第2話 吉原闇に咲く復讐

1.幽霊の告白


 ぴちゃり、と重く粘りつくような水の音がした。


 吉原のきらびやかな表通りから外れた、湿った風が吹き抜ける裏路地。そこにある蓮次の住処は、常に古びた紙と使い古された墨の、乾いた匂いに満ちている。


 だが今、その静謐を汚すように、畳の上へ本来そこにあるはずのない黒い水溜まりが広がっていた。


「……助けて、ください……」


 女――お園は、膝をついたまま微動だにしない。


 びっしょりと濡れた、蛇が美しく描かれた振袖からは、吉原の負の遺産であるお歯黒ドブのヘドロと、死臭の混じった生臭い匂いが立ち上っている。それは、華やかな白粉の香りとは対極にある、逃れようのない「終わってしまった命」の臭いだった。


「……助けて、か。俺は医者じゃねえ。ただの、ろくでなしの絵師だぜ?」


 蓮次は、背負っていた画道具を、いつもの猫背を丸めながら畳に置いた。


 しかし、筆を手にした瞬間、彼の背筋がスッと一本の糸で吊られたように伸びる。陽の光を避けて生きる「根暗な男」の気配は霧散し、代わって、濡れたような色気と底知れぬ凄みを纏った「幽霊絵師」がそこに現れた。


「だが……十五か。咲ききる前に散らされた無念、ただの水に流しちまうには惜しい。その白い肌に、呪いよりも深い『紅』を差してやろうじゃないか」


 蓮次は迷いなくお園の側へ歩み寄ると、その顎を筆の柄でくいと持ち上げた。お園の瞳は濁り、絶望の色に深く沈んでいる。蓮次は空いた左手で、お園の濡れた鎖骨のあたりを、吸い付くような手つきでなぞった。


「ひっ……、あ……っ」


 幽霊であるはずのお園の喉から、熱を帯びた吐息が漏れる。蓮次の指先が触れるたび、死白の肌に、男の力任せな指の跡が赤黒く浮かび上がってきた。


「……ほう。心中なんて小綺麗な言葉で飾られてるが、これぁ、ただの『拒絶』の跡だ。お前さんを奈落へ突き落とした奴は、今もどこかで春を謳歌してやがるんだな」



2.日向屋の調査


 翌朝。蓮次は重い足取りで呉服問屋『日向屋』の暖簾をくぐった。昔から吉原と付き合いのある問屋だ。

 筆を置いた彼は、再び元の、陽の光を嫌う日陰者の顔に戻っている。


「蓮次さん! 朝っぱらから、また幽霊でもみちまったのかい?」


「…ああ、昨晩お園の幽霊が、酷く錯乱してなかなか描けなくてねぇ………助けてやらねぇと」


「あら本当に見たんだね。そしてその幽霊がお園ちゃん、、可哀想に、成仏できてないんだね」


 日和は幼い頃から店主である親父の後について吉原に出入りしているため、噂話はよく耳にしているようだ。また、根っから明るい性格であるため顔が広い。お園とも顔馴染みのようだった。


 世話好きの日和は蓮次の崩れた着物の襟元を直そうとした。だが、その指先が、蓮次の袖に残る「お園の水の跡」に触れて、ぴたりと止まった。


(……冷たい。この人はいつも、私の届かないところにいる)


 氷のような冷たさに、日和は胸の奥で疼くような痛みを感じる。


(昨晩お園ちゃんとなにしてたんだい、蓮次さん)


 声に出したらいくら楽だろう。でも、その言葉は心の奥底へとしまった。自分の醜い嫉妬を悟られたくなかったのだ。


 日和は帳面を広げた。


「お園ちゃんがお歯黒ドブから引き上げられたのは三日前。玉屋の若い衆と心中だって言われてるけど……。水揚げの直前に心中したんだってねぇ。身につけていた着物は、うちで仕上げたものなの」


ほらこれ、と帳面を指差す。

支払いは玉屋の楼主となっている。駆け出しの遊女にはよくあることだった。


「…不自然なことはないか、なにか手掛かりがないかとおもったんだが…」


 蓮次は猫背の背中をさらに丸くした。


「なにか、ねぇ。あ!そういえば、葬いにと玉屋が支払いに使ったのはこれよ。封印されたままの古金。…普通の商人が持てるものじゃない。よほど大きな力が動いているみたいに見える」


「…大きな力……濡れた蛇柄の振袖…」


「蛇柄の振袖……!」


 ボソッと蓮次が言ったのを日和は聞き逃さなかった。日和は捲し立てるように話す。


「蛇柄って言ったかい!その振袖はうちで扱っていたものよ! たいそう珍しいんで、よく覚えていたの。お園ちゃんにそれを贈ったのは――特注の品で、世の中に二つとない代物のはず。でもおかしいねぇ、遺体が身につけていたのは蝶柄だったはず」


 二人の会話を、廊下を通りかかった日和の父が、開いた襖の隙間から見つめていた。その目は、憐れみとも、あるいは拭い去れぬ後悔とも取れる色を孕んでいる。


「……蓮次。あまり深入りするな。お前の描き方は、つくづくあの人に似てきた」

 父の言葉に、蓮次は答えず、ただ懐の筆を握りしめた。


3.暗き水揚げと墨の告発


 蓮次は自室に戻り、硯に向かった。

 

 ――記憶が墨の匂いと共に呼び覚まされる。


 数日前の玉屋の座敷。お園の「水揚げ」が行われていた。相手は馴染みの老旦那。


 老旦那は湯水のように金を使い、美しいお園のために世にも珍しい蛇柄の振袖を作らせた。悲劇の多い吉原では珍しく幸せな水揚げになるはずだった。


 お園はその振袖を纏う。目鼻立ちのはっきりとした少女にそれはよく似合っていた。まだあどけなさが残る少女は妖艶な女に変化を遂げている。


 何十人の遊女と遊んできた老旦那だが、思わずゴクリと唾を飲み込むほど美しかった。


 老旦那は早速、枯れ木のような指でお園から身につけたばかりの振袖をゆるゆると脱がせていく。慣れた手つきでお園の初めてを優しく手解きしてくれると皆が思っていた。


 手解き中盤に差し掛かると老旦那は豹変した。少女の細い手足を縛り上げ、至る所にアザを拵え、首を締め上げた。老旦那には加虐趣味があったのだ。


 恐怖に震えるお園。幾度も幾度も抵抗したが、その姿がかえって老旦那を掻き立ててしまう。


「…やめ、て、…だれ、か、たすけ、、て…」


 お園の声は誰にも届かなかった。十五歳の少女の命が尽きるのは、あまりに早かった。

 

 慌てたのは楼主だ。金払いの良い老旦那を失うわけにはいかない。


「旦那、ご安心なさい。これは『不運な心中』ですよ」


 楼主は冷酷に言い放つと、身寄りのない若い衆を殺し、死体を用意させた。そして、お園が着ていたあの「蛇柄の振袖」を、証拠隠滅のために庭で焼き捨てさせた。心中を装った死体をドブへ捨て、記録も記憶も灰にしたはずだった。


 蓮次は目を開いた。


 手元の紙には、お園が流した涙と泥水が混じり合ったような、禍々しい墨の跡。


「……灰にしたつもりだろうが、執念ってなぁ燃えねえんだよ」



4.もののけの変貌と血の清算


 その夜。蓮次は吉原の屋敷の屋根裏に潜んでいた。


「いやぁ、うまくいきましたな!噂では水揚げ前に間夫と心中、可哀想なのは水揚げ代払ったのにお釈迦になった旦那ってことになってますで」


階下で老旦那と楼主が、祝杯を挙げながら意地汚く笑う声が聞こえた。


「……さて。地獄の幕を開けようじゃないか」


 蓮次は自らの指先を噛み切り、墨の海へ血を落とした。ずさささぁぁぁーと一気に描き上げ、筆を硯に下ろした瞬間、部屋の空気がキーンと凍りつく。蓮次は屋根裏から音もなく飛び降り、老人たちの眼前に「それ」を突きつけた。


 墨で描かれた、蛇柄の振袖。そして日向屋の記帳の写し。


 ただの絵ではない。そこからは生々しいドブの臭いとお園の怨嗟が立ち上っている。


「な、……な、なぜそれを知っている! それは焼いたはずだ! お園と共に、灰にしたはずだぞ!」


 老旦那が腰を抜かし、泡を吹いて這いずり回る。追い打ちをかけるように蓮次の絵は動き出し、振袖の蛇たちがニョロニョロと老人たち目掛けて襲いかかる。


「…お園なのかっ?!…私たちが悪かった!!許してくれっ!!!」


 生まれて初めて眼にする怪奇に慄き、お園への謝罪を繰り返す老人たちを蓮次は冷めた目で見下ろした。


「証拠はちっと乏しいが、充分怖がっているから自供するだろ」


 傍らに立つお園の幽霊を顧みる。お園は、かつて自分を愛でるふりをして殺した男の醜態を、音もなく見つめていた。


「これでお役所に突き出せば、こいつらも裁かれるだろう。……どうだい、お園。これで少しはすっきりしたかい?」


 問いかけに、お園は俯き、震える拳を握りしめる。彼女を包む空気は、裁きなどという生温い言葉では収まらぬほどに黒く、濁っていた。やがて、彼女はゆっくりと首を横に振り、顔を上げた。その瞳は、もはや人間のそれではない。


「…お前はどうしたい」


「……もののけになってでも、あいつらを……殺したい……!」


「――いい面だ。なら、その執念、俺が筆で裏書きしてやる」


 蓮次がお園の額に筆先を当てた瞬間、彼女の白い肌がパキパキと音を立てて裂け、中から「もののけ」の牙が覗く。端正だった顔は異様さで盛り上がり、胴は長く伸び始め大蛇のようにうねり始めた。


 口元から出た復讐の炎の赤い舌は品定めするかのように老人たちへ向けられた。


「お願いだ!!金なら払う!!助けてくれっっ!」


「残念だがぁ、もののけになっちまった魂には何も聞こえねぇよ」


 蓮次が他人事のように言い放つ。同時に化け物と化したお園が、老人たちへとついに飛びかかった。


 悲鳴が響き渡り、熱い鮮血が壁一面を紅に染め上げる。蓮次は、その凄惨な光景をただ静かに、瞳に焼き付けていた。


 返り血を浴びながら、蓮次は頬を伝う血を指で拭い、ゆっくりと舌で舐めとった。


「……鉄の味がする。吉原の春にゃ、ちょうどいい口直しだ」


 ふと、開いた障子の先に、夜食の重箱を抱えて立ち尽くす日和の姿があった。

 彼女は、返り血に濡れた蓮次の、恐ろしくも神々しいまでに美しい微笑みから目を逸らすことができなかった。


「……蓮次、さん……?」


 その問いに、蓮次は答えなかった。

 筆を離した彼の背筋は、再び力なく丸まり、いつもの「根暗な蓮次」へと戻っていく。


 夜明け前の青白い光の中で、真相を覆い隠す深い闇と、三人の歪な影だけが畳に残されていた。

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