こと、物書きを志したり実際に書いている人なら、一度くらいはこの思考の渦に踏み入ったことがあるだろう。
自身は他者によって自身たらしめられる。
その為、生まれの容姿の美醜に関わらず、今よりも平均点に近づけようと人は時間を費やしお金を注ぎ込み、それを整えようとする。整えすぎるとそれはもはや原型を留めない領域までも可能にする時代だ。SNSを介せば更にそれは現実を拡張し、在りもしない事実でさえも本当のように世に放つことができる。
厨二病というが現在使われているそれは本来の意味からはすでに変質している。この作中で使われているものは、その変質する前の本来の意味に近いものだ。すなわち、伊集之院二差ス光リが最初に定義した、誰もが一度は通る道、そして知らずのうちに消えてなくなる病。みんなで笑う類のものではなくそれは静かで深く、かなりの痛みを伴うもの。
なるほど、物書きというのは多かれ少なかれこれを引きずっているような気がする。
さて、美容院に行って少しでも他者から見た自分の体裁を整えたなら、それは世間様への勤めを果たしたことでもあるだろう。少なくとも、行かないよりは行ったほうがいいに決まっている。
世はAIを使うのはけしからんと云うが、それは美容院に行くのとあまり違わないかもしれない。いや、自分の顔で勝負するべきであって複製の模造品の顔や覆面を着けるような使い方は止しなさい、という意味かもしれんが、それでもAIは文章の美容院にはなりうるかもしれない。しかし、いくら整えたところで「地の自分」が透けて見えるのもまた見た目というもの。いくら格好をつけたところで、ある程度以上の人間にはそれは見透かされるものだ。
虚飾と虚勢にまみれているという向きもあろうが、しかしそれだけとも言い切れない。少なくとも、ある瞬間は剥き身の……生身の人間がそこにいたような気がする。この生の手触りだけは誤魔化しが利かない。本当のことを書いていないと云うが、果たしてそれは本当だろうか。
これは個人的な意見なんですが、エッセイって相当むつかしいと思うのです。自らの過去を詳らかにし、面白おかしくこの世に残す作業。思うに、人間は対外的にカッコつけたいものですから、話を盛ってしまったり、誇張したり、事実と異なる点がこっそり混ぜ込まれているものなのではなかろうか。真実の中に嘘を一ミリグラム混ぜると見えなくなるように、この世にあるエッセイというものは赤裸々なようでいて真っ赤な嘘でもある。と、懐疑的なわたしは訝しんでしまうのであります。
その点こちらの似非エッセイは、真っ直ぐに“嘘”であると主張しています。嘘に対して誠実な姿勢ですね。むしろ嘘を書いているということ自体が嘘であり、嘘であると看板に書いておくことによって本当を隠しているのではないでしょうか。木を隠すなら森の中とも言います。雑木林の中に金のなる木があるのやもしれません。つまりは“嘘”をついているというのは照れ隠しであって、この作品の登場人物は実のところ本当のことしか言っていないのでは? 虚構の中に自己投影されたアナザーの姿なのでは?
……なんて深いことを考えてしまいました。嘘です。ぜんぜん深くないですね。