻って、自分の仕事に復帰してくれ」
僕は彼女の肩を押し、搬入口の方へと促した。ここに警察が踏み込んできた時、奇抜な格好のゴーレムの彼女が居合わせれば無関係な宿のオーナーにまで迷惑がかかる。料理の配膳も止まっているだろう。
「了解しました! カフェの防衛および接客モードに移行します!」
ロカはスカートの裾を軽くつまんで一礼すると、僕たちが逃げてきたのとは反対方向の、ロビーに出て行く地下通路を通って足早に去っていった。
彼女の背中が見えなくなった直後だった。
僕たちが先ほど通ってきた防火扉の向こうから、複数の乱暴な足音と何かを嗅ぎ回るような荒い息が聞こえてきた。間違いなくケルンだ。
「ヨウさん、足音が……」
作業台に伏せっていたリリーが、熱に浮かされた虚ろな瞳で扉の方を見遣る。
「大丈夫だ」
僕は厨房の奥へと視線を走らせた。この時間帯、多くのコックたちは片付けや翌日の仕込みに追われていた。壁際に巨大なラックがある。そこに並ぶ業務用のプラスチックボトルの一つに狙いを定め、僕は飛びついた。
中には粉末にした桂皮が詰め込まれている。
「リリー、目を瞑って息を止めて」
僕はボトルの大きな蓋をねじ開け、中身を直接リリーの頭上から容赦なく振り撒いた。
「んくっ……けほっ!」
リリーが微かにむせるが、構わず彼女の衣服、髪、そして僕自身の身体にもシナモンの粉末を叩きつける。さらに残った粉末を、厨房の床一面に円を描くようにぶちまけた。
換気の風に乗り、茶色い粉末が煙のように舞い上がる。
クスノキ科の樹皮から作られるシナモンは強烈な揮発香で他のあらゆる匂いをマスキングする。違法薬物の精製現場でササフラスの匂いを消すために使われるという、アレックスの受け売りの知識だ。これで、リリーの放つ甘い匂いはコンポートの香りと混じり合った上に、この爽やかなスパイスの香りの渦に完全に書き換えられたはずだ。
「こっちだ。足元に気を付けて」
僕は再びリリーを抱え込み、厨房のさらに奥、巨大な金属製の扉の前へと走った。僕は重いレバーを両手で引き下げ、分厚い扉をこじ開けた。中からマイナス二十度以下の、肺を凍らせるような強烈な冷気が白い霧となって噴き出してくる。
リリーを先に押し込み、僕も転がり込むようにして中へ入る。振り返ると、一連の異常事態に呆然と立ち尽くしているスーシェフと目が合った。
「閉めてくれ! 頼む!」
僕は扉の隙間から声を張り上げた。もし彼がこのまま警察に僕たちを引き渡すか、あるいは厄介払いとして永遠にこの極寒の密室に放置するつもりなら、僕たちは間違いなく明日には氷の彫像と化しているだろう。そんな背筋の凍るような猜疑心が脳裏を掠めたが、今は彼の元同業としての情に賭けるしかなかった。
彼は一瞬の躊躇いの後、小さく頷き、外から分厚い扉を力強く押し込んでくれた。ガチャン、という鈍い金属音が響き外界と隔絶される。
非常用の小さな青いLEDランプだけが、霜に覆われたラックと、山のように積まれた冷凍食材のシルエットを不気味に浮かび上がらせている。
最初の数分は意外と平気な気がした。ウォークイン冷凍庫で作業をすることはよくあったからだ。けれど時間が過ぎるにつれてファンが起こす風と共に容赦なく熱が奪われていく。
先ほどリリーのドレインに巻き込まれ、強制的にカロリーを奪われた僕の身体は完全にガス欠状態だった。舐め取ったエナジーバー一つでは追いつかない。低血糖で衰弱した肉体に、マイナス二十度の冷気がトドメを刺しにくる。
ガタガタと、自分でも制御できないほど激しい震えが全身を襲う。指先の感覚はとうに消え失せ、血液が泥のように重く冷たくなっていくのが分かった。心臓の鼓動だけが、生き急ぐようにやけにうるさく耳の奥で鳴っている。
寝てはいけない。もし横になったら、ステンレスに素肌が張り付いて肉を千切りでもしないと剥がれなくなる。分かっているのに、瞼が鉛のように重い。視界の端から黒い冷気が浸食し、意識が少しずつ遠のいていく。
「ヨウさん……!」
暗がりの中、僕を呼ぶ切羽詰まった声が響いた。
直後、崩れ落ちそうになった僕の身体を、柔らかく、そして火傷しそうなほど熱い何かが正面から力強く受け止めた。
リリーだった。彼女は僕の背中に腕を回し、薄いTシャツでは到底隠し切れないプロポーションを僕の胸元へと密着させてきた。生地越しにもはっきりと伝わってくる、女性らしい滑らかで圧倒的な質量のふくらみが押し当てられる。普段であれば理性が警鐘を鳴らすようなその重みすら、凍えきった僕の身体には命を繋ぐための強烈な熱源として感じられた。
彼女の身体からは先ほど奪い取った莫大な精気が熱となって放散され、周囲の極寒の空気を白く焦がしている。
むせ返るようなシナモンの香りの奥から、サキュバス特有の甘い匂いが微かに滲む。押し当てられた素肌の体温だけが、薄れゆく意識の中で唯一の確かな生の感触として僕を現実に引き留めていた。
「ごめん、リリー……少し、休む……」
自分の声が分厚い氷の底から響くように遠く聞こえた。唇が凍りつき、言葉がうまく紡げない。
「駄目です。目を開けてください」
耳元で囁かれた声は、凛としていた。彼女の熱い両手が僕の凍える頬を包み込み、強引に僕の顔を自分の方へと向けさせる。指先から伝わる熱が、凍傷寸前の僕の皮膚をジンジンと焼く。
「今まで守ってもらった分……今度は私がお返ししますから」
青い非常灯の光の中、リリーの顔が近づいてくる。
前髪の隙間から覗くオリーブ色の瞳が、慈愛に満ちた聖女のように、あるいは本能に忠実な肉食獣のように細められたかと思うと、彼女の熱を帯びた柔らかい唇が僕のひび割れそうな唇をそっと塞いだ。
「……ッ!?」
驚く暇もなかった。
彼女の舌が躊躇なく侵入し、僕の冷え切った口内をこじ開ける。同時に、焼けるような熱と、目眩がするほど濃厚で暴力的な甘さが、喉の奥へと直接流し込まれてきた。
それは比喩ではない。先ほど彼女が路地裏で周囲から吸い上げた精気、莫大な熱量を持った生命エネルギーそのものが文字通り口移しで僕の体内へと注ぎ込まれているのだ。
背筋を駆け上がる強烈な快感。全身の細胞が、歓喜のあまり暴れ出すような錯覚に陥る。凍りついていた血液が一瞬にして沸騰し、急速に身体の末端まで、指先の毛細血管の隅々に至るまで熱が巡っていくのが分かった。
息が詰まるほど深く、長い口づけだった。
それは官能的な行為というより、あまりにも切実で、生々しい命のやり取りだった。僕の肺が酸素を求め、彼女の口内から溢れ出す熱と甘い香りを貪るように吸い込む。僕の背中に回された彼女の手が、僕の体温を逃がさないようにと強くシャツを握りしめている。
やがて、ゆっくりと彼女の唇が離れた。
微かに引かれた銀色の糸が、極寒の空気の中で瞬時に凍りついて砕け散った。
「……ぷはっ……はぁっ……なんだ、それ」
僕は自分の唇を押さえた。心臓は破裂しそうなほど脈打っているが、寒さはもう全く感じない。それどころか、身体の奥底から有り余るほどの力が湧き上がってくるのを感じた。
リリーは自分の唇を指先でなぞりながら、熱を帯びた頬をわずかに赤らめ、女王のように艶然と微笑んだ。
「夢魔族のキスです。吸えるなら、戻せると思って……不味かったですか?」
「えっと……ずいぶん、その、甘かった」
僕が苦笑して答えると、彼女も安堵したように小さく笑い声を漏らした。
間もなくして分厚い金属の扉の向こう側、厨房のフロアから、複数の重い足音と、怒鳴り声が響いてきた。
『っべえ、へっくしゅん! なんだこの匂い……! 鼻が、バカになる……!』
壁越しでもはっきりと聞こえる、ケルンの派手なくしゃみだった。どうやらケルンはシナモンの防壁にまんまと引っかかり、厨房の入り口で足止めを食らっているらしい。
『おい! お前らどこに土足で踏み込んでる!』
続いて響いたのはスーシェフの怒声だった。普段の彼からは想像もつかないほどの血管が切れそうなほどの、本気の怒声だった。
『見ろ! 仕込み中のコンポートに、誰かが大量のシナモンをぶちまけやがって! これはアレルギー対応の特別ロットだったんだぞ!』
怒号が厨房に轟く。
『警察だか領事館だか知らんが、衛生管理をどうしてくれる! このコンポート一鍋でいくらすると思ってる! 営業補償、お前らのポケットマネーで払えるのか!』
『ち、ちがう、オレたちはただ……』
『言い訳はいい! 不潔な靴で厨房をうろつくな! 邪魔だ、今すぐ出て行け!』
完全に気圧されたケルンたちの足音が、後ずさりするように遠ざかっていく。
警察や国家権力を前にしても一歩も引かないその態度は明らかに過剰だった。彼は僕が搬入口から逃げ込んできて、シナモンを撒き散らしたことをすべて見ていたはずだ。それでも僕を売ることはせず、むしろ自らの厨房の威信を盾にして、僕たちを守るための演技をしてくれたのだ。
遠ざかる足音が完全に聞こえなくなり、厨房に再び仕込みの音とコックたちの日常的な声が戻ってくるまで、僕とリリーは暗闇の中でじっと息を潜めていた。
やがて、ガチャリと重い金属音が鳴り、冷凍庫の扉が開いた。
眩しい厨房の照明を背にして立っていたのは腕を組んで呆れ顔を浮かべたスーシェフだった。
「もう大丈夫です。警察の連中はブツブツ文句を言いながら引き揚げましたよ。まったく、うちの厨房を何だと思ってるんですか」
彼はため息をつきながら、僕たちに外へ出るよう顎でしゃくった。
「悪かった。あの時の恩はチャラってことで」
僕が肩をすくめて冷凍庫から這い出ると、リリーもその後ろから申し訳なさそうについてきた。
「ええ、とんでもない借りになっちまいました。床の清掃だけで一苦労ですよ」
スーシェフは口では文句を言いながらも、その目はどこか面白がっているように見えた。
「ほら、そこの隅の調理台を使ってください。身体、冷え切ってるでしょう」
彼が指差した先にはステンレスの小さな作業台があり、そこには湯気を立てる二つの深皿が置かれていた。
ロカが炊き続けていた林檎とバナナのコンポートだ。僕が撒き散らしたシナモンが表面を覆っていただけだったのか、あるいはスーシェフが機転を利かせて仕上げてくれたのかは分からない。だが、そのコンポートにはしっかりとシナモンの香りが馴染み、傍らには冷たいバニラアイスが添えられたデザートとして完成していた。
「温かいうちにどうぞ」
促され、僕とリリーはスツールに腰掛けた。震える手でスプーンを握り、コンポートを口に運ぶ。
煮込まれた果実の優しい甘さと、シナモンのスパイシーな香り。そこに溶け出す冷たいバニラアイスのコクが、冷え切った胃袋の底に染み渡っていく。
リリーの顔に、ほっとした安堵の色が広がった。彼女から先ほどの切羽詰まった緊張感が抜け落ち、年相応の柔らかな表情に戻っている。
ふと、隣から奇妙な笑い声が聞こえた。
いつの間にか、僕たちの隣に小柄な魔族の女性が座り、同じようにコンポートの皿をつついていた。コックコートの胸元にはエグゼクティブ・シェフの刺繍があしらわれている。特区でも有数の星付きレストランを束ねる総料理長だった。カエル族らしく、ウチのカフェのオーナーにも似た滑った肌に、料理のため肘まである黒いニトリル手袋を着けていた。
「派手にやったわねぇ。警察を追い払うなんて、うちのスーシェフもなかなか肝が据わってきたじゃない」
彼女はニヤニヤと笑いながら自分の皿のコンポートを見つめた。
「でも、このコンポート。バニラアイスもいいけど……タレッジョと合わせてもいいかもね。ちょっと待ってて」
彼女はスツールから飛び降りると、厨房の奥の冷蔵庫から薄いオレンジ色の皮を持ったウォッシュチーズの塊を取り出してきた。それをナイフで無造作に切り分け、自分のコンポートの上に乗せてパクリと試食する。
数秒咀嚼した後、彼女は顔をしかめて笑い出した。
「あはは! 駄目だ、やっぱりシナモンが邪魔でイマイチね! 果実の酸味とチーズのコクが、シナモンの揮発成分で全部死んじゃうわ」
「……良いチーズだな。ヴィーガン対応の自然派コンセプトを売りにしてる割りに」
長年の疑問を僕が突っ込むと、彼女は肩をすくめた。
「あんなの、流行ってるからやってるだけよ。私自身は肉食だもの。ホントはちゃんと生産者がトレースできる真っ当な食材なら、動物性だろうが何だろうが美味しく使いたいわ」
彼女はスプーンで溶けかけたアイスをつつきながら、どこか遠くを見るような、少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。
「でもね。世間から評価されることと、自分が本当にやりたいことが、必ず一致するとは限らないわ。星付きの看板を背負ってると、特にそう」
その言葉にリリーがハッと息を呑んだ。スプーンを持つ手を止め、カエル娘の横顔をじっと見つめている。
「だけど……」
シェフは顔を上げ、厨房の中で忙しく立ち働くコックたちをぐるりと見渡した。
「みんなの期待に応えるってのも、案外悪くないでしょ? 自分の仕事で、誰かが美味しいって喜んでくれるなら。やりたい皿じゃなくても、それで救われる人がいるならそれは良いメニューよ」
おおらかにケロケロと笑う彼女の言葉はリリーの抱える葛藤の核心を優しく撫でたようだった。
カエル娘は僕の方へ向き直り、ウインクをして見せた。
「君の噂はスーシェフから色々と聞いてるわよ。知識も腕も確かだってね。またうちの厨房で人手が足りない時はいつでもバイトに来てちょうだいな」
そう言うと、彼女は厨房の裏手へ回り、余ったパンや使いかけの高級な端材肉を紙袋に無造作に詰め込んで、僕の手に持たせてくれた。
「さあ、お姫様も。こんなむさい地下厨房にいつまでもいないで、早く帰って温かいシャワーでも浴びなさい」
「……はい。本当に、ありがとうございました」
リリーは深く、丁寧に頭を下げた。その顔に迷いはなかった。
僕たちはカエル娘とスーシェフに見送られながら、ホテルの裏口から再び特区の夜へと足を踏み出した。
追手の気配は影すらもうない。隣を歩くリリーの横顔を盗み見る。彼女は僕が持っている紙袋を不思議そうに覗き込み、それから僕と目が合うと、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「帰りましょう、ヨウさん。私たちの宿へ」
彼女のその言葉には終わりの予感が含まれていた。だが、それは決して悲劇的な結末ではない。彼女自身が、自分の足で自分の帰るべき場所へと向かうための、大切な儀式の始まりなのだ。
僕は短く頷き、彼女の少し前を歩き出した。夜風に吹かれるたび、髪の先から鼻を撫でるようなシナモンの香りが舞った。それは追っ手を撒くための欺瞞の残り香であり、僕たちが共有した甘すぎる熱の証でもあった。
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