嘘つきと迷子の猫
音央とお
記憶を失くしたふりの彼
――『いぬのおまわりさん』の子猫ちゃんは、果たしてお家に帰れたのだろうか?
きっと、お母さんが迎えに来てくれたよね?
そんなことをふと考えてしまったのは、目の前に大きな迷子がいたからである。
「名前はわかりません」
「お家は?」
「わかりません」
「……あらまあ」
キャラメルみたいな髪色で、頬を腫らした男の子。
高校生であることは制服から分かるのだけど、どうやらこの怪我が悪影響しているようだ。
「警察……」とぽつりと呟けば、横にいた弟の
真麻の顔も血まみれだ。
「じゃあ、どうしよう? ……とりあえず、二人ともお風呂でも入ってくる?」
成り行きで真麻は家まで連れてきたけれど、知り合いではないらしい。
制服も違うから手がかりはなしだ。
「姉ちゃん、なんでそんなにのほほんとしてるの……」
「仕方がないわよ。こうしていても埒が明かないんだから」
「……そういうところ、大物だよね」
ちょうど湯船は溜まっていた。
湯加減もばっちりだ。
「……俺は後でいいです」
謎の少年がそう言うので、真麻が先に浴室へと消えていった。
それを見送りながら、着替えはあったかなと考える。
確か新品のTシャツとボクサーパンツがあったはず。
真麻の友達が突然遊びに来た時のために置いてあったものだ。
客間の押し入れかな?
「ちょっと待っていて」
そう告げたのに、少年は後ろをついてきた。
客間に足を踏み入れると、後ろ手に襖を閉められた。
「閉めなくてもいいのに」
「ゆっくり話がしたくて」
「……ふむ」
故意に作られた密室らしい。
さすがに男女が二人となると緊張する。
改めてじろじろと顔をのぞき込めば、女の子にモテそうな顔をしているかもしれない。
腫れのせいで崩れていてよく分からないけど。
「今夜、泊めてくれませんか?」
「いいよ」
「いいんだ……」
「だって、記憶喪失なんでしょう?」
自分で言い出しておいて、不思議そうな顔をしている。
一晩くらいなら面倒を見ても構わないと思った。
「はい、記憶喪失です」
そう認めた少年は、何かを思いついたように言った。
その表情は飄々としていた。
「付き合ってくれませんか、恋人として」
「なんで?」
「記憶喪失なので」
「……それは無理がある」
これは怪しい。
「記憶喪失って嘘なの?」
「今、無くなりました」
「えー」
「だから、お姉さんが面倒見てください」
首を傾げてあざといポーズを取られるけど、可愛くはなかった。
後ずさりしながら「やだよ」と返した。
「お姉さんに捨てられたら、行くところがないです。記憶喪失なので」
「大丈夫。君は図太そうだから生きていけるよ」
「いけません。お姉さんに懐いてしまったので」
「懐かれた記憶はない」
出会ってまだ数分だ。
怪訝な顔をして睨めば「その顔、好きです」と言われて、鳥肌が立つかと思った。
「名前も知らないような子とは付き合えません」
「
「年齢を知らないのもちょっと」
「17です」
「……」
素直なのか違うのかよく分からない。
襖はワタルくんの後ろにあるので、窓から飛び出すくらいしか逃げ道はない。
……仕方がない。
「私ね、こう見えて腕に自信はあるの」
「そうなんですね」
「君くらいなら、パンチ一発で倒せるの」
「試してみます?」
「……やめておく」
腕に自信があるのは本当だけど、底知れぬ少年が不気味すぎる。策は尽きてしまった。
「知らない相手と付き合いたいとかやめたほうがいいよ」
「どうして?」
「思っていたのと違うとかあるでしょ」
「大丈夫です。それはそれで面白そうなので」
駄目だ、埒が明かない。
こういうのが一番嫌い。
「警察を呼ぶわよ」
「俺は別にいいですけど。弟さんは大丈夫ですか?」
「……」
喧嘩がバレたら大ごとになる……そう言いたげだった。
真麻もまずいと言っていたもんね……。
「分かった、一晩だけね。泊める約束はしてたし」
「……チョロい」
「今すぐ追い出してもいいのよ?」
「お姉さんは聖女みたいに優しくて、女神みたいに美しいですね」
「ちょっと、その例えは意味がわからない」
ワタルくんの目が笑っていないことに気づいてしまう。
……この子、間合いの取り方や佇まいが普通じゃない。
「私も弟もか弱いの。暴れたりしないでね」
「……突然どうしたんですか?」
「ルールとして話しておいただけよ」
「一発で倒せるって言っていたのに」と突っ込まれたけど、無視をした。
「姉ちゃーん」と呼ぶ真麻の声に助けられ、とりあえず密室からは脱出できた。
後ろをついてこようとするワタルくんを浴室に押し込め、真麻の首根っこを掴んだ。
「……ちょっと、あの子なんなの?」
低い声を出せば、真麻はぎょっとした顔でこちらを見てきた。
「何かあった……?」
「別に。どういう経緯で連れてきたのか教えなさい」
説明を求めれば、ますます分からなかった。
「……つまり、真麻たちが敵対する他校の生徒と喧嘩をして、なぜか加勢してきてくれたってこと?」
「そうだよ。めちゃくちゃ強かったよ。一人で五人は倒してたかも」
「その割に、あの顔の傷は変じゃない?」
「……さあ? 怪我したから、家に連れて行けって言われてさぁ。俺も何がなにやら」
私は不満から唇を尖らせた。
「うちじゃなくて良かったのに」
「あの人が俺の家がいいって言うから……」
「今夜は泊めるけど、帰らないようだったら、元の場所に捨ててきてよね」
「……子猫みたいなことを」
「そんなかわいいものじゃないわよ、あれは」
やんちゃな男の子は、真麻の友達で慣れてはいるけど、ちょっと違うのよね……。
「夕飯の準備をするから、真麻はあの子とゲームでもしていなさい」
「ちょっと寝たいんだけど。すごく眠い」
「夕飯抜きにする?」
「……わかったよ」
救急箱を手渡し、手当てをしておくようにも命じた。
真麻が相手をしていれば近寄ってこないだろう。
音楽を流し、鼻歌を歌いながら、野菜を切っていく。
「何を作っているんですか?」
「じゃがいもが安かったらジャーマンポテトとシチューを……って、なんでそこにいるの!?」
すぐ側に立っていたので驚いた。
弟は何をしているのか。耳を澄ませば、いびきが聞こえてきた。
……どうやら、ワタルがお風呂から上がってくる前に寝落ちたようだ。あの役立たずめ!
「手伝いますよ」
「結構です」
「お姉さんと料理がしたいんです」
「私はしたくない。うろちょろされると邪魔なの」
追い払ったところでおとなしく引き下がる人間ではない。
ワタルは距離を開け、じっとこちらの動きを目で追っていた。
……見すぎ。
視線が強すぎて息が詰まる気分だった。
「お姉さん」
「何?」
急に話しかけてきたので、振り向かずに答えた。
「容姿端麗ってあなたのためにある言葉なんですね」
「……馬鹿なの?」
「立っているだけで魅惑的な女性に初めて会いました」
「……病院行ったほうがいいわよ」
「口説いている最中なので、そんな暇はないです」
口説いているつもりだったのか……。
「おいしそうですね」
「もうちょっと時間がかかるわよ」
「そうかも。早く食べてみたいな」
飢えたような声だった。
「そんなにお腹が空いているの?」
「はい。だから、楽しみです」
なぜか、背中がぞわっとした。
違和感に眉を寄せていると、ワタルくんは別の話を切り出した。
「お姉さん、喧嘩で記憶喪失ってあると思いますか?」
「ないわね」
つい先程、それは証明されたのできっぱりと言い切る。
「なんで言い切るんですか、そんなこと分からないじゃないですか」
「それはそうだけど、あなたは違った」
「……そうですね」
くすっと笑う気配がした。
「でも、俺は一度見たことがあるんです」
「え?」
「喧嘩で記憶をなくしてしまった人を」
一段低くなったトーンに、思わず振り返ってしまった。
ワタルくんは暗い目をしながら、こちらを見ていた。
まるで底の見えない深海のようだった。
「そう、なの?」
なぜだか分からないけれど、自分の声が震えていた。
「ええ。精神的なショックが大きかったのかも。……と、医者が言っていました」
「それは……よほど、つらい目にあったのね」
「かもしれません。その人はすべてを忘れて、何も知らない顔をして生きています」
妙に棘のある言い方だと感じた。
「別に思い出さなくていいと思うんですけど、俺は面白くないんですよね」
「え……?」
「覚えていないなら、また覚えさせてやりたい」
その言葉の強さに、持っていた菜箸を落としてしまった。
床の上に転がっていく。
「おっちょこちょいなんですね、可愛いところもあるんだ」
「ちょっと驚いただけよ。随分と乱暴な物言いだったから」
「そうかな?」
菜箸を拾おうと屈めば、横から手が伸びてきた。
節くれだったその指は菜箸を掴むのかと思えば、私の手首をきつく握りしめた。
「……っ!」
ミシミシと骨が軋むんじゃないかと思った。
「……やっぱり、簡単には思い出さないんだね」
「な、なにが」
「どうして忘れちゃったの。……
目を見開く。どうして、名前を……!
手を振りほどこうとしても、力には敵わなかった。
「ま、真麻……!」
眠っている弟の名前を叫べば、大きな手のひらが吸い取ってしまった。
「静かにしようよ、せっかく二人きりなんだから」
「……っ!!」
「どうせしばらく、起きないよ」
真麻に、何かしたの?
ここからでは姿が見えなかった。
「隙がありすぎだよ、水織は。それは昔からだけどさ」
「……」
「なんでそんなに怖がるの? 俺たちはそんな関係じゃなかったよね。……ああ、全部綺麗に忘れてしまったせいか」
鍋のお湯が吹きこぼれ、安全装置が火を消した。
それを一瞥した後に、ワタルは「なかなか出来ないね」と笑った。
その笑顔の意味が分からない。
「いつまでお預けする気なのかな。こっちは腹ペコなのに」
舌で唇を嘗め、ワタルは顔を近づけてきた。
鼻と鼻が触れ合うほどの距離に、私は後ずさりをしようとするけど無理だった。
「無理矢理思い出させても、また忘れちゃうのかな?」
何をするというのか。
未知の恐怖に全身が震え、呼吸が苦しくなってくる。
「まあ、いいか。どうせなら、全部忘れてしまえばいいね。名前も家も何もかも」
「……」
「そうしたら、俺が連れて帰ってあげるね」
しょうがないよね、お家が分からないなら。
……そう耳元で囁かれた。
「いっぱい泣いてね。困らせてもいいからね。……だって、俺たちは恋人だったんだから」
この人は何を言っているの……?
そんなこと知らない。私は記憶喪失なんかじゃない!
知らない知らない知らない……!
「もっとも、関係が深まる前に記憶をなくしてしまったんだけど。水織も辛かったよね?」
知らない知らない……!
「大丈夫だよ。辛かったことも全て無かったことにしてあげるから」
知らないのに……。
じんわりと涙が浮かぶ。
「……水織」
ワタルはぴたりと口を閉じた。
そして、動きを封じられていた腕が自由になった。
「……な、なんで……」と、開放された口から疑問がこぼれる。
いきなり、どうして?
困ったように眉を下げたワタルは、顔の前で手を合わせた。
「すみません、ちょっと怖がらせるつもりが変なスイッチが入ってしまいました」
「へ?」
「お姉さんがすごく可愛いのに無防備すぎるから。警戒心を持ってほしいなと……」
「はあ?」
怒りのあまり、目の間にあった胸に拳を突いた。
まだ震えていたせいで、ろくに力は入らなかった。
「駄目ですよ、全然一発で倒せてないじゃないですか」
「それは、あなたのせいで!」
何なの、この男!
「なんでこんなこと。どこまで本当なの?」
「ちょっとした冗談です」
「ちょ……? 名前までどうして知っていたの」
「それは、机の上に郵便物を見つけたので」
「……」
全部、嘘?
……そうよ、私が記憶喪失なんてそんなわけがない。
この男が恋人だったなんて、嘘よ。
だって何も知らない。
「本当に泣かせるつもりはなくて」
「捕まれた腕が痛かった。怖かった!」
「ごめんなさい。……でも、懲りたでしょう?」
どうだ!という表情に、もう一発殴ってやろうかと思った。
「そうね。二度とあなたみたいな男とは口を利かないわ」
「そうしてください。俺は例外で」
「い・や・よ!」
今すぐ出ていって欲しかった。
けれど、不思議とそれをしようと思えなかった。
「やりすぎたなぁ」と苦笑するその顔に、なぜか既視感を覚えたから。
「本当に嘘なの?」
「そうですよ」
「私たちは初対面よね?」
なぜか、胸の奥がざらついた。
「そうですよ」
否定されることが当たり前なのに、既視感が消えない。
こんなやり取りを、どこかでしたことがある……?
そんなモヤモヤは憎らしい男の満面の笑みで吹き飛んだ。
「騙されやすくて心配になります」
「よくも抜く抜けと!」
今度こそ本気で腹を殴れば、ワタルはうめき声を上げて倒れた。
「……強いのよ、私は」
「まいったなぁ……。しばらく動けないかも」
苦悶する男を放って、私は鍋の火をつけ直した。
夕飯の準備も邪魔されたし、最悪!
乱暴にお玉をかき混ぜていた私は気付かなかった。
ワタルは目を細め、小さく息を吐く。
「……本当に心配になるよ、水織」
嘘つきと迷子の猫 音央とお @if0202
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