二 ルイという青年がある朝目覚めると、

 スカーレットが黄泉の国に入る五年ほど前のこと。ルイという青年がある朝目覚めると、そこは黄泉の国だった。


 空はずっとコバルトブルーのままで、荒波のように揺れている。枯れた枝葉を組んでつくったみたいな桜や松のかたちの木立ての通りのまんなかで、踏みならされた鈍色の土を踏んで立っていた。木や土は湿っているのに風はからっとして気持ちがいい。


 困惑した青年はそこらを走った。風景はどこまでも変わりなく、遠くに山があり、木はどこまでも点々と、自然のかたちに並んでいる。山までも決してたどりつかない感じがして諦めた。暑くてウィンドブレーカーを脱いでセカンドバッグに積め、とぼとぼ歩いた。


 そこを死神に見つかった。死神たちはみんな身長が揃ってぴったり二メートルで、いろんな柄のカラベラのお面をつけ、ぶかぶかの大きな黒いローブを着て、肌と顔をまったく見せない。それは女性の死神だった。青年をかわいいと思ったらしい。


「僕、どうしてこんなところにいるの?」


 日本人の青年は追ってくるそれが恐ろしくてよく逃げたけど、死神のほんわかした声を聞いて驚いて、桃色の装飾が入った骸骨のお面を見つめた。なかは普通の人なのかもしれないと思って言った。


「わからないです。目覚めたら、ここにいて。お姉さん、助けて。」


 日本人の青年は三人兄弟の末っ子で、甘え上手だった。名前はルイと言った。高校受験に失敗して恋人や友人と離れて金額の高い学校に行って、両親に負担をかけていることを苦しく思っている青年だった。そのぶん実家の銭湯をよく手伝った。すこしひねくれていて、あまり賢くないけど、芯はまじめな青年だった。


「かわいそうに。めったにないことだけど、ごくまれにあることなのよ。坊やはここで暮らすのね。」


 桃色のお面をつけた死神はルイと一緒に歩いた。かわいそうだから、かわりにリュックとセカンドバックを持ってあげた。鎖鎌と一緒に肩さげにして、首をほとんど直角に曲げ、ルイを見つめてさらに言った。


「帰る方法がないことはないけど、いまのあなたにはとても無理。前にここにきた人は商売をやってた。それでうまくいって、それから帰って、現世でも商売で成功したみたいよ。あなたもきっとそうするといい。あなたのおうちの商売はなに?」


「……うちは銭湯です。お湯屋をやってます。」


 死神はすこし戸惑った。ルイがあんまり帰りたそうにしないからおかしいと思った。お客が全員こうなら、死神の仕事もすこしは楽になるのに、なんて考えていた。


「じゃあ、一緒にお湯を探しましょう。ここには鬼の集落や妖怪、魑魅魍魎があってうろうろしているから、私がいないと坊やはきっと、簡単に死んでしまう。」


 それからふたりは山にこもり、黄泉の国の活火山のそばを歩きまわって温泉を探した。ついに発見すると、ルイはせっせと木こりをして、こじんまりした銭湯を建てた。


 女の死神の紹介があったから、はじめは死神の客ばかりだった。仕事で人の生活に触れ、その営みに憧れている死神は多かった。死神たちのために脱衣所は極めて厳しく遮光して、肌を決してだれにも見せなくてすむように工夫した。


 そのうち鬼の集団が銭湯を訪れた。ルイはそれに備えていた。ほとんどの鬼たちが死神よりも身体が大きく、肉体自慢が多いから、むしろ遮光を抑えたかたちの、だだっぴろい湯船と洗い場と脱衣所を用意していた。鬼たちのかたい肌はとろんとした熱い湯につかってほぐれ、喧嘩でついた傷の治りがはやくなって喜んだ。


 噂を聞きつけた妖怪たちも訪れるようになった。彼らは鬼たちと一緒の浴場をつかうことに抵抗がなかったから、特別な用意はいらなかった。子供の鬼のための洗い場に座る砂かけ婆とか河童、ドラキュラや透明人間をもてなした。化け狐や狸もいた。


 そうしてルイが銭湯を開いてから五年が経った。改良を重ね、工夫をしたりひっこめたりして、銭湯はどんどんよくなった。ルイの知識にある料理を出す定食屋がついて、妖怪や鬼の従業員まで入り、二階のすみっこには芸者つきのお座敷までできた。



 ある真夜中、そこにひとりの生身の人間が運ばれた。服は肌着の長じゅばんとベルトに剣が下がっているだけで、意識はなく、年齢すらまるでわからない生気のない顔をしていた。身体は飢えた野良猫のようで、金色の髪は乾ききって触れるだけで千切れてしまいそうだった。でもいちばんひどいのはそのにおいで、あんまりにもかわいそうだった。


 ルイは待合室の畳に寝かせた、名前も知らないその人を見つめて頭を抱えた。鬼の力で彼女の身体を洗うには強すぎるし、妖怪には人を騙そうとするようなのもいたから、しかたなく自分の手で介抱した。温泉のお湯を持ってきて、脂ぎってしわがかたまった肌をぴちゃぴちゃ洗い、目を開けない彼女の口元に、レンゲでおかゆの上澄みをもっとうすめたようなものを運び、ぬるくした温泉のお湯をすこし飲ませた。


 少女はおかゆを食べないことのほうが多かったけど、ルイは二時間ごとに仕事の合間にレンゲを持って、少女の唇の反応を見た。夜中だって起きてそれをやった。


 ある男の死神は、ルイの献身を見てすこしあきれた。


「ここは黄泉の国だ。そんな干したアジのような人を、死なせてやったって、なんの罪にもならないし、僕らが始末もしてしまうよ。それにこまるんだよなぁ。その子は自分の意志でここに来ている。僕らの仕事と関係なくここに来られちゃあさ。僕らにだって魂の案内の、プランというものがあるから、それをくだらないことで崩すようじゃさ。その子が生きていて喜ぶ人は、ここにはだれもいないんだ。」


 それでもルイは規律を優先して少女に手をあげようとしない死神たちを褒めた。


 少女が目を開けた朝、ルイは河童たちと小躍りした。すこし声をかけて、若い女のやさしい鬼に少女をまかせ、番頭の忙しい朝の仕事をこなした。


「あなた、名前は?」


 少女は白熱電球の明かりに薄目を開けて、自分よりずいぶん背が高い、赤い肌のひとつ目の女の鬼と見なれない梁の天井を見あげた。かさぶたばかりの唇をぱくぱくさせて、畳にだらんと垂れたちぢれた髪を、ほんのすこし揺らしてささやいた。


「…………スカーレット・アンティ。」


 視界のはしでは化け狸たちが新しい変身の発表会をしていた。あるものは尻尾と耳が狸のままの銀の龍に化け、あるものはあまり似ていないルイに化けた。死神に化けて笑っていると、本物がきてわぁっと逃げた。スカーレットはそのうちまた寝ついた。


 若い女のやさしい鬼はスカーレットの冷たくてかたい手を握り、そっとキスをし

て、骨のかたちが浮かんだ顔を、じっと微笑んで見ていた。

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