オイスター・チャウダー
僕は深夜の静まり返った厨房を見渡し、業務用の巨大なコールドテーブルへ向かった。重いステンレスの扉を引き開けると、人工的な冷気と共に、雑多な食材の匂いが微かに鼻を掠める。
アレックスのオーダーは『クラムチャウダー』だった。彼女がかつてボストンにいたという過去を考えれば、求める味はトマトベースで赤く透き通ったマンハッタン風ではない。濃厚なクリームと牛乳をベースにし、じゃがいもや玉ねぎがゴロゴロと入った、白く温かいニューイングランド風のチャウダーだ。
しかし、ざっと庫内を見渡しても、肝心のアサリ、少なくともホンビノス貝やハマグリの類はどこにもストックされていなかった。この特区の市場でも手に入らないわけではないが、日持ちのしない二枚貝を客足の読めない厨房で献立の予定もないのに常備しているはずがなかった。
視線を奥へ巡らせると、氷温保存用のチルド室に、見慣れない発泡スチロールの箱が押し込まれているのを見つけた。蓋を開けると、砕いた氷の中に殻付きの大ぶりな牡蠣がいくつも並べられていた。いつからあるのか分からないが嗅いでみた感じは大丈夫だ。流水に当てて解凍を急ぐ。
同じ二枚貝のスープといえば聞こえはいいが、アサリと牡蠣では全く性質が異なる。アサリの出汁は繊細で上品だが、牡蠣は海のミルクと呼ばれるほど濃厚な旨味を持つ引き換えに、特有の強烈な磯の香りと、内臓部分に由来する強いエグ味がある。これをそのままクラムチャウダーのレシピに放り込んでクリームで煮込めば、牡蠣の臭いが乳製品の繊細な風味を完全に殺し、生臭さだけが際立つ最悪のスープが出来上がってしまう。
どうしたものか、僕は少しだけ目を閉じて記憶をたぐり寄せる。
牡蠣のえぐ味を抑え込み、かつクリームと調和させるには香ばしさという防御壁が必要だ。旨味の流出を防ぎつつ、表面のタンパク質を焦がすことでメイラード反応を起こし、あの磯臭さを食欲をそそる香りへと反転させる。手順さえ間違えなければ、アサリの代用品どころか、それ以上に野蛮で力強いチャウダーになるはずだ。
「ロカちゃん、いるかい」
振り返らずに声をかけると、厨房の隅でスリープモードに入っていたゴーレムのメイドが、微かな駆動音を立てて目を開けた。ガラスでできた瞳が青く瞬く。
「はい、ヨウさん! スタンバイ完了しています!」
「マクロモードだ。これからの手順を記録してくれ」
「了解しました。視覚・聴覚・温度センサー、記録を開始します」
ロカの瞳の奥で、無機質な赤い光が明滅を始める。味覚も嗅覚も持たない彼女にとって料理とは数値と手順のトレースでしかない。だから逆に言えば見せてしまえば、同じ材料が手に入る限りは際限なく量産できる。問題なのは完全に同じ材料を仕入れ続けることが不可能な点くらいだ。
僕はまずコンロに火を入れ、厚手のフライパンを熱した。そこに大さじ二杯の無塩バターを落とす。黄色い塊が一瞬で溶け崩れ、細かな泡と共にチリチリと甲高い音を立ててはぜる。芳醇な乳脂肪の香りが、薬品と汗の匂いがこびりついていたカフェの空気を一掃するように広がっていく。
粗塩で優しく揉み洗いしてぬめりを取った牡蠣のむき身に薄く小麦粉をはたく。余分な粉を丁寧に叩き落とし、バターが焦げる寸前のフライパンへ重ならないように並べ入れた。
油が跳ねると同時に激しい音が上がり、海産物特有の香りがバターの甘い匂いと激しくぶつかり合う。
裂けてしまうからむやみに動かさず、強火で一気に表面だけを焼き上げる。牡蠣の内部は半生のままでいい。小麦粉の衣がバターを吸い、きつね色をした糊の膜を作ることで旨味の詰まったジュースを内側に完全に閉じ込める。
両面に香ばしい焼き色がついたところで、牡蠣を手早くバットへ引き上げる。フライパンの底に牡蠣から滲み出たエキスと焦げたバターが茶色くこびりついている。普段なら、ここに白ワインを注いでうま味の籠もった焦げ目を削ぎ落とし、残さずソースに溶かし込むデグラッセを挟むところだ。だが、今回は白いチャウダーを作る。この強すぎる焦げ色をスープに移せば、見た目が濁って薄汚くなってしまう。
僕はフライパンに少量のブイヨンを張り、ごく軽くゆすぐ程度に留めて、その薄いエキスだけを別のボウルへ移した。色味に影響が出ない範囲で風味を掻っ攫っていく。
次に底の深い鍋を別の火口にかける。細かく刻んだベーコンを放り込み、弱火でじっくりと脂を引き出していく。動物性の燻製脂が溶け出し、鍋底に透明なプールを作ったところで、玉ねぎ、セロリ、じゃがいものみじん切りを一気に投入する。
木べらで鍋底を削るようにしながら、野菜にベーコンの脂をコーティングしていく。玉ねぎが透き通り、セロリの青臭さが消えるまで炒めたら、出来合いのチキンブイヨンと先ほどの牡蠣の薄いエキスを注ぎ込んだ。
そこに、香りの要となるハーブを入れる。フレッシュなものが理想だが、今の厨房にあるのは乾燥のローリエとタイムだけだ。僕は手のひらでドライハーブを軽く揉み砕き、香りを立たせてから鍋に放り込んだ。フタをして、じゃがいもの角が崩れるまで弱火で煮込む。
その間に、隣の小さなミルクパンでルーを作る。同量のバターと小麦粉を弱火で炒め、粉っぽさが消えてビスケットのような甘く香ばしい匂いが立つまで木べらで練り続ける。そこに常温の牛乳を少しずつ加え、ダマにならないようホイッパーで素早く撹拌していく。滑らかなベシャメルソースが出来上がった。
野菜が十分に柔らかくなった深鍋に、作ったばかりのルーを少しずつ溶かし込んでいく。スープにぽってりとした心地よいとろみがつき、透明だった液体が優しく温かな象牙色へと変わっていく。
火から下ろす直前、生クリームを回し入れて濃度とコクを微調整し、最後にバットで休ませていたソテー済みの牡蠣を、滲み出た肉汁ごと鍋に戻し入れた。
牡蠣の表面の香ばしい衣がスープに馴染んで、潮の旨味がクリームの海に静かに溶け出していく。塩と白胡椒で味を調えれば完成だ。
「記録完了しました」
背後で、ロカが誇らしげな電子音を鳴らした。
「ヨウさん、一つ質問があります。次回調理時、クラムとオイスター、どちらのパラメータをデフォルトに設定しますか?」
彼女の生真面目な問いに、僕は味見用の小さなスプーンをシンクに放り投げながら肩をすくめた。
「……どっちでもいいよ。その時、冷蔵庫にある方で作るから」
この言い方だと、たぶんダメなのは分かっている。アサリなんてむき身を焼いたらシナシナになってしまう。厨房の外のカウンターから不機嫌そうな声が飛んできた。
「おいポンコツ、そんなことより先に自分の舌に味見機能つけろ」
アレックスだった。
僕は苦笑し、深みのある白いボウル皿を三つ用意した。熱々のオイスター・チャウダーをたっぷりと注ぎ分け、仕上げにパセリの代わりに、彩りと香りのアクセントとして少量のパプリカパウダーを赤い点のように振る。
お盆に三つのボウルと銀色のスプーンを乗せ、厨房を出る。
カフェのフロアは先ほどの死神が通り過ぎたような重苦しい緊迫感からようやく解放され、気怠い日常の空気を取り戻しつつあった。
カウンターにはPCを閉じて頬杖をつくアレックスがおり、奥のソファ席ではシズの手当てを受けてようやく顔色に赤みが戻ってきたリリーが毛布にくるまって小さく震えていた。その隣でシズが支えていてくれた。
僕はそれぞれの前にボウルをことりと置いた。
湯気と共に、バターの芳醇な香りと、牡蠣の持つ野性味をクリームが優しく包み込んだ複雑な匂いが立ち上る。
まだ焦点が少しぼんやりしていたリリーの瞳が、スープの匂いに惹かれるようにすうっと見開かれた。彼女は震える手でスプーンを握り、恐る恐る白い液体をすくい上げる。
アレックスはボウルの中身を値踏みするように睨みつけてから、無言でスプーンを口に運んだ。
ごくりと、喉が鳴る音が聞こえた。
「……ふん」
アレックスは鼻を鳴らし、もう一口、今度はソテーされた大ぶりの牡蠣ごと口に放り込んだ。
その瞬間、彼女の頭の上でピンと張り詰めていたアライグマの丸い耳が、ふわりと力を失って垂れ下がった。怒りで逆立っていたように見えた茶色の縞模様の尻尾も、椅子の下でゆったりと穏やかな揺れを始めている。
「クラムじゃなくてオイスターか。気取ったアレンジしやがって……まあ、悪くねえ」
悪態をつきながらも、彼女のスプーンの動きは止まらない。表面を焼かれた牡蠣の香ばしさと、内側に閉じ込められていた濃厚な旨味が、彼女の予想していたチープな味覚を良い意味で裏切ったのだろう。
僕はカウンターの奥でシンクに溜まった洗い物に手をつけながら、無言で背中越しに彼女たちの様子を窺っていた。
ふと、アレックスの手が止まった。
彼女はソファ席の方へ視線を向けた。リリーがシズに背中をさすられながら、熱いチャウダーを一生懸命に啜っていた。冷え切った身体が芯から温められていく感覚に彼女はポロポロと大粒の涙を溢している。
その無防備で純粋な姿を見つめながら、アレックスは自嘲気味に口の端を歪めた。
「運が良かったな、お姫様。俺が初めてこいつを食った時はピカピカの銀のスプーンなんか添えられてなかったし、バターの匂いなんて微塵もしなかったぜ」
アレックスの言葉に、カフェの空気がふっと静まり返った。
洗い物をする僕の手も、自然と止まる。水の流れる音だけが、不自然なほど大きく響いていた。
アレックスは手元のスプーンで、白いスープの表面を意味もなくぐるぐるとかき混ぜ始めた。その視線はボウルの中を見つめているようで、もっとずっと遠くの、過去の暗闇を見透かしているようだった。
「頭の出来さえ良けりゃ、人間サマの最高学府でも上手くやれると思ってたんだ」
ぽつりと、乾いた声が落ちた。
「どんなに完璧な論文を書こうが、試験で満点を取ろうが関係ねえ。尻尾が生えてるってだけで、連中からすりゃ俺はただの生意気な的当てのマトだったのさ」
彼女の語る言葉には、悲壮感というよりは冷めきった諦観だけが漂っていた。
「……雪の降る、クソ寒いボストンの夜だ。酔っ払った人間のガキ共に裏通りで囲まれて、頭かち割られて、血みどろのまま路地裏のゴミ箱に放り込まれた。氷点下の暗がりの中で、指先の感覚が消えて、ああ、俺はここで凍え死ぬんだなって本気で思ったよ」
シズが煙草の煙を細く吐き出し、静かに目を伏せた。リリーもスプーンを持ったまま、息を呑んで彼女の横顔を見つめている。
「その時、俺がゴミの底を這いつくばって啜ったのが……どこかのダイナーが捨てた、底に転がってた残飯の冷え切ったチャウダーだよ。砂と、他のゴミの酸っぱい汁が混ざった、ゲロみてえな味のスープだ。けど、アレのおかげで、俺の身体はギリギリでカロリーを燃やして、朝まで保ったんだ」
アレックスはスプーンをボウルの縁にカチャリと当てた。
「あの薄汚いゴミ箱の中で、俺の真っ当な人生は綺麗サッパリ死んだ。それからはずっと泥の中だ。ヤバい橋を幾つも渡って、手を汚して……。逃げるようにこの特区に流れてきてからも、たまに考えてたよ。俺みたいに頭の出来だけが無駄に良い半端者が、なんでしぶとく息をしてるんだろうなってな」
彼女は言葉を切った。
そして、少しだけ顔を上げ、すっかり生気を取り戻してチャウダーを平らげようとしているリリーを見た。それから、その隣のシズ、厨房の隅で直立不動のロカ、最後に、洗い場に立つ僕へと、静かに視線を巡らせた。
「……けどな」
アレックスは小さく息を吐いた。
「あのまま賢いフリして、綺麗な世界に必死にしがみついてたら。今日、行き倒れのお姫様の鼻っ柱にクスリぶち込んで、止まりかけた心臓を叩き起こしてやることもできなかった」
彼女の目の下にある濃いクマが、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「それにたまには……悪くないメシにありつける。腐れ縁の、お節介な連中と一緒にな」
それは、この特区で生きる彼女なりの、最大限の現在地の肯定だった。
僕も、シズも、何も言わなかった。ただ、その不器用な告白を、深夜の気怠い空気と共に静かに受け止めていた。
直後、アレックスは自分が柄にもなく素直な心情を吐露してしまったことに気づいたのか、ハッとして耳まで赤く染めた。
耐えきれなくなった彼女はスープの残りを一気にかき込むと、乱暴にスプーンを置き、ガタッと大きな音を立ててスツールから立ち上がった。
「……チッ、なんだこのスープ。熱すぎて調子狂うぜ」
完全な照れ隠しだった。彼女は逃げるようにラップトップを脇に抱え、足早に出入り口へと向かう。
カラン、と間抜けなドアベルを鳴らし、彼女は振り返ることもなく特区の蒸し暑さが滲む夜の闇へと飛び出していった。残されたガラス張りの自動ドアが、緩慢な動作でゆっくりと閉まる。
シズがふっと笑い声を漏らした。
「素直じゃないねぇ、本当に」
ソファ席では口の周りに白いクリームをつけたリリーが空になったボウルを見つめながらぽつりと呟いた。
「すっごく美味しいです……」
その声には死の淵から生還した安堵と、温かい食事への純粋な感謝だけが詰まっていた。
僕は洗い物を終えた手をタオルで拭き、腰のサロンエプロンをゆっくりと外した。
ようやく、自分の分の少し冷めかけたチャウダーが入ったボウルを手に取り、カウンターの端に腰掛けて一口啜る。
濃厚な牡蠣の旨味と、それを包み込む優しいクリームの味が、冷めかけたことでより一層輪郭をくっきりとさせて口の中に広がった。ハーブの香りの奥に、ほんの少しだけ焦げたバターのほろ苦さが混ざっている。
狂騒と死の気配に満ちていた特区の夜が、一杯のスープと共に、静かに、そして確かに更けていくのを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます