第2話 静止した境界線

 食事を終えたソウセイは、まず隣の部屋の様子を窺った。

 扉を数センチだけ開けると、そこにはヘッドセットを装着し、デスクに向かって微動だにしないセイジの背中があった。オンライン授業の「ログイン状態」を示すランプが青く点灯している。


(……よし。あっちに意識が行ってるな)


 弟が仮想空間の教室に没入していることを確認し、ソウセイは自分の部屋へと戻った。

 これから行うのは、生活がかかった銀行との交渉だ。もし弟に口座凍結の事実や、自分たちの残高が数日分しかないことを知られれば、ただでさえ不安定なセイジの精神は持たないだろう。

 

 ソウセイは一人でパソコン前の椅子に座る。弟に聞かれることがなくなったのがわかり、思わず口について出た。


「ったくお兄ちゃんも楽じゃないぜ」


 デスクに鎮座するPCを前にして、ソウセイの指先がピタリと止まった。

 手袋をしていない。

 朝、キッチンの生成機に触れたときは何も起きなかった。だが、もしあれが単なる偶然で、この精密なPCに触れた瞬間に火花が散ったら? 今の自分には、端末を買い替える余裕など一クレジットも残っていない。


 数秒の葛藤の後、ソウセイは引き出しから使い古された特殊手袋を取り出した。薄い膜のような素材が肌に吸い付く感覚。


「……今は、博打を打ってる場合じゃない」


 自分に言い聞かせるように呟き、慣れた手つきでスイッチを入れた。


 まずはチャットツールで学校へ事務的な連絡を済ませる。


『母の入院手続きのため、一時間目の授業を欠席します』

 

 即座に、銀行のオンラインカスタマーセンターへ接続を試みた。数分の待機時間の後、画面には制服を着た若い女性のホログラムが表示される。


「担当の者です。どのようなご用件でしょうか」


「タナカソウセイといいます。両親の口座が凍結されている件です。不正利用の心当たりはありません。このままでは生活に困るんです。至急、解除を――」


「申し訳ございません。該当の口座はシステムにより、不正アクセスの疑いが検知され、保護されています」


「だから、それは俺か母さんの操作のはずだ! 詳細は教えてもらえないのか?」


「規定により、詳細は開示いたしかねます。解除には、ご本人様による生体認証が必要となります」


 一点張りだった。


 画面越しの女性の笑顔は完璧に調整されているがゆえに、ソウセイには冷酷な鉄仮面にしか見えなかった。


「……もういい。結構です」


 通信を切断し、ソウセイは乱暴に背もたれへ身体を預けた。

 隣の部屋からは何の音もしない。それがせめてもの救いだった。


 時計を見れば、すでに一時間目が終わる時刻だ。

 ソウセイは重い腰を上げ、二時間目の「ホームルーム」にログインした。

 彼の画面に映し出されたのは、仮想空間上の教室内を、各々のアバターで自由に歩き回るクラスメイトたちの姿だ。


「……あ、ソウセイ。またそんな古臭いつなぎ方して」


 画面中央に、一人の少女が現れた。オオミチカノンだ。


 彼女のアバターは、彼女自身の快活さを反映した鮮やかな色彩を放っている。カノンたちのように最新の「ボタン型デバイス」を使えば、感覚のすべてをSVに投影し、直感的に動き回れる。対してソウセイは、カメラで自室の自分を写し、動画をリアルタイムで共有する旧世代のスタイルを貫いていた。


「いいだろ別に。これでもお前らと大差ないしな」


「大ありだよ。ソウセイのアバター、動きがカクカクしてて、時々どっかの壁にめり込んでるし」


 カノンは茶化すように笑った。彼女は、母が倒れたことを知っている数少ない一人だ。だが、その話題に直接触れないことが、彼女なりの気遣いであることはソウセイにも伝わっていた。

 

「そういやお前のアバターなんか盛ってないか? ほら胸元とか特に」


 ソウセイに指摘され、カノンは自分の胸元を見てから間髪入れずにソウセイのことを殴った。殴ったことがわかったのはソウセイの視点が今まで見ていた黒板から明後日の方向へ急に切り替わったからだった。


「学校内のアバターは公式のしか使えないの! 顔も体も本物と全く一緒よ!」


 あさっての方向からカノンの声が聞こえる。

 ソウセイはマウスとキーボードを操作してどうにか前の視点に戻そうとした。


「なんで遅れたんだよ。おばさんの見舞いか?」


 無遠慮な声と共に、もう一人の幼馴染、サトウススムのアバターが割り込んできた。デリカシーの欠片もない問いかけに、ソウセイはカノンと同じように古くからの友人の優しさを感じた。

 その優しさに応えるように何事もないようにソウセイは返事をする。


「まあ、そんなところ」


 その言葉の裏で、ソウセイの指先は、手袋越しにキーボードを強く叩いていた。

 幼馴染たちの賑やかな声が響く仮想の教室。

 その光景が、今の彼には、そしてあまりにも遠い場所にあるもののように感じられてならなかった。


「……そんなことよりさ、一組のサイトウがどうやら自殺したらしいぜ」


 ススムが、投げ出すような口調で言った。


「そんなことより」という一言が、ソウセイの家庭の事情を乱暴に追い払う。話題の切り替え方があまりにも下手すぎて、むしろススムの不器用なまでの気遣いが透けて見えた。ソウセイは苦笑すら浮かべられなかったが、そのぶっきらぼうな優しさに毒気を抜かれたのも事実だった。


「そう!  朝からずっとその話題で持ちきりだったんだよ。ソウセイが遅刻してくるから」


 カノンが待ってましたとばかりに言葉を被せてくる。彼女もまた、重苦しい空気を一刻も早く教室の隅へ追いやりたかったのだろう。アバターが落ち着きなく左右に揺れている。


 一組のサイトウ。

 ソウセイも名前くらいは聞き覚えがあった。

 一週間前の入学初日から、一部の素行の悪い生徒たちの標的にされていた生徒だ。この『SecondVerse』という仮想空間が教育の場になって久しいが、画面の向こう側に人間がいる以上、陰湿な悪意が消えることはなかった。


「イジメは絶対ダメだけどさ……まあ、あいつも結構ヤバイ奴だったらしいぞ」


 ススムが、腕組みをするようなモーションを見せながら呟く。その声には、単なる噂好きの好奇心以上の、どこか薄気味悪さを感じているような響きがあった。


「ヤバイって、何がだよ。追い詰められていただけじゃないのか」


 ソウセイは声のトーンを少しだけ落として言った。

 追い詰められたら人は何をしでかすかわからない。

 今の自分もまた、現実に追い詰められている。一瞬自分と重なり、そうではないと心の中で言い聞かせた。


「いや、言動がだよ。なんでも『電脳硬化症は自分が救う』とか、わけわかんないこと周囲に言い触らしてたみたいなんだ。どっか変な宗教にでも入ってたんじゃないかって噂だぜ」


 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、ソウセイの心臓が不快な脈動を打った。


 電脳硬化症。


 その単語は、今のソウセイにとって、世界のどんな罵詈雑言よりも深く、鋭く神経を逆撫でする。

 聞きたくはないけれど、聞かなくてはならない。ソウセイは感情と責任が交じり合い、どうにか次の言葉を吐き出した。


「……詳しく聞かせてくれ。そのサイトウのこと」

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