完全な自白

神田要

完全な自白

第1話「国選弁護人」

割当通知の封筒は、コーヒーの染みがついた書類の山に紛れていた。瀬尾真帆はそれを引き抜き、中身を確認した。橋本雄一郎殺害事件。被告人、村瀬健一。


事務所と呼ぶには気が引ける部屋だった。雑居ビルの三階、六畳半。窓の向こうに見えるのは隣のビルの非常階段で、午後になっても日が差さない。デスクの上には未整理の書類、飲みかけのペットボトル、三色ボールペンが二本。瀬尾はペンを一本取り上げ、指の間で回しながら事件資料を開いた。


国選弁護の割当は月に二件ほど回ってくる。独立二年目の事務所にとっては貴重な収入源だが、大半は量刑についての交渉が仕事になる。被告人が否認している事件は稀で、自白済みの案件がほとんどだ。今回もそうだろうと、資料に目を落とした。


被害者、橋本雄一郎。五十六歳。不動産会社社長。自宅書斎にて、頭部を鈍器で殴打され死亡。凶器はブロンズ像。瀬尾は資料をめくる手を緩めた。犯行推定時刻は午後十一時から午前零時。容疑者の村瀬健一は事件翌日に自首し、取調べにおいて犯行を全面的に自白。凶器から村瀬の指紋が検出されている。動機は個人的な怒り。犯行時刻の現場付近への存在も確認済み。


添付の現場写真に目を移した。広い書斎だった。壁一面の書棚、革張りの椅子、磨き込まれた木の机。写真の中の橋本雄一郎は机に突っ伏す形で倒れていて、その周囲に鑑識のマーカーが並んでいる。不動産会社の社長の書斎と、そこで死んだ男。瀬尾は写真を裏返しにして資料の下に重ね、調書の写しに目を通した。


村瀬の供述はこうだった。


『私は午後十時頃に橋本さんの自宅を訪れました。書斎に通されました。口論になり、書斎の机の右端に置かれていたブロンズ像を手に取り、橋本さんの後頭部を殴りました』


一読して、整いすぎていると感じた。容疑者の供述というのは、たいてい曖昧な部分がある。記憶違い、言い淀み、時系列の前後。それが人間の記憶というものだ。犯行から自首までの間に多少は整理されるとしても、限度がある。だが村瀬の調書には一切の迷いがなかった。凶器の名称、犯行の手順、被害者の倒れ方。すべてが明晰で、すべてが具体的だった。


瀬尾はペンを止め、調書をもう一度最初から読んだ。弁護の余地は、正直なところ見当たらない。物証、自白、動機。三つ揃っている事件で無罪を勝ち取った弁護士の話は聞いたことがない。情状酌量の方向で組み立てるのが現実的だろう。ペットボトルの水を一口飲み、面会の日程を確認した。


拘置所の面会室は、いつ来ても同じ匂いがする。洗剤と、古い建材と、それから微かに錆びた水道管のような何か。瀬尾はアクリル板の前のパイプ椅子に座り、資料を膝の上に置いた。


ドアが開いて、村瀬健一が入ってきた。


中肉中背、白髪交じりの短髪。目の下に隈があるが、背筋は伸びている。拘置所の灰色の服が、この男にはひどく似合わない。まるで間違って配られた制服を着ているように、どこか場違いだった。椅子に座る所作にも、染みついた几帳面さがあった。


「国選弁護人の瀬尾です。本日からよろしくお願いします」


「村瀬です。わざわざすみません」


声は低く、穏やかだった。拘置所にいる人間の声ではなかった。殺人の容疑者と初めて向き合うとき、こちらを値踏みするような視線を向ける者が多い。弁護士がどの程度使えるか見定めようとする。だが村瀬にはそうした気配がなかった。瀬尾は手元の調書に視線を落とし、質問を始めた。


「事件の経緯を、お聞かせいただけますか」


「ええ。午後十時頃、橋本さんの自宅を訪れました」


村瀬は語り始めた。調書と同じ内容が、同じ順序で、同じ精度で口から出てくる。凶器はブロンズ像。動機は個人的な怒り。書斎に通され、口論になり、机の右端に置かれていたブロンズ像を手に取った。アクリル板越しに聞く村瀬の声は抑揚が少なく、どこか朗読に似ていた。


瀬尾は途中で質問を挟んだ。


「書斎に入ったとき、橋本さんはどこにいましたか」


「机の前に座っていました」


「あなたはどこに立っていましたか」


「机の正面です。橋本さんと向かい合う形でした」


「口論の間、橋本さんは立ち上がりましたか」


「いいえ。座ったままでした」


淀みがない。考え込む素振りもない。瀬尾は意図的に時系列を前後させて質問した。


「ブロンズ像を手に取ったのは、橋本さんのどの発言がきっかけでしたか」


「あの人が——橋本さんが、私の話を聞く気がないとわかったときです」


「それは口論を始めてどのくらい後のことですか」


「十分ほどだったと思います」


「殴打の後、橋本さんはすぐに倒れましたか」


「はい。前のめりに、机に伏せるように」


瀬尾はペンを回す手を止めた。供述は完璧に一貫していた。質問の順序を変えても、表現の細部を変えて聞いても、村瀬の答えはぶれない。一字一句、同じだった。普通なら、繰り返し聞かれれば言い回しが変わる。思い出す順番が入れ替わる。だがこの男の供述には、そうした揺らぎがまったくなかった。


それだけではない。瀬尾が気になったのは、村瀬の語りから抜け落ちているものだった。


後悔がない。怯えがない。弁解がない。人を殺したと告白する人間が見せるはずの感情の色が、どこにもなかった。村瀬は自分が犯した殺人を、まるで他人の書いた報告書を読み上げるように語っていた。


「村瀬さん」


「はい」


「今のお話は、すべて本当のことですか」


村瀬は瀬尾の目を見た。視線は静かで、揺れなかった。


「ええ、その通りです」


その手が、膝の上で微かに動いたのを瀬尾は見た。右手の指が、一瞬だけ握り込まれ、すぐに開かれた。顔は動かない。声も変わらない。だがその右手だけが、別のことを語っていた。


瀬尾は視線を手元の資料に戻した。追及すべきかどうか迷い、やめた。今日は初回だ。信頼関係もなく詰め寄っても、壁が厚くなるだけだ。


面会の終了時間が近づいていた。瀬尾がファイルを閉じかけたとき、村瀬が口を開いた。


「先生、もう十分です」


抑揚のない、穏やかな声だった。瀬尾は顔を上げた。


「十分、というのは」


「お手間を取らせたくないのです。自白の通りですから」


瀬尾は何か言いかけて、やめた。代わりに書類をファイルに戻し、立ち上がった。


「また来ます」


村瀬は小さく頭を下げただけだった。面会室を出ると、蛍光灯の白い光が目に刺さった。廊下を歩きながら、瀬尾は村瀬の最後の言葉を反芻していた。「もう十分です」。自白した人間が、なぜ弁護人の仕事を止めようとするのか。


事務所に戻ったのは午後七時を過ぎていた。窓の外は暗く、隣のビルの非常階段に取り付けられた常夜灯がぼんやりと光っている。瀬尾はコートを椅子の背にかけ、デスクライトを点けた。


コンビニで買ったおにぎりを一つ食べ、ペットボトルの水で流し込む。梅干しの酸味が口に残った。


調書のコピーと現場写真をデスクの上に広げた。面会での違和感が消えなかった。供述は完璧だった。完璧すぎた。その「すぎた」が何を意味するのか、まだ言葉にできない。ただ、このまま情状酌量の方向で弁護を組み立てることに、どこかで抵抗があった。


村瀬は人を殺したと言った。証拠もそれを裏づけている。それなのに、あの面会室を出た後から、瀬尾の頭の中では同じ問いが繰り返されていた。あの男は、本当に人を殺した人間の顔をしていたか。


弁護方針はさておき、事実関係の確認は弁護人としての基本だ。瀬尾は三色ボールペンを手に取り、調書の記述を一つずつ現場写真と照合し始めた。


犯行場所——自宅書斎。写真には書斎の全景が写っている。重厚な書棚、革張りの椅子、大きな木の机。一致。


被害者の倒れた位置——机の前。写真では、橋本雄一郎が机に突っ伏す形で倒れている。一致。


机上の状態——書類が散乱。写真でも机の上に紙が散らばっている。一致。


凶器のブロンズ像。


調書にはこう記されている。『書斎の机の右端に置かれていたブロンズ像を手に取り』。瀬尾は現場写真に目を移した。書斎の机を写した写真。机の右端にブロンズ像はなかった。


別の写真を探した。机の全体を写したものがあった。ブロンズ像は机の左奥——本棚との境目あたりに横たわっている。右端ではない。


瀬尾はペンを置き、もう一度調書を読んだ。『机の右端に置かれていたブロンズ像を手に取り』。そして写真を見た。ブロンズ像は机の左奥にある。


殴打の衝撃でずれた、と考えることはできる。だが右端から左奥へ——約七十センチ。犯人が机の右端のブロンズ像を取って殴打したなら、手から離れたブロンズ像は被害者の近くに落ちるのが自然ではないか。本棚との境目まで移動しているのは、位置として不自然だ。


些細なことかもしれない。犯行時の動揺で投げた可能性もある。だが他のすべてが合致する中で、この一点だけが噛み合わない。


瀬尾は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯のカバーに虫の影が透けている。


村瀬の自白は精緻だった。犯行場所、動機、凶器、被害者の姿勢、口論の内容。それらが現場と正確に一致していることを、瀬尾は今しがた自分の目で確認した。だが「知っている」ことと「殺した」ことの間には、距離がある。


瀬尾は左手で右手首を掴んでいることに気づき、手を離した。調書を最初のページに戻す。村瀬の供述には、一切の矛盾がなかった。犯行場所も、動機も、被害者の倒れた位置も、机上の状態も。すべてが現場と合致していた。


この一点を除いて。


デスクライトの下で、現場写真のブロンズ像が机の左奥に横たわっている。右端ではなく、そこから七十センチほど離れた本棚との境目に。瀬尾はボールペンを取り上げ、調書の該当箇所に赤で線を引いた。

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