第2話 辺境と、図書館の一冊

 婚約破棄の翌日。


 すべては、あまりにも早く決まった。


「エレノア様、新たな婚約先が決定いたしました」


 淡々と告げられたその言葉に、エレノアは一瞬だけ目を瞬かせた。


「……もう、ですか?」


「はい。辺境伯領グランディアを治める、カイル辺境伯でございます」


 あまりにも手際がよすぎる。


 通常であれば、婚約の再調整には時間がかかるはずだ。家同士の思惑、釣り合い、政治的判断――様々な要素が絡む。


 それなのに、たった一日。


 まるで、あらかじめ用意されていたかのように。


(……おそらく)


 心の中で、小さく息を吐く。


 王太子が、どこかの文官と手を回していたのだろう。


 “婚約破棄”と“次の処遇”を、同時に進めていた。


 そう考えれば、すべて辻褄が合う。


「……そうですか」


 それ以上は、何も言わなかった。


 今さら、何を言っても変わらない。


---


 ただ一つ、気になったのは――その相手だった。


「辺境伯……カイル様、ですか」


 名を口にすると、使用人はほんのわずかに表情を曇らせた。


「……あまり、社交の場には出られない方でして」


「そうなのですね」


「その……無口で無骨な方だと」


 言葉を選びながら、続ける。


「戦場での功績は大きいと聞きますが……一部では、人の命を何とも思わない冷徹な方だとも……」


 そこで、言葉が止まった。


 それ以上は言うべきではない、と判断したのだろう。


「……そう」


 エレノアは、静かに頷いた。


 怖い、と思わなかったわけではない。


 だが――


(どうせ、私の意思では何も変わらない)


 それに比べれば、噂の一つや二つ、どうということはない。


「準備を進めてください」


 それだけを告げた。


---


 そして三日後。


 エレノアは辺境へと向かう馬車に乗っていた。


 王都を離れるにつれて、景色は大きく変わっていく。


 整った街並みは消え、道は荒れ、建物もまばらになる。


 人の気配も、次第に薄れていった。


 ――遠いのね。


 物理的な距離以上に、“別の世界”へ向かっているような感覚。


 だが不思議と、心は落ち着いていた。


 王都に残したものは、何もない。


 あるのはただ――終わった過去だけ。


「……構わないわ」


 小さく呟く。


 むしろ、これでよかったのかもしれない。


---


 やがて馬車が止まり、御者の声が響く。


「到着いたしました」


 外へ出る。


 目の前に広がっていたのは、石造りの大きな屋敷。


 だが、その様子は――


「……」


 言葉を失う。


 壁にはひびが入り、庭は荒れ、手入れが行き届いているとは言い難い。


 人の気配も少なく、どこか静まり返っている。


 そして遠くに見える街もまた、活気に欠けていた。


 ――噂通り、ではなさそうね。


 “冷徹な支配者がいる土地”というよりは、ただ疲弊しているように見える。


「ようこそ、グランディアへ」


 低い声が響いた。


 振り向く。


 そこに立っていたのは、一人の男。


 背は高く、無駄のない体つき。

 装飾のない装いながら、その存在感は圧倒的だった。


「カイルだ」


 短い名乗り。


 無駄がない。


 確かに、無口で無骨という噂は間違っていないのだろう。


「エレノア・ヴァルディエールでございます。この度は――」


「形式的な挨拶は不要だ」


 言葉を遮られる。


 一瞬だけ、空気が張り詰めた。


 ――やはり、冷たい人なのかもしれない。


 そう思いかけた、その時。


「長旅だったろう。休め」


 それだけ、付け加えられた。


 短いが、必要な言葉。


 そこに無駄な感情はないが、拒絶もない。


「……ありがとうございます」


 自然と、そう返していた。


---


 部屋に案内され、荷を置く。


 ひと息ついたあと、じっとしていられず、屋敷の中を歩き始めた。


 静かすぎる空間。


 使われていない部屋も多いのだろう。


 廊下の奥に、埃をかぶった扉を見つける。


「……ここは?」


 そっと開く。


 きい、と小さな音。


 中に広がっていたのは――


「……図書館」


 思わず、息を呑む。


 天井まで届く本棚。

 ぎっしりと並ぶ書物。


 だがその多くは、長い間触れられていない様子だった。


「こんなにあるのに……」


 もったいない。


 そう思った瞬間、自然と足が動いていた。


 本棚に近づき、背表紙をなぞる。


 歴史、法、農業、経済――

 領地運営に関わるものも多い。


 気づけば、一冊手に取っていた。


 ぱらり、とページをめくる。


 懐かしい感覚。


 文字を追うごとに、世界が広がっていく。


「……」


 ふと、思い出す。


 これを“つまらない”と言われたことを。


「……ふふ」


 小さく笑う。


 もう、関係ない。


 そのとき。


 視界の端に、違和感が映る。


 少し奥まった場所にある一冊。


 他の本とは、どこか雰囲気が違う。


「……?」


 手を伸ばし、引き抜く。


 革張りの表紙。金の装飾。


 そして、タイトル。


『完璧なる悪役令嬢のための行動指針』


「……悪役令嬢?」


 思わず、呟く。


 奇妙な名前。


 だが、なぜか気になる。


 ページをめくる。


『不要な者には冷酷であれ』

『民を掌握せよ』

『敵の基盤を崩せ』


「……ずいぶん、極端ね」


 苦笑が漏れる。


 けれど――


 胸の奥に、何かが引っかかった。


 婚約破棄の夜。

 何も言えなかった自分。


 我慢してきた日々。


「……」


 本を閉じる。


 ゆっくりと、息を吐く。


 そして――


「……いいかもしれないわね」


 ぽつりと呟いた。


 どうせもう、“良い令嬢”でいる意味はない。


 ならば。


「悪役令嬢、か」


 その言葉を、静かに噛みしめる。


 怖くないわけではない。


 けれど、それ以上に――


 少しだけ、楽しそうだと思ってしまった。


「……やってみましょうか」


 静かな図書館の中で。


 エレノア・ヴァルディエールは、新たな一歩を踏み出す。


 ――もう我慢しないと決めた、その先へ。

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