第17話「送られなかった手紙」

ノートを開いたまま、瀬尾は事務所のデスクに座っていた。「未確定」の欄に並ぶ二つの名前。安西悟。橋本恵美。ペンを取ったが、書き足すものがなかった。


安西には動機がある。管理費の上乗せを見抜かれ、契約解除を迫られていた。セキュリティシステムの操作権限がある。住人用暗証番号にもアクセスできる立場。だがカメラのログは住人用暗証番号での停止であり、業務用コードではない。安西がわざわざ住人用で操作する理由が見えない。


恵美には——断片がある。カーテンの発言。睡眠薬のタイミング。葬儀での冷静さ。どれも状況証拠にすらなりにくい。


ペンを回そうとして、指先が滑った。机に落ちたペンを拾わなかった。


証拠が足りない。物証を増やすしかない。


橋本邸の書斎。事件後、警察の検証が終わった部屋。だが瀬尾が自分の目で見たのは駐車場と外周だけだった。書斎の中に、まだ確認していないものがあるかもしれない。


瀬尾は携帯電話を取り出し、恵美の番号を呼び出した。


三回のコールで出た。


「瀬尾です。お忙しいところ申し訳ありません。橋本さんの書斎を確認させていただきたいのですが」


受話器の向こうで、息が止まった。一秒。二秒。


「どうぞ。いつでもいらしてください」


恵美の声はいつも通りだった。


橋本邸の門扉を押したとき、指先に冷たい鉄の感触が残った。前回この家に来たのは恵美を訪ねたときだった。あの日は紅茶を出され、穏やかに応対され、廊下に家族写真が一枚もないことに気づいて帰った。恵美の目が笑っていないことにも。


玄関のチャイムを鳴らすと、恵美が出た。淡いグレーのカーディガンに、髪をきちんとまとめている。人を迎える準備ができていた。電話をしてから二時間しか経っていない。


「お忙しいところすみません」


「いいえ。こちらへ」


廊下を歩いた。壁には何もかかっていなかった。前回と同じだ。足音だけが壁に返る廊下を、恵美の背中について歩いた。


書斎のドアを恵美が開けた。中に入ると、空気が変わった。前回訪れたリビングとは違う、閉じた空気。日当たりは悪くないはずなのに、部屋の隅に埃が溜まっている。窓のカーテンは開かれていた。机の上は整理されて何もなく、書棚の本が並んだまま背表紙だけを見せていた。部屋の端に段ボール箱が三つ積まれている。


「遺品の整理を始めたところなんです」


恵美は書斎の入り口に立ったまま、中には入らなかった。瀬尾は振り返って恵美を見た。恵美の視線は部屋の中を避けていた。机を見ない。段ボール箱を見ない。入り口の柱のあたりに視線を置いている。


「お茶を淹れてきますね」


恵美の足音が廊下を遠ざかった。瀬尾は書斎に一人になった。


カーペットは新しかった。机の周囲だけ、色が違う。元のものは警察が持っていったのか、恵美が替えたのか。


瀬尾は書棚に目を走らせた。不動産関連の実務書が並んでいる。背表紙の文字を一冊ずつ読み、異質なものがないか確認した。書棚の下段に、革張りの手帳がいくつか年度順に並んでいた。手に取ったが、スケジュールの記録だけだった。打ち合わせの予定、物件名、時刻。橋本の几帳面な字が同じ大きさで並んでいる。


机に移った。引き出しは三段。上段は文房具。ペン立て、付箋、万年筆のインク瓶が一つ。中段はファイルが詰まっていた。管理会社との書類、不動産の契約書、請求書の控え。瀬尾は一枚ずつ確認したが、事件に直結するものは見つからなかった。セントラル管理との契約書が目に留まったが、内容は通常の管理委託契約だった。


下段の引き出しを開けた。名刺の箱、古い封筒、使いかけの便箋の束。束の下に、一枚だけ別の便箋が挟まっていた。折り目がなかった。封筒に入っていなかった。


手に取った。


万年筆の青いインクで書かれていた。


「恵美へ」


瀬尾の指が止まった。


「長い間、隠し通せると思っていた。だが、これ以上は無理だ。すべてを打ち明けなければならない。私がしてきたことを——」


文章はそこで途切れていた。最後の一画が、紙の上で右に流れて消えていた。書いている途中でペンを止めたのか、何かに中断されたのか。便箋の右端に、ごく小さなインクの滲みがあった。


廊下から恵美の足音が近づいた。


瀬尾は便箋を持ったまま、書斎の入り口を見た。恵美がトレイに紅茶のカップを二つ載せて入ってきた。恵美の視線が便箋に落ちた。


一瞬、足が止まった。止まって、動いた。


「お茶をどうぞ」


恵美はトレイを机の上に置いた。瀬尾は便箋を恵美の前に差し出した。


「引き出しの奥にありました。橋本さんの字ですか」


恵美は便箋を受け取った。右手で持ち、左手を添えた。目が文面を追った。「恵美へ」から始まる三行。恵美の顔は動かなかった。


「主人の字です」


恵美は便箋をテーブルに置いた。置く動作は静かだった。紅茶のカップを取り上げ、一口飲んだ。カップを受け皿に戻す音が、書斎に小さく響いた。


「知りませんでした。こんなものがあったなんて」


声は揺れなかった。


「橋本さんは何を打ち明けようとしていたのか、お心当たりはありますか」


恵美はカップを両手で包んだ。指先が白かった。紅茶の熱で温まるはずの指が、白いまま動かなかった。


「主人が何を書こうとしていたのか、私にはわかりません」


瀬尾は恵美の指先を見ていた。恵美はそれに気づいたのか、カップをテーブルに戻した。両手を膝の上に置いた。


「橋本さんが何かを隠していたという心当たりは」


「夫婦ですから、すべてを知っているわけではありませんよ」


恵美の声は穏やかだった。穏やかで、正しくて、何も掴めなかった。「普通の夫婦でした」と前回語ったときと同じ温度だった。


「お持ちになりますか」


「お借りしてもよろしいですか」


「どうぞ」


恵美の声には断る気配がなかった。瀬尾にはわからなかった。この女性がいつも穏やかなのか、穏やかであろうとしているのか。


便箋を透明なクリアファイルに入れ、鞄にしまった。紅茶は半分だけ飲んだ。恵美は玄関まで見送りに出た。


「またお伺いするかもしれません」


「いつでもどうぞ」


恵美はドアの前に立っていた。背筋が伸び、口元に笑みを浮かべていた。目は別のことをしていた。瀬尾の鞄を見ていた。便箋の入った鞄を。


帰りの電車は空いていた。窓の外を夕暮れの住宅街が流れていった。


瀬尾は鞄からクリアファイルを出し、便箋を見た。透明なフィルム越しに、青いインクの文字が読めた。


「長い間、隠し通せると思っていた。だが、これ以上は無理だ。すべてを打ち明けなければならない。私がしてきたことを——」


橋本が隠していたこと。千鶴に対するハラスメント。水谷に対するハラスメント。それだけではない。「私がしてきたことを」——その複数形が指すものの輪郭が、藤川と田辺の証言、水谷の「あの子も」という言葉と重なった。恵美に対して隠し通してきたそれらを、告白しようとしていた。


だが橋本は殺された。書きかけの手紙は引き出しの奥に押し込まれていた。


押し込まれていた。


瀬尾は窓の外から目を戻した。


便箋に折り目はなかった。封筒にも入っていなかった。書いている最中に机の上にあったものだ。それが引き出しの奥にあった。橋本自身が途中でやめて引き出しにしまったのか。それとも——。


事件の夜のタイムラインが頭の中に浮かんだ。二十二時に村瀬が訪問。二十二時四十分に村瀬が退出。二十三時十一分にセキュリティカメラが住人用暗証番号で停止。恵美は「十時頃に睡眠薬を飲んだ」と言った。


村瀬が去った後、橋本が書斎で手紙を書いていたとしたら。書いている途中で、何かが起きた。手紙は途中で途切れ、引き出しに押し込まれた。


誰が押し込んだのか。


橋本自身なら、書くのをやめただけだ。だが、最後の一画は紙の上で流れるように切れていた。自分で止めた筆跡には見えなかった。


瀬尾はクリアファイルを鞄に戻した。ノートを取り出し、タイムラインの横に「手紙」と書き加えた。その下に「宛先: 恵美」と書いた。


恵美は「知らなかった」と言った。カーテンの状態を「報道で見た」と言ったのと同じ声で。同じ穏やかさで。


瀬尾はペンを止めた。電車が駅に着き、ドアが開いた。冷たい空気が車内に流れ込んだ。


ノートを閉じる前に、もう一度タイムラインを見た。村瀬の退出から、カメラの停止まで。その間にあったはずの出来事。


橋本は死の直前、何を告白しようとしていたのか。


そして——書きかけの手紙を引き出しにしまったのは、誰か。

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