第33話 まだ、ここにいる

血の匂いがした。

さっきまで街に満ちていた死臭とは違う。


もっと近くて、もっと生々しくて、胸の奥を直接握り潰してくるような匂い。

リリスちゃんが、私の前で倒れている。


白かった服は赤く染まり、六枚の翼は力なく石床に広がっていた。

腹部に空いた傷口からは、まだ黒い魔力がじわじわと滲んでいる。


「リリスちゃん」


私は膝をつき、彼女の身体に手を添えた。


いつもの温かなぬくもりとは違って、ひどく冷たい。

私の魔力は、まだリリスちゃんの中に薄く残っている。

さっきまで確かにあった繋がりが、今にも途切れそうなほど細くなっている。


「メイカさん……」


ユウキくんの声が聞こえた。

心配そうな声だった。

でも、私は振り返らなかった。


「周囲をお願い。まだ何か残ってるかもしれない」

「……分かりました」


ユウキくんが剣を構える気配。助かった。

今の顔は、あまり見られたくなかった。


私はリリスちゃんの傷口に手を重ねる。

白金の魔力を流し込むと、黒い魔力がじゅっと音を立てるように薄れていった。


「っ……」


抵抗が強い。やはり、ただの傷じゃない。

ネクロマンサーの魔力が、リリスちゃんの身体の中に食い込んでいる。

普通に回復魔法を流すだけじゃ遅い。


このままだと、傷を塞ぐ前にリリスちゃんの身体が保たない。


「……ごめんね、リリスちゃん」


私はリリスちゃんの頬に触れた。意識はない。返事もない。それでも、私の魔力に反応するように彼女のまつ毛がわずかに震えた。


「……いつもしてるんだから、許してよね」


私は身を屈める。

ユウキくんが近くにいることは分かっている。騎士達が駆け上がってくる気配もある。

誰かに見られるとか、そんなことを気にする余裕なんてなかった。

一番効率よく魔力を流し込む方法。


それを、私は知っている。

私はリリスちゃんの唇に自分の唇を重ねた。


甘さなんてない。

余裕もない。

ただ、必死だった。


息を分けるように。命を繋ぐように。私の魔力を、直接リリスちゃんの奥へ流し込む。

白金の魔力が、彼女の身体に満ちていき、黒い魔力が押し出され、傷口から煙のように抜けていく。


「ん……」


リリスちゃんの喉が、小さく震えた。

その反応だけで、涙が出そうになった。


「大丈夫」


唇を離し、額を合わせる。


「絶対に助けるから」


もう一度、魔力を流す。今度は胸元へ手を当て、身体の奥に残った黒い魔力を探る。

……かなり深いところまで入り込んでいる。


でも、私の魔力なら届く。


だって、リリスちゃんの身体を形作っているのは私の魔力だ。この子の身体は私の魔力を知っている。拒まない。受け入れてくれる。


「戻ってきて」


私は震える声で言った。


「お願いだから戻ってきて。リリスちゃん」


白金の光が、リリスちゃんの身体を包む。

血で濡れた服が淡く照らされ、傷口が少しずつだが塞がっていく。完全ではない。まだ足りない。でも、確かに呼吸が安定している。


「……メイカさん」


背後から、ユウキくんの声がした。


「女神さまは……?」

「まだ危ない。でも、助ける」


私は振り返らずに答えた。


「絶対に」


ユウキくんは、それ以上何も言わなかった。

ただ、剣を構えたまま、私たちの背中を守ってくれている。

ありがたいと思った。

でも、言葉にする余裕はない。


私は再びリリスちゃんへ視線を落とした時だった。「メイカ」と背後から声がした。振り返る余裕はなかったけど、けれど、その声が誰のものかは分かる。


ケイ先生だ。


「街の状況は?」


私はリリスちゃんの治療を続けながら問いかける。手を止める気はない。

今、私が目を離したら、この子がどこかへ行ってしまいそうで怖かった。


「街中にいたゾンビや骸骨兵は消えた。術者が消えた影響だろう。残っていた死霊も、ほとんど塵になっている」

「……そうですか」


終わった。そう聞いても安心はできない。

だって、私の目の前にはまだ血に濡れたリリスちゃんがいる。


「腐食の魔女は?」

「無事だ。襲撃は受けていたが、返り討ちにしていた。今は戦えない市民の保護をしている」

「……あの人らしいですね」


顔見知り程度だが分かる。あの人なら、自分でネクロマンサーを倒すこともできた。

でも、きっとそうしなかった。街のあちこちで混乱が起きていた。

戦える者もいれば、戦えない者もいる。

腐食の魔女はこの街の主として、そちらを優先したのだ。


リリスちゃんがいるから。

女神が空にいて、死霊を祓っていたから。

だから、あの人は街を守る方に回ったんだ。


「……本当に、みんな勝手なんだから」


小さく呟く。


リリスちゃんも。腐食の魔女もケイ先生も。

誰も彼も、自分がやるべきことを勝手に決めて、勝手に動く。

その結果、こうして誰かが血まみれになる。


「メイカ」


ケイ先生の声が、少しだけ低くなった。


「リリスは?」


その問いに、私は唇を噛んだ。


「……まだ危ないです」


リリスちゃんの腹部に手を当てる。

傷は少しずつ塞がっている。

けれど、内側に残った黒い魔力がしつこい。

肉体を治しても、魔力の芯が削られている。

そこを戻さなければ、また崩れてしまう。


「でも、助けます」


私は言い切った。


「絶対に」


ケイ先生は、しばらく何も言わなかった。

ただ、倒れているリリスちゃんを見ている気配だけがあった。妹とは呼ばない。駆け寄りもしない。表情も変えない。それでも——


「……必要なものは?」


その声だけで、十分だった。


「静かな場所さえあれば、それで良いです」


ケイ先生はすぐに騎士達へ指示を飛ばした。

ユウキくんには腐食の魔女の元へ向かわせ、状況を伝えるよう命じる。

その間にも、ケイ先生は浮遊魔法で私とリリスちゃんの身体を持ち上げた。


「移動するぞ」

「……はい」


私はリリスちゃんの手を握ったまま頷いた。



* * *



前回、会談の時に泊まらせてもらった部屋へ移動し、リリスちゃんをベッドへ寝かせる。

白いシーツに、赤が滲む。

その色を見ただけで、胸が嫌な音を立てた。


「……っ」


駄目だ。見ている場合じゃない。怖がっている場合じゃない。私は震えそうになる手を押さえ込み、リリスちゃんの腹部に両手を当てた。


白金の魔力を流し込み、傷口を塞ぐ。

身体の奥に残った黒い魔力を押し出す。


何度も、何度も。それでも、リリスちゃんの顔色はすぐには戻らなかった。


「……メイカ」


ケイ先生の声が聞こえる。


「無理をしすぎるな」

「無理しないと助からないんです」


自分でも驚くくらい、きつい声が出た。


ケイ先生は何も言わなかった。ただ、部屋の扉の前に立ち、誰も入ってこられないようにしてくれている。

私はもう一度、リリスちゃんへ魔力を流す。


「戻ってきて……リリスちゃん」


どれくらいそうしていたのか分からない。

やがて、リリスちゃんの呼吸が少しだけ深くなった。胸が、小さく上下する。途切れそうだった魔力の繋がりが、細いながらも確かに戻ってくる。


「……っ」


助かった。そう思った瞬間、全身から力が抜けそうになった。でも、安心はできない。

傷は塞がった。黒い魔力も押し出せた。けれど、削られた魔力の芯まではすぐに戻らない。


リリスちゃんは眠ったままだった。


「……一命は取り留めました」


私は小さく言った。


「でも、しばらくは目を覚まさないかもしれません」


ケイ先生は短く息を吐いた。


「そうか」


それだけ。けれど、その声はほんの少し低かった。私はリリスちゃんの手を握る。冷たかった指先に少しだけ温もりが戻っていた。


その温もりに触れた瞬間、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。ネクロマンサーを殺した手。リリスちゃんを治した手。


同じ手だった。


「……私」


声が漏れる。


「殺したんだ」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。ケイ先生は何も言わない。責めない。

慰めもしない。ただ、静かにそこにいた。


その沈黙が、今の私にはありがたかった。

私はリリスちゃんの手を額に当てる。


「……起きたら、怒るから」


返事はない。

でも、繋がりはある。


リリスちゃんは、まだここにいる。


それだけで、今は十分だった。

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