第2話

 

「……これがビジネスの現実か」


 画面に映る炎上コメントを見て、真由は、胸の奥に沈んだ言葉を噛みしめた。

 灰色の高層ビルがひしめくビジネス街。高級ブランドのヒールで、濁った水たまりを避ける。スマホを握る指先だけが冷たく震えている。


  かつて自分のチームが手がけた再開発エリアのPR動画が、無惨に炎上していた。

《情緒的なポエムで人を釣るな。ビジネスの基本もできていない》


 短いコメント。だが鋭利だった。


 五年前、私は「本気」だった。

 この街に新しい息吹を吹き込もうと、寝る間も惜しんで企画を練った。

 だが、顔も知らない誰かが放った「偽善」という一言が、雪崩のように彼女のキャリアを押し潰した。


 あの日、私は決めた。

 二度と「本気」なんて見せない。

 心に透明な防弾ガラスを張り巡らせ、誰よりも早く、誰よりも鋭く、他人の夢を冷笑する側に回ると。


 それが、この剥き出しの都市で生き残る唯一の術だと信じて。

 透明な防弾ガラスに、初めて細いひびが入った気がした。

 そのひびを見ないように、足の向くまま路地裏へと逃げ込んだ。


「……不潔な店。営業許可、取っているのかしら」


 逃げるように足を踏み入れた再開発エリアの片隅。

 カビと古い砂糖が混ざり合う、湿っぽく重い空気が漂っていた。「駄菓子屋トキコ」の暖簾を、高価なパフュームの香りで塗りつぶすように潜った。


 老婆のトキコは、真由のスマホを石ころのように眺め、鉄瓶から湯を注いだ。


「……あんた、いい香水だねぇ」


 湯気の向こうから、トキコの濁った瞳が真由を射抜く。


「でもね、その奥にまだ残っているよ。あの日の匂いが」


 ひゅっと自分の呼吸が止まる。


「笑うたびに、この店に安っぽい床ワックスの匂いが充満するのだよ。……惨めな匂いだねぇ」


 視界が、一瞬で放課後の教室へ引き戻された。

 二週間かけて震える手で書いたラブレター。

 それが男子たちに奪われ、「傑作ギャグ」として朗読されたあの日。


 笑い声。

 床ワックスのツンとした匂い。

 逃げ場のない、あの午後。


「張っているんだろう、そのガラス。

 でもね、内側から曇っているよ。

 ……可哀想に。あんた、あの日からずっと、笑われる前に笑い返す練習をしているだけじゃないかい」


 パフュームの香りが、霧散していく。

 喉の奥に、あの日の薬品の匂いが苦くせり上がった。


「やめて……急に、そんなこと言わないで。」

 自分でもわかった。頬がひきつっていた。声が震えている。

 その震えを隠すように、トキコが差し出した十円の「ラムネ菓子」を無造作に奪い、口の中へ放り込んだ。

 自分のプライドを壊すための、最も安くて痛々しい劇薬。

 シュワリ。


 舌の上で一瞬にして溶ける、暴力的な甘酸っぱさ。

 それは、かつて自分が持っていた「期待」や「情熱」そのものの味だった。


「……安物ね」

 そう言った声が、自分でも驚くほど弱かった。


 熱いほうじ茶を煽る。

 苦い。熱い。喉が焼ける。

 だが、その痛みが、過去の記憶を無理やり押し止めてくれた。


 トキコは、彼女の震える指先を見つめながら、静かに言った。


「自分を笑うのをやめな。

 あんたを笑った奴らと同じ顔で、誰かの夢を殺して回るのは、もうおしまいだよ」


 店を出ようとしたとき、真由の視線が古いガラスケースに止まった。

 そこに映る自分――完璧に整えたはずのメイク、隙のないスーツ。

 琥珀色の光に照らされ、それは厚塗りの、醜い仮面のように見えた。


 衝動的に、真由はガラスをハンカチで拭った。

 自分を隔ててきた「防弾ガラス」の象徴を、消し去るように。


「……消えなさいよ。こんな顔」


 拭っても、拭っても、曇りは消えない。

 内側から溢れた湿度が、視界を白く染めていく。


 バッグの中でぐしゃぐしゃになったラムネの空袋を握りしめる。

 カサリ――小さな、けれど確かな音が、逃げ場を塞ぐように響いた。


 駅のホーム。

 窓ガラスに映る自分の顔を見る。


 一筋だけ崩れたアイライン。

 それを見て「惨めね」と笑おうとした指が、止まった。


 横を、疲れ切った足取りで通り過ぎる老人の背中。

 その脆さが、なぜか自分と同じ「傷」を抱えているように見えた。


「……不味かったわね。あのお茶」


 その苦味が、まだ舌の奥に残っていた。


 空袋を握りしめたまま、人混みの中へとまぎれていった。

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